1(承前)
八階の煌びやかな空間とは正反対に、五階は拍子抜けするほど暗く、通路のほとんどの灯りは消されていた。いくつかの会社が入っているようだが、そのどれもが『ブライトネス』系列の事務所のようだ。
『ブライトネス』の前身である『大慶商事』は、映画館と劇場の経営から始まった。歌舞伎町の開発が進まなかった苦難の時代を乗り越え、その後はこの街の発展とともに、事業を拡大させていったのだ。
現在はボウリング場やレストラン、キャバレーやナイトクラブを手がけ、真っ先にここへ進出した強みを活かし、『新宿ブライトネスビル』を中心に、他にもいくつかの商業ビルを所有している。
多摩地域の宅地開発やガソリンスタンドの運営にも力を入れており、いくつもの子会社を抱えるグループ企業となった。事務所の出入口には、『大慶フーズ』『大慶石油』『大慶エンターテインメント』と記された看板が貼られてある。グループの中核企業である『ブライトネス』は、エレベーターの傍に位置していた。
『ブライトネス』では何人かがまだ働いているようで、タバコの煙が通路にまで漂っていた。
不破は『ブライトネス』のドアをノックした。とくに返事は返ってこない。勇を鼓してなかに入ると、大きな映画のポスターが目に飛び込んできた。
壁一面にたくさんの映画のポスターが貼られてあり、雑然とした雰囲気に包まれていた。事務所こそ新しいものの、社員たちの机は書類が山積みで、その周りには段ボール箱がいくつも重ねられている。灯りは煌々とついたままで、店屋物のチャーハンを食っている者や、タバコを吹かしながらペンを走らせる者、黙々とソロバンを弾いている者などがいた。しかし、不破の訪問に対応しようとする社員はいない。
「あの、ごめんください」
不破は声を張り上げた。
男性社員たちの視線が一斉に集まる。誰もが訝しげな顔つきだ。出入口に近い若い男が、チャーハンを食べる手を止めて訊いてきた。
「僕、どうしたの。卓球クラブは下の階だよ」
「王大偉さんはいますか?」
「大偉さんって……」
若い男の顔が強張った。エレベーターで出くわしたヤクザとそっくりな反応だ。
「ヤブさん」
若い男が救いを求めるように、ソロバンを弾いていた中年の社員を見やる。
ヤブと呼ばれた社員はソロバンの手を止め、上目遣いに不破を見上げた。黒い腕カバーと大橋巨泉のような黒縁のメガネをかけており、野暮ったい田舎の役人みたいだった。彼はおもむろに腕カバーを外すと、わら半紙と鉛筆を手にして席から立ち上がった。
「こういうお客さんは久しぶりだな」
ヤブに事務所の端へと案内された。テーブルセットの簡素な椅子を勧められる。
不破が椅子に腰かけると、ヤブは対面に座ってテーブルにわら半紙と鉛筆を置いた。
「名前と住所、連絡がつきそうな電話番号があれば、それも書いてもらえるかい。ふりがなも忘れないでね」
ヤブはそれこそ役人みたいな口調で告げてきた。不破はわら半紙に目を落とす。
「これはなんだべが」
「受付票だよ。気を悪くしないでくれ。誰だかわからん人をうちの会長に会わせるわけにはいかないのでね。名刺持ってないだろう」
「はあ」
「じゃあ、書いてくれるね」
ヤブはポケットからタバコを取り出し、マッチで火をつけて盛大に煙を吐いた。
不破は名前とふりがなを書きながら不安を覚え始めた。いきなりやって来た自分が、手放しで歓待されるとは思っていない。王大偉はこの街の顔役だ。招かれざる客が昼夜を問わずにやって来るのだろう。
――大丈夫よ。行けば必ずわかってもらえる。手紙にはあなたのことをよろしくと書いてあるから。
病床の母は言っていたものだった。
母の言葉を信じて上京したものの、ヤブのお役所じみた対応を受けると、母の考えと現実には隔たりがあったのではないかと思う。
母は善人ではあったが、幸福な人生を送ったとは言えない。最期は不破と小指のない小屋の支配人、それに半年間だけともに働いたストリップ嬢の三人に見送られて寂しく逝った。
不破は鉛筆の手を止めた。ヤブに訊かれた。
「どうしたの」
「住所も電話番号もねえっす」
「ええ?」
「ここに来れば、もう心配しなくていいがらって」
「誰にそんなことを言われたの」
ヤブの顔が徐々に曇っていく。
「母だべ」
ヤブがわら半紙を手に取り、そこに書かれた名前を呟いた。
「不破……」
不破は前のめりになって声を張り上げた。ヤブだけではなく、事務所にいる全員に聞いてもらいたかった。
「母の名前は不破有紀子といいます。こちらで昔やってだ『モンマルトル』の舞台女優をしてだって。その母も先月死んじまったんで、こうしてひとりで上京したんです。母が常々言ってました。自分が死んだら新宿に行げって。なぜなら、おれの父親は王大偉さんだがらって」
事務所にいた男たちが、仕事や雑談を止めて一斉に不破を見つめた。ヤブを含めた全員が目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
ヤブはまだつけたばかりのタバコを灰皿に押しつけると、椅子から慌てた様子で立ち上がった。早足で隣の別室に向かうと、静かにドアをノックした。
ヤブは母を知っているのかもしれない。不破有紀子の名を聞いて狼狽している。まったくのでたらめだと一蹴され、事務所から叩き出されずには済みそうだった。
不破は別室のドアを見つめた。ヤブの仕草を見るかぎり、別室には重役が控えているのかもしれない。もしかしたら、父親なのだろうか。
鼓動が速くなっていくのを感じる。すぐ傍に父がいるかと思うと、とても落ち着いてはいられない。ヤブは別室に消えたまま、なかなか出てこようとしなかった。学帽の鍔を握りしめて待ち続けた。
おれはどうなるんだべが。あの世の母にも尋ねてみた。母はきっと大丈夫だと、のんきに答えるだろう。
石礫が左目に命中し、眼医者から失明と告げられても、母はいじめっ子たちを恨んではいけないと不破を諭した。あなたは『しんとく丸』なのだと。
『しんとく丸』は、母がとくに好んだ民話だ。しんとく丸は継母に呪いをかけられて視力を奪われ、長者の家を追い出され、物乞いとして苦難の道を歩む。
飢え死にする寸前のところで、仏様や氏神様に助けられ、かつて婚約していた心優しい娘と再会し、観音様のご加護により視力も戻ってめでたしとなる。その一方、しんとく丸を追い出した実家の長者は没落。話のオチはいくつかあるようで、しんとく丸に呪いをかけた継母は物乞いに落ちぶれるか、大人になったしんとく丸に斬り殺されるかするのだ。
母は舞台女優をしていただけあって、その手の物語に詳しかった。『しんとく丸』『小栗判官と照手姫』、シェイクスピアの『ペリクリーズ』などだ。数年前はテレビを持つ下宿先の大家に頼み込んで、大河ドラマの『源義経』を毎週見せてもらっていた。
気高い身分の者が、苦しい流浪の人生を歩まざるを得なくなり、最後は主人公の人徳や信心深さのおかげで返り咲きを果たすといった話だ。母は新宿という都から追い出された自分を、この種の物語の登場人物と重ね合わせていたのだ。
ヤブが別室から出て来た。隅にいた不破を手招きする。
「君、来てくれるかい?」
不破は椅子から勢いよく立ち上がった。風呂敷とアタッシェケースを両手で抱え、駆け足で別室へと向かった。
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