目が合った、気がした。
気のせいだったかもしれない。瞬きをした後にはもう、彼女は教師に呼ばれてこちらに背中を向けていた。
大人びた物腰で教師と話している彼女は長い黒髪を後ろで一つに束ね、校則通りの膝丈のスカートを揺らす優等生。実際に成績も優秀なのは、学年中で周知の事実。まさに世間一般の大人が求める理想形といった感じで、同じ女子高生でも自分とこんなに違うものかと感心するくらいだ。
こちらは一方的に名前も顔も知っているが、高校生活が始まって一ヶ月以上が過ぎた今も、個人的な関わりは一切ない。うちの学校は中高一貫だが、同じクラスになったのも今年が初めてだ。
だから、視線を感じたのも気のせいかな、と思った。こちらではなく、後ろの壁掛け時計を見ていただけ、とか。
だけど後になって考えれば――それは確かに、予兆だったのだと思う。
放課後に訪れた図書館は今日も静かで、閑散としていた。
区役所庁舎の二階にある区立図書館の分館は、蔵書も閲覧席もそれほど多くはない。十八時で閉館という使い勝手の悪さのせいもあって、館内はたいてい人影もまばらだ。邪魔が入らなくてありがたい。
独特の紙のにおいを吸い込みながら、カウンターで暇そうにしている職員の前を横切る。まだ五月の下旬だというのに外はうっすら汗ばむほどの陽気で、制服のスラックスの裏地が脚にまとわりつくのがうっとうしい。衣替えは六月からと校則で決められている。
いつも通り、人目につかない奥の窓際の席に座る。ここの閲覧席は、隣り合った二席ずつが衝立を挟んで向かい合う形で一つの島になっている。向かいの二席も空いていることは確認済みだ。
鞄のジッパーを開けると、携帯の通知ランプがちかちかと光っていた。手に取ると同時に、チャットアプリのメッセージが次々と送られてくる。
『今日の現国で出た宿題のグループワークなんだけど、今ファミレスで話し合ってて』
『もし蔵内さんも来られそうならどうかな』
『急にごめん、来られたらでいいから』
送り主はクラスメイトだった。中学に入った頃はそこそこ仲が良く、休日に遊んだこともある相手だが、中三の頃から彼女は流行に敏感なグループに立ち位置を変えて、ほとんど喋らなくなった。今では彼女をなんと呼んでいたかも思い出せない。向こうだって、当時交換した連絡先なんて埋もれていただろうに、わざわざ連絡してきたのは――やはり、気を遣われているのだろう。
手早く返信を打つ。『連絡ありがとう。ごめん、今日は難しいから進めてくれると助かる』。瞬時に既読になるのを見ながら携帯を鞄に放り込み、代わりに中のクリアファイルから、原稿用紙をコピーした紙束を取り出した。
閉館まであと一時間しかない。集中するために静かに息を吸い、頬にかかる髪を耳の後ろに押し込める。中途半端に伸びた項の毛の先が、シャツの襟に引っかかるのも気に障る。短い髪は小まめに切りに行かなければいけないのがおっくうだと、気がそれるのを深呼吸で正す。もう何度も読んでいるのに、どうしても平常心でいられない。
いよいよ最初の行に視線を落としたところで、隣の椅子に誰かがすとんと腰かけた。
驚いて顔を向けると、三日月のように優雅な微笑みに迎えられた。
「こんにちは、蔵内さん」
制服の細いタイを揺らして、海瀬由埜がこちらを見つめていた。
教室で見た時は一つに束ねられていた髪は、今は解かれて癖もなくまっすぐに流れ落ちている。長い睫毛が影を落とす左右対称の顔は、少女漫画の一コマのようだ。おまけに教師受けのよい真面目さに、試験の順位がトップ10から外れたことがないという優秀さ――ここまで非の打ち所がないと嫉妬の餌食になると世間では思われそうだが、少なくとも海瀬由埜はそうではない。誰からも一目置かれ、あるいは遠巻きにされている。もちろん、わたしもその群衆の一人だ。
どうして、彼女がここにいて、わたしに声をかけている?
「海瀬さん?」
小声で返事をすると、海瀬由埜は嬉しそうに口元をほころばせた。
「私のこと、知ってるんだ」
「うん。頭いいって、有名だから」
「そっか」
恥ずかしがるようにうつむく仕草も何となく芝居がかっていて、現実味がない。
「……それで、何か用?」
海瀬由埜と違って、こちらは学年の誰にでも知られた顔ではない。同じクラスだから名前くらいは知られていても不思議ではないけれど、口を利いたこともない彼女が何の用だろう。閉館時間が迫っていることもあって、つい口調がそっけなくなる。
「悪いけど、時間もあんまりなくて」
「うん、邪魔してごめんね」
柔らかに受け流して、海瀬由埜はすっと手を伸ばし、机の上に置いたままの紙束を指さした。
「それ、気になって」
「え?」
「蔵内さん、よくここに来てるよね。これ、書いてたの?」
「……違う、けど」
「じゃあ、誰が書いたの?」
「それは……」
とっさに言葉が出てこない。そもそもどうしてわたしがここに通っていることを知っているのだろう。周りに知り合いがいないことを毎回確認しているつもりだったのに。
混乱して黙り込むわたしを、海瀬由埜は猫のように大きな黒目でじっと見つめている。
クラスメイトとはいえ、今日初めて会話をした相手だ。言いたくない、関係ないと突っぱねてもいいはずだった。
それでも何故か正直に答えてしまったのは、多分、その目力に押し切られたからだ。
「……母親、だけど」
「蔵内さんの、お母さん?」
「そう。この間、事故で亡くなって」
想定通りの沈黙。海瀬由埜が何かを言いかけるように唇を動かし、閉じる。口にすべき言葉に迷っているように。
母が亡くなったのは数ヶ月前――一月の半ば頃で、まだわたしは中学三年生だった。母の葬式はごく小規模のもので、学校関係者からの参列もほとんど断っていたから、当時クラスが違って接点もなかった海瀬由埜が、そのことを知らなくてもおかしくない。
これで話はおしまい――と思えたのは、ほんの少しの間だけだった。
「……私には、父親がいないよ」
言葉に詰まったのは、今度はわたしのほうだった。
海瀬由埜は、愛想笑いや誤魔化し笑いではない、穏やかな微笑を浮かべた。
「それ、よかったら、読ませてもらえない?」
不躾ともいえる申し出だったのに、不思議と嫌悪感はなかった。片親がいないという、勝手な仲間意識の仕業かもしれない。
「いいよ」
手元のコピー用紙をクリップで束ねて、押しやった。
一枚目には、少し大きめの字で、タイトルが書かれている。
***
「砂の国の女王が死んだ」
砂の国の王都で開かれた女王の戴冠式は、それは見事なものでした。今にして思えば、あれが最後の女王になるということを暗示していたのかもしれません。
王都は堅い岩壁に囲まれた峡谷に作られた町で、狭い平地に煉瓦造りの建物がひしめき合っています。中でも王宮はいっとう高く立派な建物で、岩窟を利用して造られたバルコニーからは、都を一望することができました。
そのバルコニーに、新たな女王が姿を見せた時、国民は地響きのような歓声をあげました。
前の女王であった母から王位を継いだ新たな女王は、十七歳を迎えたばかりでした。砂漠の白砂のように滑らかな肌を持ち、一筋の乱れもなく結い上げられた長い黒髪は夜の帳を織り上げたようであり、大きな瞳の美しさには満月とて敵うものではありません。金銀宝石がちりばめられた薄衣をまとい、頭よりも大きな金細工の王冠をいただいた娘の姿は、生ける女神のように神々しいものでした。
人々は我知らず、声を揃えて叫びました。
女王陛下万歳!
砂の国よ、強く永遠なれ!
広大な大陸の中央に位置する砂の国は、その名の通り、国土のほぼすべてを砂漠が占めております。昼の灼熱と夜の極寒に痛めつけられ、不意の砂嵐が何もかもをぶち壊すことさえ珍しくない不遇な国でした。それでも人々は、砂地を掘って地下街を作り、遠き水源からはるばる清らかな水をひき、少ない植物を栽培して家畜を育てる努力を怠りませんでした。そうして砂の国は、小国ながら周囲の緑豊かな国に負けぬ強国に成り上がったのでした。
長く在位した前女王の死後、後継がなかなか決まらぬことに、人々は不安を募らせておりました。砂の国では女が国を統べるのが理となっているのですが、このたびは女王の子どもたちの間で、王位を巡ってずいぶんな争いがあったとささやかれています。ただでさえ、東の隣国と北の蛮族との争いが長引いて、人々の心に暗い影を落としていました。だからこそ、こうして新たな女王を無事に迎えられたことに、安堵を覚えているのでした。
初々しい女王が唇をわずかに震わせ、片手をあげると、人々の熱狂は頂点に達しました。
誰も疑っていませんでした。この国の明るい未来を、永遠に続く繁栄を。
新たな女王が残酷な真実を知らされる、その時までは。
戴冠式を終え、若き女王が私室で一人物思いにふけっている最中、その者は姿を現しました。
「――真実を告げに来た」
そして、おつきの女官が女王の身支度のために私室を訪れたその時にはもう、そこには誰の姿もなかったのです。
(ページ終わり)
***
王宮から出た二人の頬に、砂漠の乾いた砂交じりの風が吹き寄せます。遠く地平線の向こうには、もやのような塊が見えています。砂嵐が近づいているのです。
老婆は振り返り、今にも風に吹き飛ばされそうな同行者の様子をうかがいました。人目を避けるため、大ぶりのマントで顔と体をすっぽりと覆っていても、薄く頼りない体つきを隠しきれていません。
「ベネトナシュ」
老婆の声は、勢いを増した風にかき消されてしまいました。
ベネトナシュ――この国の頂点に君臨する気高き血筋の貴種は、口に入った砂に苦戦しているようです。無理もありません。生まれてこの方、砂嵐どころかそよ風にも当たらぬように、大事に育てられてきたのですから。ごてごてとした飾りをすべて外した柔らかな薄衣は風になぶられ、乱れた黒髪は被り物から半分ほどはみだしています。それでも、滑らかな肌を痛めつける砂に怯まず、満月の瞳で前を見据え、しっかりとした足取りで老婆の後をついてきています。
老婆は言葉を続けようとしましたが、また砂が吹き付けたので、口を閉ざしました。
焦ることはありません。話をする時間は、まだまだあるのです。
二人の前には、砂の大地が果てしなく広がっています。
(ページ終わり)
『暗夜に君と星をたどる』は全4回で連日公開予定