第一部
一五時二三分(爆破まであと七分)
疑いが確信に変わった瞬間、すぐに堤をとり押さえられるようにしておく必要がある。
適任者は間違いなく道上だろう。
一八〇センチを超える身長に無駄のない引き締まった体格――元ラグビーのプロリーグ選手でタックルができる。瞬発力と腕力は申し分ない。
高岡は道上に目を向けた。
「道上先生、堤康介の顔がわかりますか?」
「いや……わからん」
道上は答えたあとで、気まずそうに唇を結んだ。
――この筋肉馬鹿が。
道上は三年生全員を指導しているので知っているべきだったが、全員を把握しきれていないのだろう。
養護教員の三橋に、パソコンからデジタル生徒名簿を呼びだしてもらう。そこに入学時に撮った顔写真が載っているはずだ。
丸顔で幼い顔つきの少年が映しだされた。
道上にその顔を見せる。
道上は、思いだすように目を細め、じっと画面に目を注いでいた。
――あと押さえておくべきは、堤の座席か。
高岡は六組を指導していなかったので知らなかった。
「誰か、このなかで六組の席順を知っている人はいますか?」
浦上京香が手を挙げた。
「わたしのスマホに入っています」
浦上のスマートフォンを受けとる。画面には、手書きで記された座席表の写真があった。指で画面を拡大する。
堤の席は――前から三番目、窓際から二列目……。
――くそっ、かなり前のほうにあるな。
いまはリスニング試験の時間だが、試験終了まであと七分だから、放送は終了しているかもしれなかった。そうなると、生徒たちが解答を書いている静まり返った部屋に入っていくことになる。
引き戸を開けば、何人かは音に気づくだろう。そのうちの誰かが振り返るかもしれない。そこに緊張しきった道上の顔があれば、異様に思うはずだ。
――そうか。教頭が使えるかもしれない。
教頭は、普段からテスト中に巡視目的で教室に入っていく。教頭が引き戸を開けても、生徒たちは何も思わないだろう。ただの巡視だと思って顔を答案用紙に戻す――その直後、教頭の背後から道上が身体を屈めて一気に教室に入り、堤をとり押さえる――。
難しいが、現状、これがベストだ。
高岡は、浦上に席順を写した写真のデータを自分のスマートフォンに送ってもらうと、立ちあがった。
「わたしと教頭と道上先生の三人で行きます」教員たちに告げる。
教頭が、えっ、と驚いた声を出した。
「ど、どうして、わたしも行く必要があるんですか?」
教頭にしてもらいたいことを伝えると、教頭の顔からみるみる血の気が引いていった。
佐久間が手を挙げた。
「僕たちは、どうしていたらいいですか?」
「ほかの人たちは……四階から降りないで、廊下の救助袋のそばで待機していてください。もしも、爆発が起こったとき、素早く避難できるように」
各階に救助袋が設置してある。火災などで階段が使えなくなったとき、地上へ避難するための筒状の避難器具だ。
実際に、あれだけのC-4が爆発すれば、一瞬でこの階も吹き飛び、避難袋を使う暇もないだろうが、何かしら希望を与えておきたかった。ここで騒がれてはまずい。
それ以上、誰も何もいわなかった。
高岡は、顔面蒼白の教頭と、緊張で顔を強張らせている道上を連れて情報科室を出た。
三人で西側の階段を使い、早足で三階へおりる。距離はあるが、こちらをまわれば、教室の後部から入ることができる。
教頭はふらつきながら階段をおりていた。道上はしっかりとした足取りだったが、早くも汗だくになっている。
高岡は階段をおりながら、もう一度、頭のなかで堤をとり押さえる場面を想像した。
人違いをしたら一巻の終わりだ。この日にかぎって席を替わっている可能性は少ないだろうが、念のため、教室の前方から堤を確認したほうがいいだろうか?
いや……高岡と目が合ったとき、堤は何かを察するかもしれない。やはり普段と同じ席に座っていると信じて、行動したほうがいい。
高岡は三階の踊り場で立ち止まり、ふたりにスマートフォンのなかの座席表を見せた。もう一度手順を説明する。教頭が何気ない顔つきでドアを開け、そのあと少し間を置いて、道上が教頭の背後から教室に入り、一気に堤をとり押さえてほしいと。
教頭は震えるように頷き、道上は低い声で「わかった」といった。
問題は……堤が犯人ではなかった場合だ。
もし、そうだった場合、話はまるで変わってくる。もう完全に打つ手がない――。
スマートフォンを確認する。まだ吉住からの電話は来ていなかった。
――吉住は何をやってるんだ!
三人は三階の踊り場で、吉住からの電話を待った。
タイマーを食い入るように見つめる。
残り時間は――五分二二秒、二一秒、二〇秒……。
道上が高岡に囁いた。
「ほんとに三年生なのか?」
「え? 犯人ですか。そうです。受験が近いといっていたので、この点は間違いありません」
「……そうか。一年生なら、当てはまる奴がいるんだけどな」
「どういう意味ですか?」
道上が太い眉を寄せて高岡を見た。
「ラグビー部にいる雑賀恭弥って奴だ。父親はもう死んでるんだが、画家だったそうで、その父親と一緒に小学生のころにアムステルダムに行ったことがあると聞いたことがある。でかい犬を飼ってるし、兄弟もいる」
「兄ですか、弟ですか?」
「兄だ。確かF高校に通ってるはずだ。三年生だったと思う」
――F高校……。
ここから二キロほど離れたところにある公立高校だ。
突然、手に持ったスマートフォンが震え、高岡はびくりとした。
吉住からだった。
「どうだった?」
『違いました! 堤じゃありません。堤は兄弟もいなくて、犬も飼ってません』吉住が息せき切って話した。
――堤が犯人ではない?
『聞こえましたか?』
返事をせずに電話を切る。
――ということは、つまり……。
思考が目まぐるしく回転する。
霞の話によると、犯人は覆面をして、レインコートを着ていた……それは自分の身元を知られたくなかったからだろう。であるなら、別の高校の生徒が偽装した可能性はあるだろうか? 弟の学校――つまりうちの学校の制服をレインコートの下に着ていたとしたら……間違った答えを与えれば、自分の身元を隠すことができる……。
――そうだ。それなら、すべてが繋がる! 犬もアムステルダムも受験生であることも!
「おい、どうなったんだ? 吉住からの電話だったのか?」道上が聞いてくる。
高岡は無視してスマートフォンで、ある連絡先を探しはじめる。
「高岡先生、どうなったんですか?」教頭も声を出す。
「少し黙ってろ!」
指先は汗でぐっしょり濡れていた。うまく画面が操れない。
「でも、どうなったかぐらい話してくれないと……」と教頭。
連絡先をスクロールしながら教頭に向かって怒鳴った。
「雑賀の兄が犯人なんですよ!」
「え?」
なおも教頭が何かをいっていたが、もはやその声は高岡の耳には入らなかった。
連絡先をスクロールしていく。画面の端の時刻表示が目に入る。三時二六分。あと四分――まだ間に合う。
確か連絡先を交換したはずだが……県の国語科の研究会で知り合ったF高校の教諭だ……くそっ、名前はなんだったか……。好きな小説の話で盛りあがったのだが……「う」からはじまる名前だったと思うが思いだせない。
額から汗が流れ落ちて、目にかかる。スマートフォンの画面にも汗が滴る。
画面を「う」の欄まで滑らせ、順に名前を見ていく。
――〈上原〉〈植松〉〈浮田〉〈宇佐美〉〈内田〉……違う。もっと堅苦しい感じの名前だった――〈海野〉〈梅田〉……。
――そうだ!
〈宇佐美隆司〉
タップする。
残り時間は、三分台に入っていた。
――出ろ、出ろ、早く出てくれ!
F高校でも同じ模試がおこなわれている。終了時刻も同じ午後三時半。クラス担任をしている宇佐美は試験監督をしている可能性が高い。もうすぐ試験が終わる時刻なので、着信に気づいても、あとでかけ直そうと思うかもしれなかった。
電話を切り、今度はF高校の代表電話を検索する。番号を見つけて、タップ。
呼び出し音。
――すぐに出ろ!
今度は二コール目で事務員が出た。
高岡は相手に話させずに一気に捲し立てた。
「わたしは聖マリアーノ学院の高岡と申します! すぐに宇佐美教諭を呼びだしてください。緊急です! テスト中なのはわかっていますが、テストが終わってからでは遅いんです!」
呼びだす相手は宇佐美でなくてもいい。だが、相手に信用させるには、こちらを知っている人間でなければならなかった。
『えっと……もう一度、いっていただけますか? どういった用件でしょうか?』のんびりした口調で事務員はいった。
高岡はこみあげる怒りを抑えつけて話した。
「ですから、すぐに宇佐美先生を呼びだしてほしいんです! 大至急、伝えないといけないことがあるんです。テストが終わってからじゃ遅いんだ! 人の命が懸かっていることなんです!」
『そういわれましても……』
そのとき、着信が入った。
――宇佐美からだ。
こちらの着信に気づいて折り返してきたのだ。
すぐに電話を切り替えた。
「宇佐美先生、以前研究会で会った聖マリアーノの高岡です」高岡は早口で話した。
『ええ……覚えていますよ。何かありましたか?』
宇佐美は小声で話している。教室から廊下に出て、かけてきているのかもしれなかった。
「いまどちらにいますか?」
『……F高校ですけど』
「高校のどこです!」
『しょ、職員室です……」高岡の勢いに押されて宇佐美が口ごもる。
宇佐美は試験監督をしていなかったようだ。
「三年生に〝雑賀〟という名前の男子がいますよね」
『ええ……いますが』
「〝雑賀〟はひとりだけですか?」
『……ひとりしかいませんが』
「よく聞いてください。そいつが爆弾を持っています。C-4という強力な爆弾です。模試の終わりに爆破させる計画です。こちらに連絡があったんです。爆破予告ですよ!」
返事が聞こえなくなった。
「もしもし、聞いていますか?」
『え、ええ、聞いています……爆弾、ですか? それは、いったいどういったものなんでしょうか?』
――くそっ、まどろっこしい。
「殺傷力のある爆弾だ! 大勢の被害者を出したくなければ、試験が終わるまでに雑賀をとり押さえてください!」
そこが教室に近い踊り場であるにもかかわらず高岡は大声を出した。
『ですが……もうすぐ模試は終わりますよ』
模試終了まで、あと二分を切っていた。
「わかってます! だから、急がないといけないんです! あとで問題が起これば、全責任はわたしがとります。だから、すぐに雑賀をとり押さえてください! 模試が終わる前に! これは冗談でもなんでもなく、事実です。数百人の生徒の命が懸かってるんです。秋山小学校の爆破事件があったでしょう。あれも雑賀の仕業です!」
高岡の剣幕に、宇佐美はかなり動揺しているようだった。
『わ、わかりました……』
ようやく事態が飲みこめたのか、まだ電話は繋がったままだったが、宇佐美が誰かと話す声が聞こえた。
宇佐美の声が戻ってきた。
『そういう通報があったのですね』
「そうです! 頼むから信じてください。雑賀が相談した精神科医が、間違ってこの高校に連絡してきたんだ! すぐに行動してください。あなた自身の命も懸かってるんだ!」
また宇佐美の声が聞こえなくなった。まだ電話は繋がっているようで、職員室で誰かが話し合っている声が聞こえてきた。何をいっているのかまでは聞きとれない。
それから、ドアが開く音、パタパタとスリッパで走る音が聞こえた。
――残り一分を切った……。
突然、通話が切れた。
――くそっ、伝わったのか、伝わってないのか……。
すぐにリダイヤルしたが、呼び出し音だけが鳴り続ける。コールし続ける。
あと数十秒しかない。いまかかっても間に合わないし、余計な時間を使わせないほうがいいかもしれない。電話を切る。
スマートフォンにセットした一五時三〇分までのタイムリミットが一秒ずつ減っていくのを凝視する。
三九、三八、三七……。
高岡はいらいらと踊り場を歩きまわった。喉が異常に渇く。道上と教頭は呆然とした顔つきで高岡を見ていた。
――もっと違ういい方をしたほうがよかったのか? いや、もっと早くに気づくべきだったのだ。俺なら気づくことができたはずなのに……。
残り三〇秒を切った。
二九、二八、二七……。
数百名の命がこんなことで奪われるのか……。くそっ、向こうでは何が起こってるんだ?
二〇、一九、一八……。
この瀬戸際になって、無駄に時間を過ごしたことを後悔した。あと一分、いや、ほんの数秒でも早く動いていれば違った結果になったかもしれなかった。
身体が熱い。汗が次々と噴きだしてくる。
一一、一〇、九、八、七、六、五、四、三、二、一――。
アラームが鳴った。
と同時に学校のチャイムが校舎に鳴り響いた。
模試が終了したのだ。
全身が硬直した。普段は気にも留めないチャイムの一音一音が、異常に長く鳴っているように感じる。
チャイムが鳴り終わったあとも高岡は身じろぎせず、その場に立ち尽くした。
道上と教頭は、ぎょっとした顔つきのまま固まっている。
遠くからテスト終了時のざわめきが聞こえてくる。
いつもと変わらない生徒たちの声――。
高岡は、わずかに息を吐いた。呼吸が震えている。
教頭が、目を大きく見開き、あたりを見まわしながら恐る恐る口を開いた。
「ば、爆発は起こっていませんよね」
高岡は教頭を見た。
「ええ……ここでは起こっていません」
教頭が、全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。道上がさっと教頭の身体を受け止める。
「ほんとによかった……」
教頭は道上の身体にしがみついた。
教頭を支えながら道上が高岡に尋ねた。
「F高校が爆破先だったのか?」
「……まだわかりません」
高岡は踊り場の窓を開けた。身をのり出して、F高校のある方向を見る。
煙は見えなかった。
風が吹き抜け、火照った顔を撫でていった。
一五時四一分
高岡は、まだ三階の階段の踊り場にいて、窓の外――F高校のある方角を見続けていた。
模試が終了したあと、各教室ではショートホームルームがおこなわれているはずだった。
窓の向こうも日常のままであるように見えた。
教頭と道上は、ほかの教員たちに説明するために情報科室に戻っていた。説明とはいっても、わかっているのは、犯人がこの学校の生徒ではなくF高校の生徒だった――ということまでだが。そのあとどうなったかはわからない。
とにかく、この学校では爆破は起こっていない。
気がつくと、高岡のスマートフォンが振動していた。いつから着信していたのかわからなかった。
F高校の宇佐美からだった。
はっとして、画面をスワイプする。
「もしもし、高岡です」
『ああ、高岡先生、やっと繋がった。間に合いましたよ』
「え……間に合ったんですか? やはり雑賀が持ってたんですか?」
『ええ。雑賀斗真が爆弾らしきものをバッグに隠していました。座席が一番後ろなので、うまく気づかれないように捕まえることができました。いま本人から話を聞いているところですが、高岡先生がおっしゃったように、模試の終わりにそれを爆発させるつもりだったようです。まだ、これが本当に爆弾なのかどうかわかりませんが……ともかく本人はそう主張しています。さきほど警察にも連絡しましたから、すぐに警察が来ると思います』
「誰も死んでないんですか?」高岡は思わず訊いていた。
『え? 誰も死んでいません。全員無事です。高岡先生のおかげですよ。本当に危ないところでした』
――全員無事……。
「……やった」
壁に背を預け、ずるずるとしゃがみこんだ。
電話を切ったあとも、しばらくその場から動けなかった。全身に力が入らなかった。
階下で、生徒たちが賑やかに教室から出てくる音が聞こえてきた。ショートホームルームが終わったのだ。
女子生徒たちの声が聞こえる。
「きょうのテスト、どうだった?」
「もうサイアク。世界の終わりって感じ」
いまから生徒たちは、帰宅したり練習試合に向かったり、それぞれがしたいことをするのだろう。
それが、ごく当たり前のことであるかのように……。
一六時一二分
高岡は職員室の自分の席に座り、半ば放心状態でほかの教員たちと一緒に教頭の話を聞いていた。
教頭が、行事予定の書かれたホワイトボードの前で今回の事件について話していた。
「ここにいらっしゃる人たちのなかには、まったくご存じない方もいらっしゃるでしょうが、本日、非常に恐ろしいことになったかもしれない出来事がありました」
職員室には二〇人ほどの教員が教頭の話を聞いていた。はじめてこの事件のことを聞く者も半分ぐらいいるだろう。
あのあと、ふたたび宇佐美から連絡があり、F高校で何が起こったのか高岡は詳しく聞いていた。
警察の調べによると、F高校三年生の雑賀斗真が持っていたのは、紛れもなくC-4で、爆破される寸前に食い止めることができたが、もしも爆発していれば大惨事になっていたという。
教頭が話している。
「いいですか。今回の件を生徒たちに伝えるのは、くれぐれも控えてくださいね」
生徒たちの動揺を招かないためと教頭は説明したが、それは建前に過ぎない、と高岡は思った。
最初に爆弾の存在が疑われたのが聖マリアーノ学院だったことを、保護者に知られたくないのだろう。
自分の子どもが爆発に巻きこまれていたかもしれないと知れば、保護者たちはかなり動揺するはずだ。勢い、この学校の危機管理体制に疑問を持つ者も出るかもしれなかった。
今回の事件を知らなかった教員たちは、寝耳に水といった様子で、驚いた表情を浮かべながら教頭の話に聞き入っている。
教頭の話に高岡の名前が出てきて、教員たちが一斉に高岡に顔を向けた。
「高岡先生の活躍のおかげで、F高校の爆破が防がれたのです」教頭は高岡が何かの賞で表彰されたかのように誇らしげな口調でいった。
教員たちのなかには、感嘆の眼差しを向ける者や、小さく拍手している者もいた。
高岡はそういった称賛をすべて無視して、無表情のまま教頭をまっすぐに見つめていた。
頭のなかで、今回の事件を反芻していた。
――どこか納得がいかない……。
確かに、この事件は形の上では解決したように見えるが、腑に落ちない点がいくつかあった。
まず、霞と連絡がとれなくなっていることだ。宇佐美から、雑賀が爆弾を持っていたと電話を受けたあと、何度か霞にそのことを伝えようと電話したが、彼女は電話に出なかった。
雑賀が「いま爆破を考えているのは自分だけではない」と宇佐美に話したことも気にかかる。
宇佐美によると、雑賀は本物のC-4を大量に持っていて――霞の話した通りそれは父親の遺品だったらしいが――それをダークウェブを通してほかの者にも売ったらしかった。M駅のコインロッカーを使って取引したということまで話しているらしい。その量は自分の持っているものよりもはるかに多く、雑賀はその人物に触発されて自分も爆破事件を起こそうと考えたのだという。
一番腑に落ちないのは、雑賀が霞という名の精神科医を知らない、といったらしいことだ。
こういった事件を起こそうとする少年だから、まともな精神状態ではないだろうし、嘘をついている可能性もじゅうぶんに考えられるが、そんな嘘をつく理由があるだろうか?
教頭が、事件の話を終え、模試の回収手続きの話をはじめたときだった。高岡のスマートフォンが着信を告げた。
今朝登録したばかりの番号――霞からだった。
――やっと折り返してきたのか。
スマートフォンを持つ手を挙げて、教頭に電話がかかってきたことを示して立ちあがった。
廊下に出ると、正面の二年一組の生徒が数人教室に残って話しているのが見えた。
高岡はスマートフォンの画面に指を這わせて電話に応答した。
「もしもし――」
『高岡さん、いま話しても大丈夫ですか?』
「ええ、大丈夫ですよ。わたしのほうも何度か電話していたんです。無事に爆破をとめることができました」
返事がない。
――聞こえなかったのだろうか?
高岡は続けた。
「あなたを監禁して爆弾を持っていたのは、この学校の生徒ではありませんでした。F高校の生徒で、名前は雑賀斗真です。弟の制服を着て、あなたのところに行ったんです。霞さんも警察に行って事情を話したほうがいいでしょう」
やはり返事がない。
「もしもし、聞こえていますか?」
そこで、ようやく声が返ってきた。
『わたしは警察には行けませんよ』
「……どうして行けないんです?」
『そんなことをしたら、わたしが警察に捕まりますから』
――この女は何をいってるんだ?
生徒がすれ違いざまに挨拶をしてくる。
「ああ、さよなら」
笑顔で生徒に応じながらスマートフォンに向かって声を落とした。
「……なぜ、あなたが警察に捕まるんですか?」
『わたしが本物の霞さんを監禁したからです』
――本物の霞?
「どういう意味ですか? あなたが霞さんでしょう?」
電話の向こうで、ふっと息を漏らすような笑い声がした。
『わたしは霞ではありません。あの爆破を阻止するためにあなたを利用した者です。そのために、あの精神科医を監禁して彼女のふりをしてあなたに電話したんです』
「利用って、どういうことですか?」
話の方向がまるでわからなかった。生徒たちのいる場所では話しにくい内容だと感じ、非常階段に向かって歩きはじめる。
『利用というのは、あなたに爆弾犯を見つけさせることですよ。わたしの邪魔をされないように』
「……さっきから、いったいなんの話をしているんです?」
『わたしの爆破計画を邪魔されたくなかったという話です。だから、警察ではなくあなたを使ったんです。あなたは、わたしの予想通り、うまくやってくれた』
頭のなかが混乱する。
階の突きあたりまで来て、非常階段のドアを押し開けた。非常階段には誰もいなかった。ここからグラウンドが見える。早くもサッカー部の生徒たちが集まっていた。練習試合をするためだろう。きょうは皆青いユニフォームを着ていた。
「いま、爆破計画といいましたか?」
風の音に混じって、スマートフォンから女の声が聞こえた。
『そう。それがわたしの本当の目的』
その声は今朝話した霞と名乗った女と同じだったが、話し方がずいぶん違っていた。いま聞こえるのは傲慢で強気で――まるで別人だ。
雑賀少年が自分以外に爆破計画を練っている者がいるといった話を思いだした。この女がその人物なのだろうか?
「これは何かの冗談なんですか? もう爆弾事件は終わったんですよ」
『まだ終わってなんかいませんよ。これからはじまるんです』
――これから?
『あなたの大事なその学校を失いたくなかったら、よく聞いてください。わたしはきょうの午後七時に聖マリアーノ学院を爆破します。そのために大量のC-4をその学校に仕掛けました。わたしが持っているものが本物だということは、雑賀という少年が持っているものを警察が調べたからわかるでしょう。わたしは彼からそれを買ったのですから。きょうの生徒の最終下校時間は七時ですよね。生徒たちを救いたいなら、それまでに全員を帰宅させておくことですね』
「ちょ、ちょっと待ってください。話が全然見えませんよ。爆破って……どうして? いったい、あなたは何者なんです?」
『わたしは――シャイロックとでも名乗っておきましょうか。あなたと契約する者です』
――シャイロック? 何をいってるんだ、この女は。
「契約って……なんのことです?」
『爆破を回避するために、ひとつだけ条件を与えます。その条件を満たせば、爆破をやめます』
「条件?」
『午後七時までに、あなたが宮坂希子の居場所を話し、わたしが彼女の無事を確認できた場合にかぎり、爆破はとりやめます。これが条件です』
――宮坂希子?
突然の展開に頭が麻痺しそうになる。
「宮坂は……行方不明になっている少女でしょう。この学校の生徒ですが、そんなこと、わたしが知るわけがないでしょう」
『知らないといい張るのもいいでしょう。その場合は、あなたの学校が爆破されるだけです。わたしはあなたが宮坂希子を誘拐し、監禁していることを知っています。期限は午後七時です。それまでにどうするか、あなたが決めてください。警察に頼りたければ、頼ってもらっても構いません。ただし、わたしは宮坂希子の居場所が聞けなければ、あなたの学校をかならず爆破します。わたしが本気であることは、あの少年の件を通して理解しているはずですよね。それでは、連絡をお待ちしています』
そこで電話が切られた。
高岡は茫然と地上を見つめた。
青いユニフォームを着た生徒たちが散り散りになって、グラウンドに広がっている。
――いったい、なんなんだ?
この女は、どうして……俺と宮坂の関係を知ってるんだ?