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1(承前)

 

 不破は東日本各地の歓楽街や温泉街で生きてきた。夜の世界に慣れていたつもりだったが、自分が過ごした街とは比較にならない不夜城に来たのだと思い知らされる。ゴーゴースナックやキャバレーから聞こえてくる管楽器やドラムの演奏ひとつ取っても、チューニングさえまともにできない田舎バンドが奏でる音とは質が違う。

 大通りから一本外れた路地に目をやると、ツタの絡まった建物や、西洋の城みたいな形をした名曲喫茶がある。モダンジャズやクラシック音楽を聞かせる店らしい。

 死ぬまで音楽や演劇を愛した母が、なぜこの街のことをよく話すのかがわかった気がした。

 不破は王大偉の城へと向かった。それはコマ劇場の傍にある。母がスクラップ帳を開いては、しょっちゅう父の城を自慢していたため、道に迷うことはなさそうだった。

 スクラップ帳には新聞や雑誌の切り抜きが貼られてあり、父に関する記事が几帳面に保存されていた。王大偉と別れる羽目になり、この街を去ってからも、母は彼を称え続けた。

 王大偉の城は、昨年になって様々な娯楽施設が入った高層ビルに生まれ変わった。今ではコマ劇場と並んで、新宿の新しいランドマークとなっているという。

「あれだ……」

 不破は高層ビルを見上げた。目的地である『新宿ブライトネスビル』だ。

 奥行きのあるドッシリとした建築物で、一階はパチンコ屋の黄金色のネオンが輝いている。

 屋上から吊るされた垂れ幕には、新装開店を謳うサウナや大衆割烹の名が大きく記されてある。ビルの壁面には、〝ブライトネスビル〟と記された赤いネオンサインが光っていた。

 パチンコ屋やサウナだけではなく、ビルには『新宿ブライトボウル』という名のボウリング場もある。東京でもボウリングはかなり人気なようで、一階の出入口にはカップルや若者グループが列をなしていた。

 ビルの前には噴水広場が設けられてあり、その周りをぐるりと娯楽施設のビルが取り囲んでいる。ブライトネスビルと同じく、映画館やボウリング場、キャバレー、ダンスホールなどが入っている。それらのビルには、迫力のある映画の絵看板が掲げられ、噴水広場は平日の夜にもかかわらず、多くの人でごった返している。まるで欧州の石造りの街のようだった。

 ブライトネスビルの正面ドアを潜ると、壁に案内板と四基のエレベーターがあった。まだ建てられて間もないせいか、壁や床はピカピカで、真新しい建築材の匂いがする。金属製の案内板に目をやると、五階に『株式会社ブライトネス』の事務所があるとわかった。

『ブライトネス』の前身は『大慶だいけい商事』なる会社だ。戦後まもないころ、このあたりがまだ小さな商店街と野原しかなかった時代にいち早く映画館を建設した。

 ここを外国人も観光に訪れるような一大娯楽街にする。そんな志に燃えていた復興協力会会長の鈴木喜兵衛すずききへいや東京都の石川栄耀いしかわひであき都市計画課長らの考えに共鳴し、王大偉は私財を思い切って投じたのだという。母から童話のように、寝る前によく聞かされた。

 娯楽街の形成はそうそう簡単には行かなかった。新宿という街が急速に拡大していくのに合わせ、大手企業も歌舞伎町へ進出しようと試みるも、金融資産の引き出しを制限する預金封鎖や建築制限令などにことごとく阻まれ、計画は頓挫してしまう。歌舞伎町という名前を冠しながら、歌舞伎座を誘致できずに終わっている。

 後に成功を収める王大偉も、劇場経営にはだいぶ苦戦を強いられた。

 昭和二十三年、軽演劇やレビューの熱烈なファンだった王大偉は、戦災によって消失した『モンマルトル』という大衆劇場を新宿駅前に再オープンさせた。フランス仕込みの質の高いレビューの公演を行うも、新宿帝都座の〝額縁ショー〟をきっかけに始まった過激なヌードショーやストリップの大ブームに押され、『モンマルトル』はたった七年の歴史で幕を閉じてしまった。

 エレベーターの扉が開いた。不破が荷物を抱え直して乗りこむと、他にも男たち三人がドヤドヤと入ってきた。明らかにガラの悪そうな連中だった。

 革ジャン姿にサングラスをしたチンピラ、とっくりセーターを着た坊主頭、彼らの兄貴分と思しき痩身の男はギャング映画から抜け出したようなファッションで、カシミヤ製のコートにボルサリーノを斜めにかぶっている。

 坊主頭と革ジャンの男からぶしつけに凝視され、兄貴分らしき男が首をかしげた。

「あんちゃんも会員なのかい?」

「会員?」

 不破はおうむ返しに尋ねた。

 兄貴分の男がボタンを指さした。最上階の八階を示すランプだけが灯っており、その横の表示板には『会員制クラブ 波士敦ボストン』と記されてある。

「これは……申しわげねっす」

 ボタンを押すのを忘れていた。エレベーターなどめったに乗ったことがなく、操作の仕方をわかっていなかった。

 不破は顔が火照るのを感じながら、男たちに頭を下げて五階のボタンを押した。だが、遅かった。エレベーターは五階を通過して上昇し続ける。

 坊主頭が顎をしゃくった。

「ただの田舎者かよ。それにしてもひでえ訛りだな。どこから――」

 兄貴分が坊主頭を遮って訊いてきた。

「五階になんの用があるんだ」

 兄貴分の声はひどくしゃがれていた。不破に射るような視線を向ける。

「いや、その……」

 不破は言葉を詰まらせた。

 アルバイトの面接などと適当に言ってごまかそうとした。だが、男の鋭い目つきで見つめられると、右も左もわからぬ田舎出の少年の嘘など、いとも簡単に見抜かれそうな気がした。余計面倒なことになりかねない。

「王大偉さんに会いに来たんです」

 坊主頭と革ジャンの男から笑みが消えた。エレベーター内の空気がぴんと張りつめる。不破はしくじったと思い、適当にやり過ごすべきだったと後悔する。

 兄貴分は不破を頭のてっぺんから靴先まで見回した。彼の目つきは変わらず、王大偉の名を聞いて一層険しくなったように見える。

 不破は歯を噛みしめた。濃厚な暴力の気配をすばやく感じ取る。

 兄貴分が手を伸ばしかけたとき、エレベーターが最上階に着いた。ドアが開いた途端、賑やかなジャズの音が飛び込んできて、天井のシャンデリアが輝く豪奢なフロアが目に入った。ネクタイをキッチリと締めた店員たちが頭を下げる。

近藤こんどう様、いらっしゃいませ」

 兄貴分はもう不破を見てはいなかった。彼は剣呑な気配を消し、店員に軽く手を上げた。ゆったりと絨毯を歩む。舎弟分のふたりも、近藤と呼ばれた男の後を追う。

「お前ら、焼酎みてえにガブガブ飲むなよ。じっくりとれ」

 兄貴分がふたりをからかう。坊主頭と革ジャンの男が照れたように首をすくめる。三人は店員に席へ案内されながら消えていった。

 エレベーターのドアが閉まった。急に別世界が消えて、無機質な空間に戻った。ジャズの音が遠ざかる。

 不破はため息をついた。なんの理由もなく罵倒されるのも、野良犬みたいに殴られるのも慣れてはいた。裏社会の人間たちにもいろんな意味で可愛がられもした。小指がなかったり、全身にお絵描きをした人々だ。

 もはや自分にはなにもないが、そこいらの若者よりも度胸はあると思っていた。仕立てのいい背広なんかを着て、格好だけは一丁前のヤクザもよく見てきた。そんなのに限って女子供相手にしか威張れないハッタリばかりなのも知っている。

 母は新宿を最先端の文化や芸術を謳歌できるところだと評し、いつも美しい思い出を語っていたが、そんなユートピアではないのもわかっているつもりだった。

 全国から家出人が集まる場所で、それを食い物にするアコギな手配師やエロ事師が待ち構えている。これだけ数多くの飲食店や夜の店がひしめいているということは、ヤクザや愚連隊の数も桁外れであるのを意味していた。それを承知のうえで上京したのだ。すでに腹をくくっているつもりでいた。

 だが、あの兄貴分の男は、今まで見てきたヤクザとはなにかが違った。目も合わせられなかった。ただそこにいるだけで、他人をすくませる迫力があった。

 エレベーターが五階に着いた。不破は気を取り直して顔を上げた。縮こまる必要はない。あのヤクザたちですら、王大偉の名前を聞いて態度を変えた。自分はこの街の王の息子なのだと言い聞かせる。

 エレベーターのドアが開き、不破は学帽をかぶり直した。

 

 

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