九時三五分(爆発まであと五時間五五分)
高岡はスマートフォンに登録している「安永雄太」に電話をかけた。卒業生で神奈川県内のX署の刑事をしている男だ。十年前以上に卒業した生徒だが、いまだに交流があった。長い付き合いになる。
安永はすぐに電話に出た。
『おはようございます。先生、なんすか? ずいぶん早いですね』
「……ちょっと聞きたいことがあってね。このあいだ、秋山小学校で爆破事件があったろ」
『ええ、ありましたね。ひどい事件すよ。全壊ですよ。被害者がいなかったから、よかったすけど』
「まだ犯人は見つかっていないのか?」
『僕は担当じゃないすけど、まだみたいですね』
「うちも学校だから気になってるんだけど……あの事件はどこまでわかってるんだ?」
『……どうすかね。まだ発表はしてないみたいすね』
「何か情報はまわってきてないのか?」
『すいません。管轄が違うと、全然入ってこないんすよ』
「どんな爆弾が使われた、とかも聞いてないのか?」
『かなり強力なやつが使われたみたいっすね。軍用じゃないかって噂で聞きましたけど』
――軍用……。
「C-4じゃないのか?」
『あ、そうそう。C-4っていってましたね。え? 先生、なんで知ってるんすか?』
「いや、さっきお前が軍用っていって、前に映画でそういう爆弾をアメリカ軍が使うと聞いたことがあったから……」
『ああ、映画にはよく出てきますかね。日本じゃ持ってるのは自衛隊ぐらいすけど』
それから近況を二三言交わして電話を切った。安永は違和感を覚えたかもしれないが、ほかの警察官に口外するような真似はしないだろう。
それよりも、一刻も早く問題の生徒を特定しなければならなかった。秋山小学校を爆破したのは、やはりそいつに違いない。
高岡は静かにドアを開けて職員室を出た。動揺をなんとか押さえつける。
テストの日特有の静寂があった。職員室の前は二年一組の教室がある。窓ガラスの向こうに試験に打ちこむ生徒たちの姿が見えた。
もしも少年が持っている爆弾が爆破すれば、一瞬のうちに彼らの命がなくなるという現実がいまだに信じられなかった。
毎年、夏休み明けのこの時期に全学年で、夏休み明けの全国統一記述模試をおこなっていた。科目は三教科。国語、数学、英語、リスニングの順におこなわれ、近隣のほとんどの高校もこのテストを採用している。
静まり返った教室の前を歩いていく。
この学校の全校生徒は八九八人。
校舎は四階建てで、一階に一年生、二階に二年生、三階に三年生の教室が並んでいる。創立当初は女子高だったが、少子化の波を受け、二〇年ほど前から男女共学へと移行していた。
この校舎を建てたのは、高岡の祖父だった。いまから半世紀ほど前、経営難に陥っていたミッション系の高校を買いとり、大規模な改築を施して現在の姿へ生まれ変わらせたのだった。今年で創立六二年。祖父自身は信仰とも教育とも縁のない人生を送り、不動産で財を成した人物だ。
教育方針に口を出すことは一度もなかった祖父だが、建物の意匠だけには並々ならぬ執着を見せた。改築した校舎は赤煉瓦造りで、中央には尖塔を戴く時計台が空へ伸びている。
その甲斐あって校舎は映画やドラマのロケ地としてたびたび使われ、学力や進学実績だけでなく、この雰囲気に惹かれて入学を決める生徒も少なくなかった。
高岡は二階の端まで行き、階段を静かに下りた。
向かう先は一階の保健室だった。養護教諭の三橋みちるなら、生徒の身体測定のデータを管理している。
その記録があれば、体格という条件から犯人をふるいにかけられるかもしれない。
「え、高校生の体格変化の調査ですか? それで生徒の保健データを見たいんですか」
三橋は小さく首を傾げて高岡を見た。保健室には、ほかに誰もいなかった。
「ええ、そうなんです。制服を製作している会社から、今後のデザインの参考にしたいといわれまして」
この話はもちろん嘘だ。事情を知る人間はできるかぎり少なくしたかった。ただ三橋が管理している、生徒の保健情報のシステムを見せてほしいだけだった。
三橋は緊張しているのか耳にかかる髪を触った。
高岡より一〇歳若い、三一歳。大病院でER勤務をしたあと、昨年この学院に養護教諭としてやってきた女性だ。
生徒たちと話すときは穏やかだが、教員と話すときはいつも微かに緊張しているように見える。バレエダンサーのように首が長く、細い首に筋が浮きあがっていた。ストレートの髪を耳にかける際に見える首もとの小さなほくろが印象的な女性だった。
「制服デザインも高岡先生の担当なんですか?」
「わたしがデザインするわけではないですよ。その会社と交渉するだけです」
三橋は眉のあいだに細い縦皺をつくった。
「この学校に来てから感じていたことですけど、高岡先生の仕事量はかなり多いですよね。今度の文化祭も高岡先生が責任者になっていますし、陸上部の顧問もしていますよね」
「まあ、立場上、仕方ないですね。校長があまり働かないもので」
高岡は身内を卑下し冗談めかしていったが、これは事実でもあった。父である高岡槙生は、ほとんど学校に姿を見せなかった。もともと昆虫学者を志していた父は、祖父に半ば強引に校長の座に据えられたような人だった。必要最低限しか現れず、実質的に教頭の巽和彦と高岡がこの学校のすべてをとり仕切っている。
「学校外でも、卒業生の教え子と夜回りをしていると聞きました」
「いつこの学校の生徒が何かの事件に巻きこまれるかわかりませんからね」
「……こんなことをいうのは差しでがましいようですが、高岡先生は、もう少し仕事をどなたかと分担し合ったほうがいいんじゃないかと思います、先生が倒れられたら、この学校はかなり困ったことになりますよ」
「よくそういうことをいわれますけど、いなくなったらいなくなったで、組織というのはなんとかなるものですよ。……で、さきほどの件ですが、どうですか?」
三橋は細い人差し指を顎にあてて考えるそぶりを見せた。
「そうですね……。体格の変化ということですけど、とくにこの学校だけ平均から外れているということはないと思うので、全国平均を調べたほうがいいと思います。身体に関する情報を利用するには本人か保護者の同意が必要になりますから」
もっともな話だった。
個人情報保護の観点から、その運用方法は正しい。
まわりくどいことをしている時間はない。
高岡は室内を見渡した。カーテンの向こうのベッドに誰もいないことを確かめる。
「椅子に座ってくれませんか」
三橋が怪訝そうな顔を向けた。
「どうしてここへ来たのか、お話しします。――さっきの話は、すべて嘘です」
霞からの電話の内容をすべて聞き終わった三橋は、薄い唇を微かに開き、信じられないといった顔をした。普段から白い顔がさらに白くなっているように見え、握りしめた小さな拳の骨が浮き出ている。
高岡は回転する丸椅子に座り、三橋と向かい合った。
「冗談ではありませんよね?」三橋が訊いた。
「こんな冗談はいいませんよ。これは現実の話です」
三橋はドアのほうに顔を向けた。
「〈こどもこころホットライン〉のことは知っています」
保健室のドアにもそのポスターは貼られていた。
「霞さんのことも知っていますか?」高岡は尋ねた。
ふたりの前にあるデスクトップのパソコンで霞メンタルケア・クリニックのホームページを開いて、霞の写真を見せた。
三橋は首を振った。
「いえ、知りません。ポスターから、そういう電話サービスをしている方だとは知っていましたが……。でも、これが事実だとしたら、本当に警察に通報しなくていいんでしょうか?」
「霞さんは、その生徒の精神状態を分析してそのほうがいいと断言しています。わたしも同じ考えです。警察が動きを見せれば、即座に起爆スイッチを押される恐れがあるんです」
「でも、その生徒を特定して、そのあとはどうするんです? 高岡先生ひとりで、とり押さえるつもりですか?」
「そのときは、道上先生にも協力を頼みますよ」
体育教諭の道上慶介は、かつてはラグビーのトップリーグで活躍していたほどのアスリートだ。高岡と同じ大学の先輩だった。五つ上の四六歳だが、日ごろの鍛錬を欠かさなず、いまも引き締まった肉体を保っている。
図体はでかいが、猫カフェに通うのが唯一の趣味だという変わった男でもあった。生徒と遭遇するのが恥ずかしいらしく、ずいぶん遠くの猫カフェまで行くと聞いている。いま道上は二年四組の担任でテスト監督中のはずだった。
三橋は眉間に皺を寄せ、険しい顔つきをした。
「でも、これだけの情報で見つけられるでしょうか?」
三橋の視線の先のデスクの上には、高岡が霞から聞きとったメモが置かれていた。
「警察が調べても同じようにしかできないですよ。いや、むしろわたしたちのほうが調べるのに適しています。生徒たちのことをよく知っていますから」
三橋が顔をあげた。
顔色がさらに白くなっていた。
「さきほどの話では、霞さんが電話で相談しているときに、その生徒は『ゴドー』というニックネームを使ったと話していましたよね」
「ええ」
「そのニックネームは本当の名前に近いということはないでしょうか? たとえば、〝後藤〟とか? あるいはそのまま〝ゴドウ〟という名前の生徒が実際にいるとか」
考えてもみなかった。
「どうかな……。少なくとも、ゴドウという名前の生徒はいなかったと思いますが」
そんな名前の生徒を聞いた覚えはなかった。
だが、「後藤」なら何人かこの学校にいる。しかし、自分の名前に近い名前をわざわざニックネームにするだろうか? 知られたくない話を相談する場合はなおさらだ。
「一応その線も調べてみる価値はあるかもしれませんね」
可能性は低いと思いながらも高岡はいった。いまはどんな情報も無駄にしないほうがいだろう。〝ゴドー〟という名前にもなんらかの意味があるかもしれなかった。このニックネームの件はあとで霞に直接尋ねようと頭のなかにメモした。
「それで、協力してもらえますか?」
三橋は答えなかった。高岡を見つめる瞳が微かに揺れている。
高岡は視線を逸らさなかった。
「怖いのは当然です。わたしだって、こんなこと誰かに任せたいです。しかし、現状は警察に頼ることが危険なんです。だったら、わたしたちがやるしかないでしょう」
三橋をまっすぐに見つめ、静かに続けた。
「あなたの力が必要なんだ」
三橋は俯いた。握り締めた拳に力が入っているのがわかる。
やがてゆっくりと顔をあげた。青白い顔には、まだ恐怖が残っていたが、その奥にわずかな決意が宿っていた。
「……わかりました。手伝います」
三橋は椅子をデスクに近づけ、パソコンの画面に向き合った。高校三年生の保健情報の画面を出した。
「まずは身長から絞ってください」高岡は指示を出した。
三橋は検索画面から、「三年生」「男子」の一覧を呼びだした。合計の欄を見ると、一六二名と出ている。身長の項目に一七五から一八五センチメートルと入れると、さらに絞りこまれた。
四一名。
今度は一月一日から四月一日生まれの生徒に限定する。早生まれの生徒を探すためだ。
――一二名。
かなり絞られた。
三橋が高岡に顔を向けた。
「体重はどのくらいに設定しますか?」
「霞さんは『痩せ型』だったといってましたが……このぐらいの身長だと何キロぐらいから痩せ型に該当しますか?」
「BMIでいうと……」霞が色分けされた、BMI表のついた下敷きをパソコンの横のブックレットからとりだした。指でなぞりながら話した。
「一七五センチで五六・七キログラム、一八五センチで六一・三キログラム以下が該当します」
「一〇センチ違うと、けっこう差があるな」
霞は痩せ型に見えたといったが、犯人は制服を着て、さらにそのうえにレインコートまで重ねて着ていたことを考えると、あまり厳密にしないほうがいいだろうという気がする。体重があっても筋肉質で引き締まっていれば痩せ型に見えることもある。
「その一二人のなかで肥満の生徒はいますか?」
「BMIが高めの生徒ですね」
三橋が柔らかい言葉でいい換えた。
パソコンの画面に指を這わせ、
「このなかでは、佐久間くんと……それから岡田くんはBMIが高めといっていいでしょうね」
佐久間亮平のことは知っている。柔道部でかなり大柄な生徒だ。岡田は確か剣道部だったか。眉の太い、こちらもがっしりした体格の持ち主だ。痩せ型とはとてもいい難い。
「そのふたりは外しましょう」
「これで一〇名まで絞れましたね」三橋はいった。
高岡は親指の爪を噛みながら画面を見つめた。
――一〇名か……。
三橋がプリンターからリストを印刷して、高岡に手渡した。
望月拓海、浅見礼二、一ノ瀬輝、成瀬慎平、呉林昇、芳賀倫太郎、葛西哲史、日下部蓮、堤康介、真壁駿。
望月と成瀬は高岡が担任を務める、三年五組の生徒だ。ふたりとも爆弾犯とは思えないが、絶対に違うともいいきれない。
そのほかにも見覚えのある生徒はいたが、あまり主観を挟まないほうがいいかもしれないと思った。凶悪な事件が起こったあとで、「驚きました。そんな人にはまったく見えませんでした」と隣人や知人が話すのを聞いたことがある。印象では決められない。あくまでも客観的事実から絞りこんだほうがいい。
名前を順に見ていき、高岡は胸ポケットに差しているボールペンで葛西哲史の名前を囲った。
「三組の葛西は一年に弟がいますね」
兄弟がいることも犯人の情報のひとつだ。
葛西の弟がバスケットボール部に所属していることを知っていた。一年生ながらレギュラーで実力のある選手だったはずだ。
「ほかに兄弟がこの学校に通っている者がいるかこのシステムで調べることはできますか?」
三橋が首を振った。
「名前の検索はできますけど、同じ名前の生徒が兄弟かどうかはわかりません」
「そうですか……」
葛西に弟がいることは確かだが、だからといって犯人とは決めきれない。この学校に通っていない兄か弟を持つ者がこのなかにいる可能性もある。
――ここではこれが限界か。
あるいは、この一〇名を全員、とり押さえるのは可能だろうか?
きょう来ている教職員たちを思い浮かべた。男性の教諭は一〇人以上来ている。
すぐに頭のなかで否定した。年配の教諭もいるし、とても安全にとり押さえられるとは思えなかった。騒ぎが起こったことがわかれば、犯人は躊躇なく爆破するだろう。
やはりもっと決定的な情報で絞りこむ必要がある。
――ひとりか、ふたりまで絞りこめれば、確実にとり押さえることができるのだが……。
「霞さんの身長はどのくらいですか?」三橋が画面を見ながら尋ねた。
「さあ……聞いていませんが、それが何か?」
「その生徒の身長が一七五センチから一八五センチのあいだだと霞さんは思ったようですけど、それが『ある程度背が高い』という認識なのだとしたら、一八五センチ以上の生徒でもあてはまるのかなと思って」
「一八五センチ以上の生徒は何人いますか?」
「早生まれの三年生のなかでは二人います。どちらもBMIは低めです」
確かに、霞は心理の専門家で、精神状態を見る目は確かだろうが、相手の外見をそこまで見極める能力はないかもしれなかった。犯人が一八五センチ以上あった可能性もじゅうぶんに考えられる。
「その可能性はありますね。そのふたりの生徒もリストに入れて、もう一度プリントアウトしてもらえますか?」高岡はいった。
あとから追加されたのは、吉田亮人、海原恭太のふたりだった。これでリストの人数は一二人に戻ったが、小さな可能性も見逃すことはできない。
ジッジッジッとプリンターが紙を排出しているとき、ノックの音が聞こえた。
高岡は、ぎくりとして身体を震わせた。
「失礼します」とか細い声が聞こえ、ドアが開いた。
背が低めの女子生徒がそこに立っていた。
「白石さん、どうしたの?」
三橋がその少女に声をかけた。
白石と呼ばれた少女は、高岡と三橋が顔を突き合わすような近い距離でデスクの前に座っているのに驚いたのか、目をわずかに大きく開いてこちらを見ていた。
「えっと……ちょっと頭が痛くなったので……」
ちょうどリストのプリントアウトが終わったところだった。
プリンターの駆動音がやんだ瞬間、高岡は弾かれたように手を伸ばした。打ち出された紙を掴むと、勢いよく立ち上がった。
「三橋先生、助かりました」
努めて明るい声を出す。
「ええ、問題ないですよ」三橋も自然な調子で応じた。
白石はふたりを交互に見つめていた。何かを感じとっているのか、落ち着かない様子で指先を制服の裾に添えている。
高岡は、穏やかな表情を保ちつつ足早に白石の横を抜けた。
ドアの前で足を止め、手にしたリストを軽く掲げた。
「何か問題があれば、また連絡します」
一〇時二分(爆破まであと五時間二八分)
高岡は折り畳んだリストを手に持ち、静かに廊下を歩いた。
霞から聞いた内容を頭のなかで再確認した。一番犯人を特定するのに役立ちそうな情報は、アムステルダムへの渡航歴だが――日本からアムステルダムは人気の旅行先とはいえない――生徒たちに聞いてまわることがもっとも効果的だが、犯人に知られずにテスト中におこなうことは不可能だ。
同じように両親に離婚歴があることも知ることが難しかった。家族関係に関わるセンシティブな情報であるため学校側が尋ねることはなかった。
兄か弟がいる、という情報は、〈家庭環境調査票〉を見ればわかるはずだった。同居家族構成や持病・アレルギーの有無等のプライベートな情報が書きこまれている。
そこには優先順位別に緊急連絡先を書く項目もあった。これは通常、複数書かれるもので、そこから離婚歴が推測できるかもしれなかった。実父はすでに死んでいるということだったが、犯人が爆弾を入手したのが最近だとしたら、実父がそのときまで生きていた可能性があり、緊急連絡先に載っているかもしれない。
――しかし……。
数年前までは、どの教員でも閲覧可能だった書類だが、近年個人情報の扱いはかなり厳格化するようになり、それなりの手順を踏む必要があった。
管理者は教頭になっている。
教頭の巽和彦は、生真面目で融通の利かない人間だ。三橋はすぐに納得して協力してくれたが、はたして教頭はどう反応するだろうか?
ともかく、教頭室に向かおう。
四階の教頭室をノックしたが返事がなかった。鍵もかかっていた。教頭は模試がおこなわれる日、自室にいるか、教室を巡視していることが多い。いまはどこかの教室にいるのだろう。
教頭の顔を思い浮かべ、やはり教頭に頼らずに、個人情報を探るほうがいいかもしれないと思った。いまは、ほんの少しの危険も冒せない。
時計を見ると、まだ五時間以上残っていた。
――まだ時間はある。
教頭は何事も前例と規定に沿って処理する男だった。すぐにでも警察に通報するべきだといって譲らない姿が頭に浮かんだ。
数年前、校内で財布の盗難事件が起こったことがある。
犯人はすぐに見つかり、同じクラスの生徒による出来心だった。被害額も数千円程度で、保護者同士で解決できる範囲だったが、教頭は、職員会議でこういい切った。
「学校内での犯罪行為は、金額の問題ではありません。警察に任せるべきです」
担任や生活指導の教員が「内々での指導で更生の余地がある」と反対するなか、教頭はいっさいとり合わず、即日通報したのだった。
結果、その生徒は補導歴がつき、進学にも影響した。
――教頭に一度話してしまうと後戻りができなくなる。
それよりも、リストに載っている生徒の担任に話を聞いたほうがいいかもしれない。担任だからといってその生徒のプライベートな情報について詳しく知っているわけではないだろうが、聞いてみる価値はある。
アムステルダムが一番の思い出になっているなら、何かのきっかけで少年がクラスのなかでその話をし、担任の耳に入っている可能性も考えられる。
誰もいないと思っていた職員室には、社会科教諭の佐久間駿がデスクでパソコンに向かって作業していた。昨年、新卒で入ってきたばかりの新人教諭だ。
「おはようございます」
佐久間が快活な声でいった。
彼の前のモニターを見ると、今度の文化祭の保護者宛の案内レターを作成しているようだった。佐久間はどこの担任にもなっておらず、社会の授業のほか、学校の広報を担当している。
挨拶を返したあとで高岡は訊いた。
「どこかから欠席の連絡はあった?」
「いいえ、ありませんでした。アプリに入ってるんじゃないですかね」
いまはアプリで欠席の連絡ができる。ほとんどの保護者が利用していた。一部ではいまだ電話をかけてくる者がいたが、今朝はそれもないようだった。
高岡は一番奥の自分の席に戻った。時刻は一〇時一五分になっていた。首筋をじっとりした汗が伝っていく。
あと五分で一時間目の試験が終了する。一〇時二〇分から一〇時四〇分までは休憩時間だった。教諭たちが職員室に戻ってきたときに話を聞くことができる。
パソコンを触り、校務支援システムで、それぞれのリストの一二人の生徒の担任を調べた。
リストの生徒は、高岡を含め七名の教諭が担任になっていた。一番多いのは松平景親教諭で三人の担任になっていた。
チャイムが鳴ると、職員室まで生徒たちのざわめきが響いてきた。椅子の脚が床を擦る音、何か教諭が話している声が続いた。
職員室のドアが開き、次々に教員たちが手に答案用紙を抱えて入ってきた。そのまま、職員室奥のテスト回収ボックスに答案の束を入れる者もいれば、デスクでもう一度答案を確認する者もいた。何人かの生徒がやってきて、教員に追い出されたりしている。
高岡は松平の手が空くのを待っていた。
松平が壁側にあるコーヒーメーカーから自分のカップにコーヒーを注いでいるそばに高岡は近寄っていった。
「松平先生。少しよろしいでしょうか?」
松平がコーヒーの入ったカップを持ったまま、高岡に向き合った。
年齢は五〇歳。進路指導の主任で、英語科の教諭。都内の名門私立高校で長く進路指導を担当し、多くの大学との太いパイプを持つ男だった。珍しく理事長がみずから口説き、この学校へ迎えた人物でもある。
「なんでしょう?」
じろりと高岡に目をやる。
彼にはどこか人を圧する雰囲気があった。いつも背筋をまっすぐに伸ばし、慌ただしい職員室のなかでも、ひとりだけ時間の流れが違うように見える。その名前と雰囲気から、生徒たちは半ば冗談、半ば本気で彼を「殿」と呼んでいるが、「殿」が一度怒ると手が付けられないという評判も聞く。
「じつは、今度、副教材で『アンネの日記』を使用するんですが、そのことで舞台になったアムステルダムの紹介をしようと思うんです」
「……はあ」
フレームレスの眼鏡の奥から、珍しい虫でも見つけたような目つきで高岡を見た。
「それで、三年生のなかでアムステルダムへ旅行に行った者がいるらしいと聞いたので、それが誰かわかれば、おそらく観光名所としてアンネの隠れ家を訪れているでしょうから、その話を聞きたいと思いまして」
「アムステルダム、ですか?」
松平はカップを持ったまま宙を二、三秒見あげたあとで、
「いやあ、わたしには思いあたらないですね。誰がそんなことをいってたのですか?」
「陸上部の誰かだったと思うんですけど、その生徒を忘れてしまって……」
松平はカップに口をつけて、熱そうな顔をしたあと、
「三年生でオランダに留学していたという生徒はいなかったと思いますねえ。短期の旅行ということなら、まったくわかりませんが」
「そうですか……。ありがとうございました」
――くそっ、やはり駄目だったか……。
しかし、とにかくあたり続けるしかない。
松平から離れて、ほかの教諭に尋ねようと思ったところに、音楽教諭の折原雅人が近づいてきた。
「高岡先生、少しお時間よろしいですか?」
「なんですか?」
折原の肩越しにこれから話を聞きたい教諭を目で追った。
「チャペルの件なんですけど」
合唱部の顧問である折原が、今度の文化祭でチャペルを使用したいと話していたことを思いだした。
「ああ、ちょっと待っていてもらえますか」
この休み時間のあいだに、リストの生徒の担任全員から話を聞きたかった。高岡は折原に自分のデスクで待つようにいい残すと、残りの五人の教諭を順に捕まえ、松平に尋ねたのと同じ質問をぶつけてまわった。
最後のひとりに聞き終えたころには、次の試験に備えて、教員たちが職員室を出ていく時間になっていた。
――収穫はゼロ。
誰も三年生のなかでアムステルダムの渡航歴がある生徒を知らなかった。
ふたたび静まり返った職員室で、高岡は自分のデスクに戻った。職員室には四人の教諭が残っていた。ひとりは相変わらずパソコンで作業をしている佐久間駿、そして答案用紙をまとめる作業をしている物理科教諭の坂井直哉、残りは高岡と音楽教諭の折原だった。
折原は高岡の隣の席に座ってスマートフォンを触っていた。
「すいません。どうしてもこの休憩時間に聞かないといけなかったことがあったもので」高岡は意気消沈したまま折原に声をかけた。
爆弾犯を見つけるべく、早く次の手を打ちたかったが、まずは折原の用件を済まさなくてはならない。このおしゃべりな男に異変を勘づかれると厄介なことになる。
「全然構いませんよ。高岡先生はお忙しい方ですから」
折原は、痘痕の残る四角い顔に笑顔をあげて高岡を見て、
「じつは、チャペルの件なんですが」と切りだした。
文化祭の発表に向けて何度か実際にチャペルで生徒に合唱させてみたのだが、どうしても音響がよくないので、少し改修したいのだという。
「改修?」高岡は眉根を寄せた。
チャペルはこの校舎と同時期に祖父が建てたもので、この学院を象徴する建物だった。
「いや、ま、改修といってもそんな大げさなものではないですよ」高岡の怪訝な様子を見てとったのか、慌てたように手を大きく動かした。
チャペルは観客席が四〇席しかとれないため、これまで合唱の舞台に使われたことがなかった。今回の文化祭では、YouTubeでその映像を流すことが決定しており、それなら、この学校の象徴でもあるチャペルを使おうということになったのだった。
「天井からマイクを吊りさげるだけなんです」折原がいった。
「天井から?」
「ハンギングマイクというんですけど、プロの合唱団なんかでも使われるものです。高い天井のある教会で音質が抜群によくなるんです。今回は世界に向けて動画を出すわけですから最高の音質で届けたほうがいいかと思うんです」
「天井にはステンドグラスがあったと思いますが」高岡は指摘した。
折原は目を広げ大きく頷いた。
「ええ、素敵なステンドグラスですよね。大丈夫です」手のひらを高岡に見せる。「絶対に傷つけたりはしませんから。天井の梁にコードを引っかけるだけで済みます。わたしの知り合いの業者に見積もりを出したんですけど、その点はしっかり念を押しておきました」
「予算内で、できるんですか?」
「その点も大丈夫です。学校にはご迷惑はかけません」
足りなくなったら、折原は自費で出すつもりなのかもしれなかった。
「まあ、それならいいですけど」
「よかった!」折原は安堵の声を漏らした。「見積もりをしてもらった業者もいい場所だって感心してましたよ。古いチャペルは音が抜けることがよくあるんですけど、窓が防弾ガラスみたいで反響がすごくいいって」
窓ガラスが防弾ガラスみたいだって? ずいぶん古い建物なのにそんなことがあるだろうか。
まあいい。
それよりも早くこの会話を切りあげたかった。
「予算内で、ステンドグラスを傷つけないなら、その工事を進めてください」
「これで最高の音が撮れますよ」
折原は四角張った顔に盛大な笑みを浮かべた。
満足したなら、さっさと離れてほしかったが、話好きの折原は今度は部員たちの熱意について語りはじめた。
――くそっ、まだ話すのか。
苛立ちを顔に出さないようにして折原の話を聞いた。いまは平穏な学校の状態を保たなくてはならない。頭のなかでは、リストからどうやって容疑者を絞る方法があるのか考えていた。
折原が話し続けている。
「今度の舞台は人数に制限がありますからね。一三人しかステージに立てないんです。どうしようかと思ったんですけど、生徒たちが、きょうの模試で得点のいい順にしようって自分たちで決めましてね。だからみんなこの夏休みは勉強も頑張ってたんですよ。やっぱりモチベーションって大事ですね」
――モチベーションか……。
高岡は、犯人の少年がどうしてこの模試を最後まで受けたがっているのか、あらためて考えてみた。
霞はいっていた。少年は夏休みに積み重ねた努力の成果を、自分自身で確かめたいのだろう、と。採点結果を見ることはかなわないが、最後まで解き切ることで、自分なりの区切りをつけようとしているのかもしれない……。
もしそうだとすれば――。
これまでの模試の成績を調べれば、少年の考えや行動につながる手がかりが見つかる可能性がある。
自分の担任のクラスの生徒は模試の結果が見られるが、リスト全員の生徒の結果を知るためには、進路指導の松平の協力が必要だ。松平とはさきほど話したばかりだった。いまは三年一組のテスト監督をしているはずだ。
腕時計に目を落とした。時刻は一〇時五八分。爆破まで、あと四時間三二分――。
折原はまだ合唱部の話を続けている。
そのとき、ひとつの考えが高岡の脳裏をよぎった。
「折原先生!」
高岡が急に声を出すと、折原は叱られると思ったのか、身体をびくりとさせて話をやめた。高岡が思った以上に大きな声が出ていたらしい。
「お話の途中ですいません。すごくいい話だと思いました。ところで話は変わるのですが、チャペルの改修を許可する代わりといってはなんですが、少し頼みを聞いてもらえませんか?」
「なんでしょう?」
いったい、何を頼まれるのかといった顔つきで折原は高岡を見つめた。