一三時一二分(爆破まであと二時間一八分)
「綾さんも知らなかったんですか」三橋が高岡にいった。
三橋は綾のことをよく知っていた。宮坂希子が行方不明になって以来、綾は何度か体調を崩し、保健室を訪れていたらしかった。
実際には、綾は「まともに答えてくれなかった」のだが、高岡は「ええ、そうです」と答えた。
昼休みが終わり、高岡と松平と三橋は保健室に集まっていた。
三人は犯人に異変を悟らせないよう、ほかの教員と交じり、何食わぬ顔をして職員室で弁当を食べた。高岡は職員室のメールを確認し、回覧文書に目を通し、そのあとも溜まっていた雑事をいつものようにこなした。高校という閉鎖的な空間では、教員らの動揺はすぐに生徒へ伝播する。とりわけ感受性の強い高校生たちならなおさらだ。
まだ平凡な模試の日が続いていることを犯人に示す必要があった。
「これから、どうしますか? あと二時間……一八分しかありませんよ」松平が腕時計を神経質そうに見た。
松平は午後からも音楽家教諭の折原に試験監督を代わってもらっていた。折原は楽譜を教室に持ちこみ、そこで合唱の準備ができると喜んで引き受けたらしい。試験監督時に書類仕事が捗ることは教員のあいだではよく知られている。
高岡も午前から引き続き、副担任の戸部進教諭に試験監督を委ねていた。
こうして、高岡と松平と三橋は犯人捜索に集中できる状況が整ったわけだが、肝心の次の一手がまだ見つかっていなかった。
「やはり家庭環境調査票を見るしかないですね」高岡はいった。
「じゃあ、教頭に頼るということですか?」と松平。
高岡は首を振った。
「いや、それは危険過ぎます。別の手段を使いましょう」
「別の手段?」
「この学校に信用できる奴がいます」
「え、爆弾? この学校に?」
重松修は、情報科室でぎょっとした顔をした。
情報科の教諭である重松は高岡の大学の後輩だった。高岡が大学四年生、重松が一年生のとき、アルバイト先の学習塾で出会っていた。
重松が前任校を辞めたとき、この学校へ誘ったのも高岡だった。
普段はおどおどして頼りなく見えるが、仕事は正確で飲みこみも早い。大学時代は演劇部に所属しており、一度だけ観た舞台では、普段とは別人のような存在感を見せていた。
それと、重松にはもうひとつ意外な特技があった。父親が鍵の専門業者で、高校生のころから仕事を手伝っていたため、たいていの鍵なら開けることができるのだ。
「そ、それが爆発したら、ここも被害に遭うんですか?」まだ信じられないといった顔つきで重松はいった。
「そうだ。爆弾は三階にある。当然、四階にも被害が及ぶ」
高岡は重松の向かいの丸椅子に座り、うしろには松平が腕組みをして立っていた。三橋は保健室に詰めている必要があるため、ここへは来ていない。
情報科室は、黒板の代わりに壁の中央に大型のディスプレイが据え付けられていた。生徒の机は横長で、ふたり一組でデスクトップPCを共有する形になっている。
「それじゃあ、いますぐに全員避難させないと」重松がいった。
「それができないんだ」
高松はこの状況について説明した。少年のことも霞のこともすべて。不審な動きひとつでこの学校が大破することも。
重松は神妙な顔つきで話を聞いていた。
聞き終わると、重松は何かを考えるように下を向いた。
「そういうわけで警察には頼れないんだ」高岡はいった。
重松が顔をあげる。
「……つまり、その生徒を見つければ対処できるということですか?」
「俺たちはそう考えてる。それでお前の力が必要なんだ」
「僕が何をするんです?」
高岡はピッキングで教頭室のキャビネットを開けてほしいと頼んだ。そこに入っている家庭環境調査票を見れば該当の生徒がわかることを伝える。
「だったら、教頭に頼めばいいじゃないですか? きょうは来てないんですか?」
「来てるよ。だが、お前も教頭がどんな人か知ってるだろ。あの人は間違いなく警察に通報する」
「事情を話せばわかってくれますよ」
高岡は首を振った。
「ひょっとしたら、わかってくれるかもしれない。だが、そんな賭けはできない」
「で、でも、針金で鍵を開けるなんて犯罪ですよ」
「犯罪じゃない。キャビネットの中身は学校の所有物だ」
「しかし、管理者は教頭ですし……」
重松は視線を泳がせた。
「重松、何が重要なのか、よく考えてみろ。数百人の命がかかってるんだぞ」
松平が背後から畳みかけた。
「重松先生。わたしからもお願いします。もし責任問題になるなら、わたしたちが証言します。あなたひとりに背負わせるようなことは、絶対にしませんから」
重松は怯えるような目で松平と高岡の顔を交互に見つめた。
唇を固く結んでいる。ふたりの視線に圧されるように短く息を吸いこむと、小さく頷いた。
「……わかりました」
一三時三〇分(爆破まであと二時間)
「いま教頭は自室にいるようです」
スマートフォンに松平からのメッセージが入った。教頭の居場所を確認するため職員室に向かっていた松平が、行先表示のホワイトボードを見て知らせてきたのだった。
高岡と重松は、四階の情報科室で待機していた。教頭室も同じ四階にある。もし教頭が校内を巡回中であれば、その隙に教頭室へ忍びこむ手はずだった。だが、在室しているなら不可能だ。
「電話で教頭を部屋から呼びだしてもらえませんか?」高岡が松平にいった。
松平がスマートフォンの向こう側で黙りこんだ。
しばらくして、
『何かいい案がありますか?』と尋ねてきた。
「文化祭が近いですから、大講堂で何かの確認をしてほしいとか」
『そうですね……開会式の来賓席の配置について確認したいとでもいいましょうか。昨年、長谷川神父と三枝さんの席でずいぶん揉めましたからね』
長谷川神父はこの近くのカトリック教会の代表で、長年この学校の理事を務めている。建設会社社長の三枝は、妻が聖マリアーノ学院の卒業生だった縁で、毎年多額の寄付をおこなっていた。
昨年の文化祭の開会式で、最上位の席に長谷川神父ではなく、三枝が座っていたことから、教会関係者や卒業生らからクレームがあがり、教頭は相当頭を悩ませていた。
「その線で進めてください」と高岡は返事した。
情報科室で待つこと五分。松平からメールが来た。
『教頭が大講堂に来ることになりました。もうすぐ部屋を出るはずです』
高岡は重松に目配せしてドアに近づいた。わずかに開けて廊下を窺う。一分ほどして、教頭室のドアが開き、教頭が階段に向かって歩いていく足音が聞こえた。
教頭が階段をおりはじめたと確信して、高岡と重松のふたりは廊下に出た。
静かに廊下を進み、教頭室の前まで来る。ドアノブを握ると鍵がかかっていた。キャビネットを開ける前にこのドアを突破しなければならない。高岡が目で示すと、重松は顔を曇らせながらも屈みこみ、鍵穴に針金を突っこんだ。数秒もかからず開けてしまう。
高岡は実際に見たのは、はじめてだったが、そのあまりの早業に感心した。
教頭室に入ると灯りはついてなく、カーテンも閉じられていた。
目の前には焦げ茶色のローテーブルがあり、その両側に二人掛けの革張りのソファが向かい合うように置かれている。部屋の奥に大きな執務机が据えられ、その左手には高さ一メートルほどのクリーム色のキャビネットがあった。
重松がキャビネットに向かった。
「落ち着いてやればいい」
高岡が声をかけた。しかし重松は返事もせず、ソファに足をぶつけながら奥へと進んだ。そのままキャビネットの前に膝をつくと、震えるような手つきで作業にとりかかる。一秒でも早く、この場を終わらせたいという焦りが全身から滲んでいた。
爆弾が爆破することに較べれば、教頭のキャビネットを無断で開けるくらい、とるに足らないことだと思うのだが、重松はまだ抵抗感が拭えないようだった。
この抵抗感は、重松の過去に起因するのかもしれなかった。
重松は、前の勤め先だった県外の私立高校を〝この特技〟を使ったことによって辞めていた。事務室の金庫に保管されていた修学旅行の積立金を着服したのだった。
大学時代からギャンブル癖があった。そのギャンブルの負けで膨らんだ借金の穴埋めに使っていたのだ。
発覚後、事態は外部に公表されることなく内部で処理され、重松は事実上の懲戒免職という形に追いこまれた。刑事責任こそ問われなかったものの、噂はほかの学校にも伝わり、もう二度と教職には就けないと思われていた。その重松を高岡が同窓の縁でこの学校に採用したのだった。これからギャンブルは、いっさいしないと約束させて。
「開きました」
重松の声が聞こえた。
ものの一分もかかっていなかった。重松に代わって高岡がキャビネットの前に座った。
暗がりに厚手のボード紙が背表紙のバインダーが並んでいるのが見えた。
――これだ。
青色のバインダーを掴んで引きだす。背表紙に「三年」と記されている。高岡はキャビネットの前で胡坐をかき、膝の上にバインダーを置いた。開いてリストの生徒を順番に見ていく――。
それぞれの紙には、氏名、住所、家族構成、保護者の職業、緊急連絡先などが書かれていた。保護者自身に書かせるため、筆跡がそれぞれ異なっている。そこに赤字で追加・変更事項が書き加えられていた。これは教員が書くものだ。
一一人の生徒のなかで、両親の離婚歴が記されている者はいなかった。緊急連絡先を見ても、それはわからなかった。あてにはしていなかったが、この情報があれば、かなり絞りこめるのに、と思う。
しかし、兄弟関係はしっかり書かれていた。兄か弟がいるのは――。
成瀬慎平、呉林昇、葛西哲史、日下部蓮の四人だ。つまりこの四人のなかに犯人がいることになる。バインダーから四人の調査票を外した。
成瀬は、高岡のクラスの生徒だった。あまり目立たない生徒だ。新聞部で部長を務めている。進路面談をしたとき、ジャーナリズムの道に進みたいといっていたのを覚えていた。AIの進歩が著しい時代で変化が大きい業界だろう、と高岡がいうと、成瀬は、「世界がどうなったとしても、自分がしたいことをするだけです」と強い意志を見せたのが意外だった。
――しかし……。
「まだですか?」
重松が上から声をかけてきた。その声は細かく震え、キャビネットを一刻も早く閉めてほしいという焦りが隠しきれていなかった。
高岡は返事をせず、念のためリストに載っているほかの生徒たちの調査票をスマートフォンで撮影した。重松の視線を感じながら、一枚ずつ確実に収め、ようやく元の位置へ戻した。
「閉めてくれ」
高岡は立ちあがった。
一三時:三四分(爆破まであと一時間五六分)
少年は、最初それが何かわからなかった。幼稚園かどこかへ出荷前の粘土かと思った。それぐらい大量にあった。しかし、その粘土のような物質は地味な厚手の紙に包まれていて、殺伐とした外観には、子どもの玩具とは違った、奇妙な真剣さが宿っていた。
表面に英字が記されていた。
CHARGE DEMOLITION M112
C-4 EXPLOSIVE
スマートフォンで調べると、どうやらこれはC-4という名のプラスティック爆弾のようだった。
――本物なのか?
まず爆弾がこんな形状であることに驚いた。粘土のような直方体だ。長いあいだ、こんなところに放置されていて爆発しないのだろうか?
インターネットで調べると、プラスティック爆弾は自由に形を変えられるうえに、起爆装置を使わなければ爆発しないとのことだった。ということは、C-4と一緒に置かれていたトランシーバーのような電子機器は起爆装置なのだろうか?
まさかこんなものを父親が持っていたとは、という思いと、あの父親ならあり得るかもしれない、という思いが交錯した。
父親は売れない画家だった。生前は誰からも評価されず、ゴッホと同じだと少年は思っていた。
だが、父親には別の顔があった。過激な思想を持った連中とつるんでいたのだ。詳しい関係までは知らなかったが、父が死んだあと、祖母から聞かされた。警察がマークしているような人間と一緒に行動していたという。
C-4を見つけたのは、前に住んでいた家の地下室だった。
ここだけは絶対に入るな――生前、父から何度もきつくいい聞かされていた場所だ。
ここは聖域――父のアトリエだった。
その日も少年は祖母に叱られて、かつて住んでいた家に来ていた。電気も水も通ってなく、もちろんWi-Fiもない。何をするというわけでもなかったが、そこで過ごすのが好きだった。
ふと父の絵が見たくなり、地下室へおりていった。父が亡くなったあとも少年は父のいいつけを守り、地下室へ入ったことがなかった。
湿り気のあるその部屋は、絵を管理する場所としては最悪のように思えたが、父の絵には逆にそれが似合っていた。
埃っぽく、テレピン油の匂いが充満するその部屋で、少年は部屋の中央に座りこみ、父の絵を眺めた。
部屋にはたくさんの絵が無造作に壁際に立てかけられていた。どれも街の絵だ。アムステルダムの街もある。覚えている。父と弟と三人で行った場所だ。あのときは楽しかった。人生で一番楽しかったといってもいい。
すべての絵は、奇妙な一点透視図法で描かれていた。道は中央にあり、奥に向かって収束しているはずなのだが、どこにも辿り着かないようにも見える。それでも中心はあった。すべてはそこに向かって構成されている。
その中心に一本の釘が打ちこまれていた。錆びた本物の釘だ。
これが父の絵の特徴だった。
父は描き終わりに、いつも、錆びて曲がっている釘を絵の中心に打ちこんだ。
どうしてそんなことをするのか、父が少年に話したことはなかったが、それはまったく正しいことのように思えた。
――中心に釘を打たれた絵たち……。
そのとき、床の隙間から風が吹いたような気がした。地下室の床は板張りだった。板と板のあいだに細い隙間がいくつも走り、板張りの床は乾いて反り返っている場所がある。
風? 地下室でまさかそんなことあるわけないと思ったが、床に耳をあててみた。何も聞こえないし、何も感じない。
隙間から何か見えた。
――なんだろう?
一階へあがり、押入れのなかの道具箱からバールを持ってきて、板を剥がした。アトリエを破壊することに一片の罪悪感も覚えなかった。もう父はいない。このアトリエが生き返ることは二度とないのだ。
床板の下に空間があり、そこに濃緑色の細長い矩形の物体がいくつも置かれていた。
それが三ヶ月前のことだった。
あと二時間ですべてが終わる。俺の世界のすべてが。
――俺の世界の中心に釘を打ちこんでやる。