父ちゃんは上峰電工という地元の電気設備会社で資材管理課長という立場にあるが、あまり大きな会社ではなく、金額は知らないが給料もあまりよくないらしい。
サービス残業が多くて、母ちゃんが何度か「残業手当を出さないなんて、完全に違法行為じゃないの」みたいなことをぼやいているのを聞いたことがある。なので光一は、これまでにまともな家族旅行をした覚えもないし、たまの外食もファミレスだし、父ちゃんはパジャマ代わりに、光一が高校生のときのグリーンの超ダサい体育用ジャージを使っている。家計が楽ではないことは、肌で感じている。
その上、ばあちゃんの面倒をみることになったのだから、事態は余計に大変になっている、ということか。やば。
「ばあちゃんて、身体の具合が悪いとか、ぼけてきてるとか、そういうのはないんだよね」
「今のところはね。本人も、何も構ってもらわなくても大丈夫だって言ってるし。でもベージュに近い年だから、ちょっと転んだだけで骨折して、そのまま寝たきりになったり、急にぼけたりするかもしれないから、家族みんなで気をつけとかないとね」
「何、ベージュって」
年を取ったらベージュの服ばっかり着るようになるのか?
「あんた、そんなことも知らないの」母ちゃんは、あきれ顔で溜息をついた。
「お米のベイにコトブキで米寿でしょうが。米という漢字は、分解したら八十八って読めるでしょ」
母ちゃんは勝ち誇ったように言い、さらに六十が還暦、七十が古希といった、聞いてもいない説明を始めた。さらには、七十七を喜寿と称するのは、喜の文字を草書にすると七十七のように見えるからだとか、九十九歳を白寿というのは、百から一を引いたら白だからだ、といったことをべらべらとしゃべり、「受験生がそんなことも知らなくて大丈夫なの?」と思いっ切り上から目線で言った。
「センター試験にそんなの出ないんじゃね? それより、もしそういうことになったら、どうするわけよ」
「何が」
「だから、もしばあちゃんが骨折してそのまま寝たきりになったり、急にぼけてきたりしたらさ」
「もしもの話を今からしたってしょうがないでしょ。そうならないように、みんなで気をつけましょうって言ってるの」
「家ん中でつまずかないように、バリアフリーっての? 段差をなくすように改装するとか、手すりをあちこちにつけるとか、そういうことをするわけ?」
「そんな余裕、うちにあると思ってるの? 何かあれば、おばあちゃんの様子を見ながら考えるしかないじゃないの。でも多分、必要ないんじゃない? 家庭菜園とかやってたっていうし、病気や怪我で寝込んだっていう話も全然ないんだし」
要するにノープランってことじゃねえかよ。
「一つだけ心配なのは」と母ちゃんは続けた。「お年寄りって、ずっと元気だったのに、急に環境が変わるとぼけたりすることがあるのよね」
「引っ越しとか?」
「そうそう」
「じゃあ、思いっ切り、やばいじゃん」
「でもおばあちゃんの場合は、もともとこっちに住んでたわけだから、大丈夫よ、きっと」母ちゃんはそう言ってから「多分」と言い直した。
「え、ばあちゃんって、こっちの出身?」
「そうよ。おじいちゃんは早くに亡くなって、おばあちゃん、こっちで書道教室とか裁縫仕事とかをしながら、栄一郎さんとお父さんを女手一つで育てたのよ」
「へえ」
「あんた、何も知らないのね」
「だって、聞かされてないんだから、知らなくて当たり前だろ」
「栄一郎さん、就職してあっちの土地で結婚したんだけど、割と早く離婚したこととか、その後でバイク事故を起こしたことは知ってるわよね」
「ああ」
「その事故で栄一郎さん、身体がちょっと不自由になったから、おばあちゃんが身の回りの世話をするために、向こうに移ったわけ。で、そのまま四半世紀が経ったってこと」
「ばあちゃんが栄一郎さんのところに引っ越したときは、お父さんはもう就職してた?」
「そう。ちょうど結婚するちょっと前だったわね」
「母ちゃんと」
「当たり前でしょ、馬鹿」
ばあちゃんにとっては、こっちが故郷だったのか。でも、二十五年も離れていて、急に戻って来るとなると、やっぱり急激な環境の変化だろう。
ぼけるかも。ぼけたらどうなる?
父ちゃんは常に残業で、たいがい十時を過ぎないと帰って来ないし、休日出勤も多い。母ちゃんも週に六日、パートで朝から夕方まで不在。妹の光来も毎日のように帰りが遅い。
ということは、どういうことだ。
「ねえ。もしかして、いざとなったら俺にばあちゃんのお守もりを押しつけようってことか」
「だーかーらーっ、おばあちゃんは今のところ元気で、構ってもらわなくていいって言ってるんだから。あんたは受験勉強をして、ときどき息抜きに、様子を見てあげたらそれでいいじゃないの。トイレとか入浴の手伝いをしろなんて言ってないでしょ。おばあちゃんは元気で、一人でトイレもお風呂も行けるの」
「でも、ぼけたらどうするんだよ」
「ぼけない、ぼけない」
「何を根拠に言ってんだよ」
「あんたの方こそ、ぼけるっていう根拠を示しなさいよっ」
近くの自動販売機で飲料を買った若い男性サラリーマンが、噴き出しそうな顔でこちらを見てから顔を背けた。母ちゃんは、ばつが悪そうに咳払いをした。
ジャージのポケットの中でスマホが鳴った。メールの着信だ。
宅浪仲間の久間からだった。高校時代の同級生で、学力の水準が近いため、一緒によく図書室で勉強した仲だ。予備校に行かないで、通信講座を受けながら宅浪をすることにしたのも、久間から誘われてのことだった。
光一は、受信したメールの文面を呆然と見つめた。
──悪い。親父が宅浪は駄目だと言うので、やっぱり王立予備校に行くわ。親が勝手に申し込んでて、授業料も払ったっていうので。真崎もどうかな。今からでも入れるって。
あの野郎。光一は一瞬、スマホを叩きつけたい衝動にかられた。
返信メールを打ち込んだ。
──ざけんなよ、にきびヅラ。てめえが宅浪やろうって誘っといて、何だそれは。二度とメール寄越すなボケ。
しかし送信できず、消した。ののしるような言葉を連ねたところで、事態が変わるわけではない。あいつの誘いに乗って決めたわけじゃない、誘われなくても宅浪するつもりだったのだ、あいつがどうしようと関係ない。そう自分に言い聞かせた。
結局、〔俺は宅浪でいく。〕とだけ打ち込んで送った。そっけない返事の方が、かえって怒りが伝わるような気がした。
直後、そんな事情を知らない母ちゃんが小声で言った。
「でもやっぱり、おばあちゃんが外に出るときは、ついて行ってあげてよね。
転んだり事故に遭ったりしたら大変だから。道に迷うかもしれないし」
「えーっ、やっぱり俺に押しつけるわけじゃんか」
「何言ってるのよ」母ちゃんは、いかにもおばさん臭い感じで、平手で叩く仕草をした。
「近所の散歩とか、せいぜいその程度のことでしょ。あんたがついててあげるのを近所の人たちが見たら、おばあちゃん思いのいい子だって評価が上がるし、あんただってちょうどいい感じの息抜きになるじゃないの」
「近所の評価って何だよ。ふざけんなよ」
「一日のうちの、ちょっとの時間だけなんだから文句言わないの。あんたのおばあちゃんでしょうが」
「そっちだって義理の母ちゃんだろうが」
「またそういう言い方をする。私が浪人生の立場だったら、せめてそれぐらいのことはして家族の役に立たないとって思うけどねー。大学にも行ってない、仕事もしてない、家事の手伝いもしてない、そのくせにご飯はしっかり食べるわ、おかずに文句は言うわ、どういうことよ、それ」
くそ、口では負ける。光一は小さく舌打ちした。
向かいのホームに目をやると、背中の曲がった老婆が、片方のひじを中年女性に持たれて、一緒に歩いていた。老婆は足腰が弱っているらしく、スローモーションみたいにゆっくりしか進まない。ひじをつかんでるおばさん、内心では苛々してるんじゃないか。
ばあちゃんがあんなふうになったら、散歩のつき添いだけでも大仕事だぞ。でも、だからといって運動をしないでいたら、ますます身体が弱るだろうし。
「いざとなったら、専門の施設に入ってもらうことになるんだよね」
光一が言うと、母ちゃんは顔をしかめた。
「縁起でもないこと言わないの」
「現実的な話だろ。そういうことも想定して、いろいろと準備しといた方がいいんじゃないの? 知らないよ、急にそういうことになっても」
「まだそういうことになってないうちから、おばあちゃんに出てってもらう計画なんて、立てられるわけないでしょ」
「何でだよ。そういう施設って、前もって予約しとかないと、急には入れなかったりするんじゃねえのかよ」
「そういう問題じゃないわよ」
「どういう意味だよ」
そのとき、待っていた列車が間もなく到着するというアナウンスが流れた。
母ちゃんは口にしかけた言葉をいったん止め、アナウンスが終わってから言った。
「あの家、おばあちゃんの名義なの。おばあちゃんの家ってこと」
「うそ」
「よそには言わないでよね。ご近所からは、お父さんの家だと思われてるんだから」
まーじかー。
母ちゃんの本音がこれで判った。
今さら、年老いた義母との同居なんてまっぴらだけど、機嫌を損ねるのはまずい。余命を元気で健康に暮らしてもらうことが第一。遺産を相続したければ。
何か、どろどろしてるー。
再びアナウンスがあり、間もなく列車が入ってくることを知らせた。光一はベンチから立ち上がって、前に出て列車がやって来る方向を眺めた。
カーブしている線路の先に、特急列車が見えてきた。
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