一一時一一分(爆破まであと四時間一九分)
高岡は体育館で待っていた。
鉄骨の梁が規則正しく並び、そのあいだに吊られた照明が白い光を均一に落としていた。ワックスのかけられた床はよく磨かれ、光を受けて輝いている。
体育館のなかのバスケットゴールの下あたりにいると、訝し気な顔をして松平が出入口に現れた。
どうして体育館に呼びだされたのかと考えているのだろう。しかも試験中に。
音楽科教諭の折原に、松平の教室へ行き、試験監督を代わり、松平に体育館へ来るように伝えてほしいと頼んでいた。
この場所に意味はなかった。
ただ爆弾のない校舎から離れて、冷静に考えたかっただけだ。校舎のなかにいると、いつ爆発するかを常に考えて思考が鈍ってしまう気がした。
試験中に松平を呼びだすことに危険が伴うことはわかっていた。
もしも犯人が松平のクラス――三年一組にいたら、試験監督がテスト中に代わることを不審に思う可能性もあった。しかし、危険を冒してでもこの時間を有効に使う必要があった。時刻は刻一刻と過ぎていく。
高岡は松平に近寄っていった。
「試験監督中に呼びだしてすいません」
「文化祭について話があるということですけど、どういうことでしょうか?」松平は体育館を見まわしながら尋ねた。
「文化祭の話ではありません。緊急の、生徒の命がかかった話です」
高岡は真剣な顔つきでいった。
松平には、単刀直入に事件の話をした。
精神科医の霞から電話がかかってきたこと、少年のこと、C-4の件、警察に通報するべきではない理由、リストをつくったこと、リストの生徒の成績を見たいことを順に。
確信があったわけではなかったが、松平ならこの状況を理解してくれると思った。普段は意見が違って対立することも多かったが、正しい状況判断ができる人間だと。
松平は、最初驚いたように目を瞠っていたが、徐々に顔を強張らせていった。
すべてを聞き終わると、松平はフレームレスの眼鏡の奥の目を引き絞るように細め、近くのものに焦点を合わせるような目つきをした。そして――。
「すぐに警察に通報しましょう」と冷静な口調でいい放った。
「え? いまのわたしの話を聞いていましたか?」
「もちろん聞いていましたよ。これはとんでもない話ですよ。たとえ悪戯だったとしても大問題です」
「悪戯なんかじゃありません。そいつは精神科医を監禁することまでしているんです」
「それなら、なおさら警察に任せるべきでしょう」
「だから、それはさっき説明したでしょう。警察に通報すること自体に危険が伴うんです。精神科医もそう断言しています」
松平は直立不動のまま首を横に振った。
「しかし、その精神科医はテロリズムの専門家というわけじゃないですよね」
「それはそうですよ。だいたい、これはテロじゃないですよ。思想も政治的目的もないんです。ひとりの少年が大勢を巻き添えにして死のうって話です」
また松平が頭を振る。
「思想があってもなくても同じですよ。どう考えたって警察に任せるべきですよ。もしも、本当に爆弾を持っていたら、どうするんです?」
「だから……間違いなくそいつは爆弾を持って……」
松平はこの現状をまったく理解していないようだった。
高岡は語気を強めて続けた。
「そいつは、ちょっとした刺激で起爆スイッチを押しかねない奴なんです。警察に何ができるっていうんですか!」
「警察には少年犯罪を扱う部署があるでしょう。彼らに任せるしかないですよ。経験があるはずです」
「これは万引き犯を捕まえるのとはわけが違うんですよ。一七歳か一八歳のいまにも爆弾を爆破そうな少年の事件を、警察がどれだけ扱ったことがあると思ってるんですか? 非常に特殊なケースですよ。我々のほうがそういった少年の心理には詳しいはずです」
「そんなことはないでしょう。あっちはプロですよ。とにかくわたしは警察に通報します」
松平がスマートフォンをとりだした。
高岡は手を伸ばすと、松平のスマートフォンをもぎとった。
「ちょっと、何するんですか?」
松平がすぐさま奪い返そうと飛びついてきて、高岡は半歩身を引いて、その手をかわした。
「いいですか。よく聞いてください。警察に介入されたら非常に危険な状況になるんです」
「そのことも含めて相談すればいいじゃないですか」
高岡はなおも迫ってくる松平との距離を保ちながら話した。
「一度警察に通報したら、警察は動かざるを得ません。そうなったらおしまいです」
「とにかく、スマホを返せ!」
松平が怒号とともに高岡に掴みかかってきた。
高岡は松平のスマートフォンをポケットに押しこむと、その勢いを受け止めるように松平の肩を掴んだ。
「松平先生が納得したら返しますよ」
ふたりは互いの腕をつかみ合い、至近距離で睨み合った。
「こんな話、全然納得できませんよ!」松平が怒鳴って、高岡を突き飛ばした。
顔を真っ赤にして続けた。
「だいたい、あんたはいつも自分勝手なんだよ! 創立者の一族かなんか知らないが、会議にもかけずに自分ひとりでなんでも決めて」
「いまはその話は関係ないだろ! 俺が創立者一族かどうかはどうだっていい! 非常に危険な状態なのがわからないのか?」
「そんな怪しい女からの電話を信じるなんてどうかしてる。爆弾なんかあるわけがない」吐き捨てるように松平はいった。
「わたしも最初は悪戯だと思いましたよ。だけど、そいつは秋山小学校も爆破してるんです」
松平の動きが止まった。硬直したまま高岡を見る。
「……え、その少年があの事件を起こしたのか?」
「そうです。証拠の写真もあります。少年は爆破させる前に、爆弾を設置した写真を精神科医に送ってきたんです。爆破直前の写真です」
松平は高岡の顔を見つめたまま、何もいわなかった。
「わたしも写真を見ました。だから、その少年が爆弾を持っていることは間違いないんです」
しばらく沈黙が流れた。
松平は何かを考える目つきで高岡を見ていた。
やがて松平は、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。崩れたスーツの襟元を直すと、いつもの冷静な顔つきに戻っていた。
「その霞という人は本当に信用できる人なんでしょうね?」
「信用できると思います」
「その方と話をすることはできますか?」
「いまは自宅で横になっていると思いますが、電話はできます」
「一度話をさせてください」
有無をいわせない口調だった。
高岡は、昨夜から一睡もしていない霞の体調のことを一瞬考えたが、ポケットからスマートフォンを出した。いまは霞の身体を心配している場合ではない。
霞から聞いた、携帯電話の番号にかけた。
数コールで霞が出た。
「霞さん、高岡です。ちょっとお話をしてもらいたい方がいまして――」
事情を説明し、スマートフォンを松平に手渡した。
松平は高岡のほうを見ながら話をした。
「……そうです……わたしは聖マリアーノ学院の松平と申します……あなたはその少年に会ったんですよね……ああ、そうですか……」
数分間、松平は霞と話していた。霞の声は聞こえないので話の内容が正確にわかったわけではなかったが、松平はおもに少年の心理状態について尋ねているようだった。
「ええ……ええ……わかりました……そうします」
そういって松平は電話を切った。スマートフォンを高岡に返す。
松平が手を伸ばしたままなのを見て、高岡は自分が松平のスマートフォンを持っていたことを思いだして彼に渡した。
「それで、納得しましたか?」高岡は訊いた。
「霞さんから聞きましたが、彼女はあなたに秋山小学校の写真を送ったそうですね。見せてもらえますか」
高岡はスマートフォンを操作し、霞から送られてきた五枚の写真を松平に見せた。
松平は食い入るようにその写真を見つめた。一枚ずつ確かめるように指先で送っていく。
最後の写真まで見終えると、無言でスマートフォンを返した。その手は、微かに震えていた。
「その爆弾が、いまこの校舎にあるんですね」
「霞さんの話では、写真に写っているより、さらに多くの爆弾があるそうです」
松平は眼鏡を外し、鼻梁を親指と人差し指で強く押さえた。しばらくその姿勢のまま黙りこんだ。
「これで状況がわかりましたか?」
高岡の問いに、松平はゆっくりと眼鏡を掛け直した。
「まあ……警察の対応が読めない以上、少年を特定するまでは、わたしたちだけで対処するしかなさそうですね」
その瞳には、先ほどまでの怒りはなかった。
高岡をまっすぐ見据え、静かにいった。
「それで、わたしに何をしてほしいんです?」
「過去の模試の成績を見たいんです」
「それは構いませんが、模試の結果を見るだけで、目的の少年がわかりますか?」
「すでに一二人までは絞れているんです。その少年が『成績がいいほう』といっていることと、『数学が得意だ』という情報を重ねれば、きっと何か掴めるんじゃないかと考えています」
「霞さんが聞きとった情報からすると、〈家庭環境調査票〉を見たほうが早いんじゃないですか?」
「それはわかってます。ですが、あれは教頭のキャビネットのなかです」
松平は、「ああ」と得心した顔つきになった。「教頭に頼めば、すぐに警察に知らせるでしょうね」
「間違いないですね」高岡は頷いた。
松平が両手をポケットに入れて、スマートフォンをとりだして画面を見た。時刻を確認したのかもしれない。
高岡も腕時計を見た。時刻は一一時二〇分になっている。模試が終わるまで、あと四時間一〇分――。
「あなたが絞りこんだ一二人のリストを見せてもらえますか?」松平がいった。
高岡がリストを手渡すと、松平は息を詰めてその紙に目を落とした。
「一ノ瀬と芳賀と吉田はわたしのクラスの生徒ですね……。三人とも成績がいいほうとはいえないし、数学が得意というわけでもないから除外できるかもしれません」
「成績がいいというのは判断が難しいですね。この学校の生徒であること自体、平均的な高三生よりは成績がいいですから、そういう意味で『成績はいい』といったのかもしれません」
松平は顔をあげ、フレームレスの眼鏡を指で押した。
「まあ、その可能性もありますね。……数学が得意ってことは理系の生徒という意味ですかね」
リストのなかで理系の生徒は三人いた。呉林昇と真壁駿と日下部蓮だ。
「どうですかね……。あくまで霞さんとの話の流れで、少年が主観でいっていることですから。中学時代まで数学がトップクラスの成績だったことで、数学が得意といっている可能性もあります。まだ理系だと決めつけないほうがいいでしょう」
以前、本で読んだことがある。能力の低い者ほど自分を高く評価し、優秀な者ほど自分を低く見積もる、と。つまり、自己評価はかなり疑ってかかる必要がある。
「だとすると、これまでの成績を調べてもわからないんじゃないですか?」
「それでも、少年がこの模試を最後まで受けたいという意志を持っていることには、何か意味があるはずなんです」
松平はもう一度、リストが書かれた紙を持ちあげて、じっと見つめた。高岡も反対側から目を落とす。
頭のなかに聖書の一節が浮かんだ。食事をともにしている弟子たちのなかに裏切り者がいる、とイエスが告げる場面だ。
『あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』
――そのとおりだ。このなかにユダがいる。