第一部
一一時三五分(爆破まであと三時間五五分)
最初に気づいたのは松平だった。
体育館から外に出て、高岡と松平が校舎の正面へ向かって歩いているときだった。
進路指導室は、校舎の一階、玄関を入ってすぐ右手にある。いったん校舎の正面までまわり、自転車置き場の脇を抜けていくのが早かった。
自転車置き場の前まで来たところで、松平が身を寄せるようにして囁いた。
「……誰かにつけられてる」
「つけられてる?」
高岡は小声で聞き返した。
爆弾犯のことで頭が占められていた高岡は、まったく気づいていなかった。
「体育館を出たときから、ずっとだ」
松平はいつものように背筋を伸ばしたまま、歩調を変えない。
高岡は足を止めることなく耳を澄ませた。
――ジャリ。
背後で、微かな音がした。
一定の間隔を保ちながら、その音はふたりを追ってきていた。
「このまま歩き続けましょう」
高岡は歩きながら囁いた。
ふたりの横には、波型スレート屋根の下に自転車が二列で整然と並んでいる。
なぜつけられなければならないのか? いったい誰がなんのために? どう考えても自分たちがつけられる理由がわからなかった。
だが、このままにしてはおけない。確認する必要がある。
自転車置き場を過ぎたとき、高岡は一息に振り返った。
尾行者が見えた。
――吉住?
教頭の甥で保健体育科の教諭だ。五メートルほど離れたところで、黒地に三本のピンク色の線が入った、アディダスのジャージを着た男が自転車置き場の陰になるように身体を屈めていた。
間違いない。
吉住俊介――女子バスケットボール部の顧問をしている男だ。どこのクラスの担任にもなっておらず、きょうは出勤する予定にはなっていなかったはずだが……。
高岡と目が合うと、吉住はしゃがんでいた身体をゆっくりと起こした。
一瞬、どうするべきか迷っているように見えた。
が、次の瞬間だった。
吉住は踵を返すと、一目散に駆けだした。
高岡と吉住の間には自転車置き場がある。追いつくには、大きくまわりこまなければならない。
「少し待っていてください!」
松平にそういい残すと、高岡は自転車置き場へ向かって一直線に駆けだした。
一列目の自転車のハンドルに手をかけ、その勢いのまま身体を宙へ送りだす――狭いスレート屋根の下を抜ける瞬間、頭が屋根を掠めた。着地すると、間髪容れず二列目も飛び越える。地面に着いた勢いを前転で受け流し、起きあがると同時にふたたび走りだした。
その音に気づいたのか、吉住が振り返った。
目を見開く。
自転車置き場が障害になると思っていたのだろう。高岡が最短距離を突っ切ってくるとは予想していなかったに違いない。ふたりの距離は三メートルまで詰まっていた。
そのまま吉住に向かって突進し、ジャージを掴むと砂利の上に倒した。場所は校舎の角で、教室からは死角になっていたが、騒ぎは起こしたくなかった。
両手で吉住の肩を砂利の上に押しつける。
「な、何するんですか?」吉住が苦しそうな声を出した。
「吉住先生こそ、あそこで何してたんですか?」
吉住は荒い息をつき、「……高岡先生って、ずいぶん足が速いんですね」
「そんなことはどうでもいい! あそこで何をしてたんだ?」
息を切らせながら松平が自転車置き場をまわってやってきた。
吉住はふたりを見て、観念したように、なぜ尾行していたのか話しはじめた。
吉住の説明によると、M高校との練習試合の準備のために学校へ来ていたという。
体育館のステージ脇でスタメン表を作成していたが、予定より早く終わり、眠気に負けてその場で仮眠をとっていた。そこへ高岡が現れ、続いて松平がやって来た――という話だった。
「それなら、どうしてあとをつけたんだ?」
高岡が問い詰めると、吉住は言葉を詰まらせた。
「それは……」
高岡と松平の顔をおずおずと見比べる。
「おふたりの様子が、いつもと少し違っていたので……何をしているのか気になって」
「わたしたちの話を聞きましたか?」
松平が尋ねる。
吉住は勢いよく首を横に振った。
「いえ、まったく聞いていません。本当です!」
否定が早すぎた。
その狼狽ぶりだけで、高岡には答えがわかった。
松平が高岡を振り返り、「どうしますか」と問いかけるような視線を向けた。普段あまり走り慣れていないのか、肩を大きく上下させ、まだ息は整っていない。
「松平先生は先に進路指導室へ行っててください」
高岡は落ち着いた口調で告げた。
「高岡先生は?」
「わたしは吉住先生と話をしてから、すぐ向かいます」
そういうと、高岡はリストを松平に手渡した。
一二時〇二分(爆破まであと三時間二八分)
松平と別れてから二〇分が経っていた。
高岡が進路指導室に入っていくと、松平はパーテーションの向こう側でデスクトップパソコンの画面を睨んでいた。
左手に色鮮やかな各大学のパンフレットが並んだマガジンラックがあり、その奥に赤一色の過去数年分の入試問題が収められた〝赤本〟が並ぶ棚が続いている。そのほか、ここにはAO入試や推薦入試の試験内容、面接の質問集をまとめたバインダー、オープンキャンパスのチラシが並べられたテーブルがあった。
部屋の奥に向かい合わせに机が置かれ、進路の相談ができるようになっている。松平はそこに座っていた。
「大丈夫ですか? あれから吉住先生はどうしたんですか?」
松平がパソコンから顔をあげて、高岡に尋ねた。
「家に帰らせました」高岡は松平の向かいの椅子を掴み、腰をおろしながら話を続けた。
「対戦相手の高校にはわたしから中止の連絡をすると伝えました」
「……それで吉住先生は納得したんですか? やっぱりわたしたちの話を聞いていたんですよね」
「本人は否定していましたが、間違いなく聞いたでしょうね。でなければ、あとをつけるような真似はしないでしょう」
松平は眉間に一本の深い皺を寄せて、考えこむ顔つきになった。
「教頭に話さないですかね?」
教頭と甥の吉住は、まるで親子のように仲がいいことで知られている。
「話さないはずですよ。これは生徒の命がかかった話だから誰にも話してはいけないと、じゅうぶんに念を押しておきましたから」
「大人しくいうことを聞きますか?」
「その点は大丈夫です。説得には自信がありますから」
松平はまだ納得していないような顔つきをしていたが、身体を引くと、高岡の全身をまじまじと見つめた。
「それにしても、さっきのはすごかったですね。高岡先生が自転車を飛び越していったあれですよ。曲芸みたいに見えましたよ。高岡先生、あんなことができるんですね」
「そんなことより、リストのなかで目ぼしい生徒は見つかりましたか?」
もうすぐ数学のテストが終わって昼休憩になる。そのときまでに進展が欲しかった。
さっき高岡が見せたのはパルクールの技術だった。街中の壁や手すり、階段など周囲にあるものを障害物としてではなく、移動の足場として利用する身体技法だ。フランスに留学していたとき、現地の若者に交じって覚えたものだった。
松平はパソコンの画面に目を向け、真剣な顔に戻った。
「やはり模試の成績だけで、特定することは難しいですね。二組の浅見はリストから外せそうですが」
模試の成績ではなかったが、浅見はこの学校に入って以来、定期テストでいつも落第ギリギリの点をとり続けていて、追試を何度も受けてようやく学年をあがっているような有様だった。これで「成績がいいほう」だとはとても自分でいえないだろうと松平は話した。
「浅見は模試の成績も悪いですか?」
「かなりよくないですね。志望校判定も高望みしていないのに、ほとんどEばかりですよ」
とすると浅見はあり得ないか。
だが、彼を外してもまだ一一人残っている。
「数学が得意な生徒はいましたか?」高岡は訊いた。
「六組の堤と、わたしのクラスの芳賀は数学がほかの教科に較べて相対的にいいといえますけど……数学が得意だと自分で思えるかどうかはわかりませんね」
高岡もリストに載った生徒たちの過去の成績を自分の目で一人ひとり確認していった。
松平のいうとおり、そこには誰かを犯人だと断定できるほど決定的な材料は見当たらなかった。
犯人が模試を最後まで受けたいのだとしても、それが個人的な理由からくるものであれば、過去の模試の結果からそれを探るのは難しいのか……。
しかし、何かほかに方法があるだろうか?
昼休憩になればリストの生徒たちと接触できるが、それはあまりにも危険すぎる。もしも犯人に当たれば、その場で爆破スイッチを押されかねない
「これから、どうしますか?」松平が高岡に顔を向けた。
高岡は成績の映されたパソコンの画面を見て黙っていた。
松平が続けた。
「やっぱり警察に頼ったほうがいいんじゃないですかね。このままじゃあ、犯人を特定するのは無理ですよ」
高岡は松平を睨みつけた。
「だから、それはさっき話し合ったじゃないですか。外部に協力を求めるのは危険過ぎるんです。警察の選択肢はないものとして考えましょう。でなければ、いつまで経っても解決策は出てきません」
松平が黙りこんだ。
犯人は指一本動かすだけですべてを吹き飛ばせる。そこには説得も交渉も介在する余地はない。水面下で特定して一瞬の隙をついて押さえこむ――残された方法はそれだけだった。
「ほかに何かいい方策はありますか?」松平が高岡を見た。
高岡は娘のことを考えていた。
一二時三二分(爆破まであと二時間五八分)
ノックの音がした。
「どうぞ」
高岡が声をかけると、ドアがわずかに開き、綾が警戒するように顔を覗かせた。
高岡と目が合うと、ためらうように一瞬立ちどまり、それからそっと部屋に入ってくる。
その横顔は、胸が詰まるほど亡き妻に似ていた。
昼休みに入ると、高岡は綾の担任である浦上京香に事情を伏せたまま、「家庭の事情で少し話がしたい」とだけ伝え、綾を応接室に呼び出してもらっていた。
浦上は特に不審がる様子もなかったが、綾は違った。父親にこんな形で呼びだされたことなど一度もない。そのためか、何かを警戒するような表情を浮かべている。
応接室に入るのははじめてなのだろう。不安そうな面持ちを浮かべながらも、興味深げに室内をゆっくりと見まわしている。
この部屋でひと際目を引くのは、壁際に置かれたマホガニー材の大きな柱時計だろう。祖父の代から学校にある年代物で、いまも現役で時を刻んでいる。真鍮の振り子が、コチ、コチ、と静かな部屋に規則正しい音を響かせていた。
ほかにも、革張りの応接ソファや重厚なローテーブル、天井の高さまである飴色に艶を帯びた書棚、来客用のコートハンガーなど、アンティーク調の調度品が統一感を持って並べられている。
ひと通り室内を見まわしたあと、綾は急に興味を失ったように表情を消し、高岡へ視線を向けた。
「なんの用で呼び出したの?」
「ちょっと急ぎで話があったんだ。そんなに時間はとらせない。そこに座ってくれないか」
しかし、綾は動かなかった。
「まだお昼を食べてないから、用があるなら早くいって」
高岡は仕方なく、自分が立ちあがった。
妻が亡くなって以来、娘と話をすることが急速に難しくなっていた。
高岡が近づくと、綾が身体を固くするのがわかった。
「いま、ある調査をしているんだ」
「なんの調査?」
「詳しくは話せないんだが……綾はこの学校で顔が広いだろ。だから、少し聞きたいことがあってね」
綾は二年生のとき生徒会の副会長をしていた。そのときの会長は、現在行方不明になっている宮坂希子だ。ふたりは親友で、幼馴染でもあった。
希子が行方不明になってから、綾はめっきり暗くなってしまった。学校ではほとんど誰とも話さないと聞いている。
「テストが終わってからじゃ駄目なの? まだお弁当食べてないんだけど」
「すぐに終わるよ。これを見てくれないか」
手書きのリストを見せた。成績の悪い浅見を消して、一一人に絞っている。
「ここに載っている生徒をみんな知ってるだろ」
綾はリストに目を向けて、
「まあ、名前だけの子もいるけど……なんで?」
「そのなかで、アムステルダムに行ったことがある生徒を知らないかな?」
「アムステルダム?」
ますます話がわからないといった顔つきになる。もう一度、リストに目を落としてから、
「そんなの知らないわよ」
「そのリストにいなくても、そういう話を聞いたことないか?」
「ないよ。……ほんとになんなの? どういう意味?」
「いや……これは、ただの調査なんだ。それじゃあ、このなかで犬を飼ってる者を知ってるかな」
「は? 犬? そんなこと知るわけないでしょ」
「……じゃあ、このなかの父親で反社会的な思想を持った者は?」
「え?」
綾は顔を曇らせた。
「父親がどんな人かなんて、わたしが知ってるわけないでしょ。付き合ってるわけでもないのに」
「別に変な意味でいってるわけじゃないんだ。噂でもいい。そういったことを聞いたことはないか?」
「そんなこと聞いてどうするの? 内申書にでも書くつもり?」
「そんなことはしない」
「じゃあ、なんでそんなことを調べるのよ」
「ただの調査なんだよ。そういった情報があって……学校としても、一応調べないといけないんだ」
「そういった情報って何? 父親がどんな人でも子どもには関係ないでしょ。別人格なのよ。それで大学の推薦が駄目になるとかあり得ない」
「いや……推薦とかは関係ないんだ」
「関係あるんでしょ。それで推薦をとり消そうとか考えてるんでしょ」
「違う!」
爆弾のことを話せないから、納得させるのは難しい。
高岡は声を穏やかにして、繰り返した。
「本当に推薦とかは関係ないんだ。綾が何をいったとしても、その生徒の進路に影響することはない。……だけど、これはすごく重要なことなんだ。あとで何もかも説明するから、もう一度リストを見て、よく考えてほしい」
綾はもうリストを見ようともしなかった。
「なんど見ても一緒よ。あとで説明してくれなくてもいい。ほんとにこのなかに個人的な付き合いのある人はいないから何も知らない」
それからドアのほうをちらりと見て、
「もういい?」といった。
高岡はじっと綾の顔を見つめたあとで頷いた。
これ以上話しても綾の気持ちを変えることはできそうにないと思った。とはいえ、綾が嘘をついているとも思えない。リストの者たちの情報を知らないのは本当のように感じる。
綾が部屋を出る前に、高岡は声をかけた。
「綾、きょうの模試をやめて家に帰ってくれないか?」
綾が立ち止まる。振り返ったその顔には、困惑とあからさまな警戒が混じっていた。
「それって、どういう意味?」
「体調が悪くなったからと、浦上先生には話しておく」
「は? なんで、わたしがテストをやめなきゃいけないの?」
「ほら、こんなふうに昼休みを使わせてしまったから……英語のテストに差しさわりがあるだろ」
綾は床置きの時計を見て、細い眉を寄せた。
「まだお弁当を食べる時間があるから大丈夫だよ。……午後から何があるっていうの?」
「とくに何かあるってわけじゃない。ただ、模試はいつでも受けられるから、万全の状態で受けたほうがいいと思って」
「何かあるんでしょ。でなきゃ、そんなこというはずないよね」
「ほんとうに何もないんだ!」
「怒鳴らないでよ」
「怒鳴ってない。ただ……」
言葉に詰まった。何かうまい、いい訳はないかと考えたが、思いつかなかった。
「もういい」
下手に引き留めれば、ますます綾の不信感を煽ることになる。誰とも話さなくなった綾がそんなことをするとは思えなかったが、ほかの生徒に聞きまわられるとまずい。
「もういいって、何が?」
「いま、いったことはすべて忘れてくれ」
目を細めて綾は高岡をじっと見つめた。
「なんか、よくわからないけど、テストは大丈夫だから」
そういうと部屋から出ていった。