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 事前に母ちゃんが聞いていた車両の停止位置で待っていたが、降りて来た乗客の中に、ばあちゃんの姿はなかった。何か手違いでもあったのかと思ったが、ばあちゃんが一つ後方の車両から降りたことに気づいた。そちらから降りる方が、座席から近かったのだろう。

「まあ、あんな格好で」と母ちゃんが小声で言った。

 ばあちゃんは、紺のもんぺみたいなパンツの上に、最初は白かったのだろうが長年使い込まれて、言葉では表現しにくい微妙な色合いの、割烹着だか、それっぽいエプロンだかを身につけていた。頭には白い手ぬぐい。確か、姉さんかぶりとか言われる、着物の女性が家事などをするときのかぶり方だ。

 そうそう、ばあちゃんはいつもこういう格好をしていたのだと思い出した。

先日会ったときは喪服姿だったので忘れていたが、これがばあちゃんの普段着なのだ。

しかしこの格好で特急列車は目立っただろう。しかもその前には新幹線にも乗っている。

 しかし、そのことよりも気になったのが、ばあちゃんの背中が少し曲がっていることだった。もともと小柄なのが、さらに小さく見える。

 葬儀のときはもっと背中がしゃんとしていたと思ったのに。母ちゃんもそのことに気づいたのか、「あら、お義母さん、急に老け込んだみたいに見えるわね」と言った。

 栄一郎さんが亡くなって、がっくりきた。その上に引っ越しが重なったら……ぼけるかも。まずいぞ、それは。

 ばあちゃんは少しきょろきょろしてから光一たちに気づき、にこにこ顔になって片手を振った。なぜか荷物を持っていない。と思ったら、後ろで見知らぬ青年が転がしていた黒いキャリートランクを受け取り、二、三度頭を下げて礼を言ったようだった。青年は笑って片手を振り、再び列車に乗り込んだ。

 近づいて、母ちゃんが「お義母さん、今の方は、お知り合いですか」と聞いた。

「ああ、奈津美さん、わざわざありがとね。光一さんも」ばあちゃんは笑顔でおじぎをしてから、「列車に乗るときに荷物を運ぶのを手伝ってくれた人でね、降りるときにも気を遣ってくれて。ホテルで料理人をやってて、もうすぐ結婚するんだって。

でも実家がみかん農家で、お父さんの身体が弱ってきてるから、料理人を辞めて農家を継ぐか、それともホテルで料理人を続けるか、はたまた農家をやりながら地元で料理人の仕事を探すか、悩んでるんだって。お母さんは何年か前に亡くなったそうで」

「お義母さん」と母ちゃんが遮るように言った。「無事に到着されて何よりです。本当は私たちの方からお迎えに上がるところだったのに、すみません」

「いやいや、そんなこと、いいのよ。年寄りったって、電車ぐらい一人で乗れるんだから。周りには親切にしてくれる人もいるし」

 動き出した特急の、さきほどの乗降口の窓から、青年が手を振り、ばあちゃんが振り返した。列車が遠ざかってゆくと、ばあちゃんは急に背筋を伸ばして上半身をひねる動作を始めた。

「あれ、ばあちゃん、さっきは腰が曲がってるみたいに見えたけど」

 光一がそう言うと、ばあちゃんはそれまでの笑顔とはやや異なった、にたっとする表情になった。

「荷物を運ぶとき、辛そうにしてると、親切な人が助けてくれるから」

 年寄りが生きてゆく上での知恵? まあ、親切にした側も気分がいいし、誰も損はしないわけだけど。

 母ちゃんは、ちょっと困惑した表情だった。

 

 トランクは光一が運び、ばあちゃんは手すりにつかまることもなく、すたすたと階段を下りた。しかも忍者みたいに足音がしない。足もとを見ると、紺の足袋に、昔の草鞋を模したような色合いの草履をはいている。

 何だか、アヒルみたいだな。階段を下りるばあちゃんの後ろ姿を見て、光一は思った。

なぜか尻と脚が太くて、ぱんぱんに張っているように見える。もんぺみたいなパンツのせいでそう見えるのではない。肉がしっかりついているのが判る。贅肉だったら、もっとたるんだ感じになるし、ウエストがもっと太くなるだろう。でもばあちゃんのウエストは太くない。尻とももだけが太い。もともとそういう体形なのかもしれないが、家庭菜園などをやっていたというから、しゃがんだり立ったりを繰り返しているうちに鍛えられたのかもしれない。

 だとしたら、やっぱり健康には問題ないってことだな。

 でも、身体は健康でも、ぼけることってあるからなー。健康なのにぼけたりすると、近所を徘徊して家族の悪口を言って回ったり、他人ともめたりすることがあるっていうから、余計にたちが悪い。

 駄目駄目。そういうことを考えると、本当にそうなるかもしれない。

 改札を抜けたところで「このトランク、ばあちゃんの?」と聞いてみると、ばあちゃんは「栄一郎さんが使ってたんだよ」と言った。

 駅のコインパーキングに停めてあるフィットに乗った。ハンドルを握るのは母ちゃんで、光一とばあちゃんは並んで後部席に座った。

 少し進んで信号待ちになったところで、ばあちゃんが「光一さん、学校はいいの?」

と言った。

「俺、大学落ちたんで、今は浪人中の身なんだ。言わなかったっけ」

「ああ、そうだったかね。光来さんは今、中学で勉強中なのね」

「はい」

「荷物は届いてたかしら」

「昨日、届きましたよ」と母ちゃんが答えた。「お義母さんがおっしゃったので、荷物は開けないでそのままにしてますけど、よかったでしょうか」

「はいはい、ありがとうね」

 車が動き出すと、ばあちゃんは窓の外を右左と眺めて、「思ったほど変わってないわねえ」と言った。

「でも家の周辺は、農地が減って、建て売り住宅やアパートが増えましたよ」

と母ちゃんが応じる。「あと、近くの国道沿いも、ホームセンターとか、ファミリーレストランとか、ドラッグストアなんかが、ずらっと並んでます」

「どこの地方も、そんな感じみたいよね。カタカナの、舌を?みそうな名前の施設ばっかり増えて、この年になるとなかなか覚えられなくて」

「でもお元気そうじゃありませんか。お義母さん、書道は今もやってらっしゃるんですか」

「もう長いこと、人には教えてないけど、一人で練習することならね。披露宴の案内状送るときの宛名書きを頼まれることがたまにあるから」

「ああ、なるほど。ああいうのは毛筆できれいに書かないといけませんからね。特殊技能を持ってらっしゃるのって、うらやましいです」

「奈津美さん、書道に興味がおありなら、言ってくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 うそをつけ。ばあちゃんからそんなもん習う気なんて、ハナからないくせに。

 車は十五分ほどで自宅に到着した。ばあちゃんは玄関の前に立って、かつて住んでいた家を懐かしそうに見回してから、「じゃあ、上がらせていただきますね」と誰に対しての言葉か判らない感じでつぶやいた。トランクケースは光一が抱えている。

 家は、あちこち改装したものの、半分ぐらいは日本家屋の風情を残しており、最近の建て売り住宅とは外観も間取りも違っている。さすがに土間はないが、小さな庭に面して縁側があり、敷地の周囲は目の高さまでの生け垣になっているため、小学校のときにはクラスメイトから「サザエさんちみたい」と言われた。築何年なのか知らないが、今のところ、傾いたり雨漏りがしたりといったこともなく、ちゃんと住むことはできている。

「お義母さんには、縁側がある方の和室を使っていただこうと思いまして、空けておきましたけど、よろしいでしょうか」

 母ちゃんはそう言って玄関ドアを開けた。中に上がり、ばあちゃんの先に立って進んで、和室のふすまを開ける。最近まで父ちゃんの机や本棚、母ちゃんの衣装ケースなどが置かれていた物置代わりの場所だったが、今は片づけられて、四畳半敷きの畳の中央に、小さい座卓と、リクライニング式の座椅子が用意されてある。座卓の上には小型の薄型テレビ。テレビと座椅子は数日前に母ちゃんが家電量販店やホームセンターに注文して配送させたものだ。その他、ばあちゃんが向こうから送ってきた、年季が入った和箪笥が右側の壁際に置いてある。ばあちゃんの持ち物で大きなものはこの和箪笥と座卓ぐらいで、それ以外の荷物は数個のボール箱に収まって、押し入れの近くに積んである。

「あららら、テレビや座椅子まであるけど、使っていいのかしら」とばあちゃんが言った。

「はい、もちろん。他にも必要なものがあったら、おっしゃってくださいね」

 母ちゃんの声は普段よりも少し高い。いわゆる、よそ行きの声だ。

 正面に大きなアルミサッシ戸があり、カーテンを開けてあるので室内は明るい。窓の向こうは、洗濯物を干している狭い庭。

 この部屋の隣にはもう一つ、六畳の和室があって、そこが両親の寝室になっている。

母ちゃんは、衣装ケースなどをそちらに移したせいで狭くなったと、ぶつぶつ文句を言っていたが、もちろん今は、そんなことをおくびにも出しはしない。

「昔はガラス障子と木の板の雨戸だったのよね、ここ」とばあちゃんはアルミサッシ戸を指さして、後ろにいる光一を振り返った。

「へえ。時代劇みたいだね」

 ばあちゃんは、サッシ戸に歩み寄ってクレセント錠を回し、戸を開けて外の空気を入れた。

 

「ひかりの魔女」は全4回で連日公開予定