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「砂利を敷いてあるのね。昔は土のまんまで、庭の隅には柿の木があってね、栄一郎さんも要次郎さんも、その木に登って柿を取ったものよ」

 要次郎は父ちゃんの名前である。

「砂利にしておいた方が、不審者が入って来たときに足音がしていいんですよ」と母ちゃんが言った。「ところでお義母さん、とりあえず、お茶でもいかがですか。

それとも、おなかが減ってるなら、何か取りますけど。もし、疲れてらっしゃるのなら、お布団を──」

「いえいえ、構わなくていいのよ」ばあちゃんはにこにこ顔のまま、片手を振った。

「奈津美さん、またお仕事に戻らなきゃいけないんでしょ。自分のことは自分でするから、大丈夫よ。台所、勝手に使わせてもらってもいい?」

「ええ、それはもちろん遠慮なくお使いになってください」母ちゃんは作り笑いで応じてから、腕時計を見た。「それじゃ、申し訳ないんですけど、いったん仕事に戻らせていただきますね。何か困ったことがあったら光一に言ってくださいな」

「はいはい」

「じゃあ、すみません、ほんとに。仕事、今日は休みたかったんですけど」

「いいのよ」

 母ちゃんは「光一、頼むわね」と言い残して、光一の返事を聞かないで、そそくさといなくなった。外から、母ちゃんが自転車に乗って出て行く物音が聞こえる。

総菜店の大吉は、二キロほど北東の市営団地の近くにある。

「ばあちゃん、荷物開ける?」

 光一が尋ねると、ばあちゃんはにこにこしながら頭を振った。

「自分のことは自分でやるから、気にしなくていいのよ。光一さんは勉強しなきゃいけないんでしょ」

「まあ、それはそうなんだけど」

「力仕事が必要なときはお願いするから。普段は家の中にいるの?」

「うん。勉強は基本的に、二階の部屋でやってるから」

「じゃあ、力を貸して欲しいときには声かけるわね」

「ばあちゃん、うちの階段、手すりがないからさ、一人で上り下りしない方がいいよ」

「そう? はい、判りました。じゃあ、階段の下から、大きめの声で呼べばいい?」

「そうだね。あんまり大きい声でなくても大丈夫だから」

「じゃあ、もう気を遣わなくていいから、勉強に取りかかっていいわよ」

「うん……」光一は、階段の方に向かいかけてから足を止めた。「あ、ばあちゃん。外出するときは俺が一緒に行くようにするから、そのときも声かけてね」

「あら、どうして?」

 ばあちゃんは少し戸惑った表情になった。

「外は交通ルールを守らない車や自転車が多いし、転んだりしたら危ないから。それに、最近は物騒だし。お年寄りを狙ったひったくりもときどきあるし、ヤクザが抗争で発砲したりもしてるし」

「発砲。街の中で鉄砲を撃つ人がいるの?」

 余計なことを言ってしまったか。光一は軽く後悔したが、隠したって仕方がないと思い直した。ばあちゃんが勝手に外出しないようにするには、むしろこういうことは言っておいた方がいいのだ。

「地元の暴力団が二派に分裂して、ときどきドンパチやってるんだ。先週はサウナ店の駐車場でどっちかの関係者が撃たれて死んでるし、その前なんか病院の中で発砲してるし。そのときは弾が当たらなかったらしいけど。だから小学校とかは集団で登下校してるし、ヤクザの事務所とか家とか、防弾チョッキとか強化プラスチックの盾で武装したお巡りさんが警戒してるしね」

「そう。他人様に迷惑かけるのはよくないわね」

「だから、ばあちゃん、一人で外出はしないでよ。俺、母ちゃんからもきつく言われてるんだから、ばあちゃんが外に出るときは必ず一緒に行けって。そうじゃないと、小遣いとかもらえなくなるから」

「おやおや、そんなことまで」

「俺も、家ん中で勉強ばっかりしてるよりは、ときどき外の空気を吸いたいから、ちょうどいいんだ。だから約束してよ」

「はいはい、じゃあ、約束ね」ばあちゃんはにこにこしながらうなずいた。「外出するときには、光一さんについてもらいます。はい、げんまん」

 ばあちゃんが小指を突き出してきた。幼稚園児じゃねえっての。光一は仕方なく指切りに応じた。ばあちゃんの指は少しかさついていた。

 

 二階の部屋で問題集を開いたものの、なかなかエンジンがかからず、スマホで無料マンガを読んでいると、下から「光一さん、光一さん」と声がかかった。机の上にある小さな時計を見ると四時前。一時間ちょっとが経っていた。

 階段を下りようとすると、ばあちゃんが顔を出して「お茶淹れたんだけど、飲む?」

と聞いた。

 いちいちそんなこと、しなくていいのに。

「うん、もらうよ」

「下で飲む? それとも上に持って行く?」

「そうだね……下で飲むよ」

「じゃあ、テーブルに置いとくから」

「うん、ありがと」

 マンガを中断して、階段を下りた。お茶は、リビングダイニングのテーブルに置いてあったが、ばあちゃんは部屋に戻ったようだった。

 一口すすって、「おっ」とつい声が出た。

 置いてある急須のふたを取る。中にあるのは煎茶のようだったが、妙に旨い。苦味と甘味のバランスがいい感じで、口の中がさっぱりする。

 お茶がなくなるのを見計らったかのように、ばあちゃんがやって来て、「私が片づけるからいいわよ」と笑顔で言った。

 ばあちゃんも、やることがあった方がぼけにくいだろうと思い、光一は「そう? ありがとう。高級なお茶だったみたいだね」と応じた。

「お茶っ葉は、台所にあったやつよ。ほら、黒い缶に入ってる」

「レンジの横の、棚の上にあったやつ?」

「そうそう」

「ほんとに? いつも飲んでるのに較べると、かなり美味しかったよ」

「あら、そう?」

「もしかして、淹れ方が違うのかな」

「普通に淹れましたよ。沸騰したのを少し冷ましたお湯で」

「それがお茶を淹れる温度なの?」

「煎茶の場合はね。沸いたお湯を一度、湯飲みに入れてから急須に入れると、ちょうどいい温度になるのよ」

 母ちゃんは普段、煮えたぎっている湯をいきなり急須に注いでいる。

 ばあちゃんもそのことを察したのか、「別にこうじゃなきゃいけないってものでもないのよ。人それぞれのやり方があるだろうし」と言った。

「荷物とか大丈夫? 何か手伝うこととか、ない?」

「だいたい片づいたし、特には……」ばあちゃんはそう言ってから、笑ってそっと、両手を叩いた。「空になったダンボールは、どうしたらいいかしらね」

「ああ、ダンボールね。判った。資源ゴミに出すから、俺に任せて」

 そう言って、ばあちゃんの部屋に取りに行くと、ダンボールは既にきれいに折りたたまれて、まとめてあった。押し入れから出したらしい布団が、和箪笥の近くにたたんで置いてある。

 何だ、これじゃ出番ねえじゃんかよ。光一は、苦笑して、重ねられたダンボールを抱え上げた。室内を見渡すと、布団が出されたことと、壁に風景画のカレンダーがかかっていることと、ダンボール箱がなくなった以外に変化はないように見えた。衣類や道具などはすべて和箪笥の中や押し入れにしまわれたらしい。それにしても、小一時間のうちに、大きなダンボール箱五つぐらいの荷物をすべて出して、収納してしまうとは。少なくとも身体はよく動く、ということか。

 ダンボールの束をカーポートの隅に置いて家の中に戻ると、急須や湯飲みを洗い終えたらしいばあちゃんが、部屋に入るところだった。

「ばあちゃん、長旅で疲れたろ。座椅子、斜めに倒せるようになってるけど、やり方とか判る?」

「ああ、あれはいい座椅子ね。さっき触って、動かし方は覚えたわ。お言葉に甘えて、しばらくの間、倒して休憩させてもらうわね」

 ばあちゃんは、座椅子を三十度ぐらいに設定して座り、「これぐらいが気持ちよく休めそうね」と光一に笑いかけてから、一息ついて目を閉じた。光一は「ごゆっくり」と声をかけてから、静かにふすまを閉じた。

 二階の自室に戻ってようやく問題集に取りかかったが、ばあちゃんの部屋のサッシ戸が開いたままではないかということが気になってきた。今日は割と暖かいが、あの格好で寝入ってしまって、外から入る風に当たっていると、年寄りにはよくないんじゃないか。サッシ戸を閉めるか、開いている部分を狭くするかした方がいいかもしれない。

 光一は階段を下りて、ばあちゃんの部屋のふすまをそっと引いた。声をかけると、眠っているところを邪魔してしまうかもしれないと思ったからだ。

 何、ばあちゃん、何やってんの。

 そう口にしようとしたのだが、あまりに予想外で奇異なことをしているばあちゃんの後ろ姿を見てしまったため、言葉になって出なかった。

 ばあちゃんは立っていた。普通に立っていたのではない。両足を肩幅ぐらいに開いて、内股気味で、股関節とひざを曲げて、中腰姿勢になっている。よく見ると、かかとが微妙に浮いているようだった。

 そして両腕は、前へ倣え、をしているように前方に出ているが、まっすぐに伸びているのではなく、大きな球体を抱いているように、腕が曲がって、両手のひらは、下がり気味に開いていた。

 ばあちゃんは、エプロンを脱いでいて、上下ともに紺色の、柔道着みたいな服だった。下に着ていたのがこれらしい。名称は忘れたが、修行をしているお坊さんとか、居酒屋の店員とかがよく身につけているやつだ。

 ばあちゃんは、奇妙な姿勢のまま、じっとしていた。でもよく見ると、肩や腕が、微妙にぷるぷると震えているようだった。

 光一は、困惑と不安が入り交じった気分を処理しきれないまま、そっとふすまを閉じた。そして、足音を殺して階段を上った。

 

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