プロローグ
髪を振り乱して部屋に飛び込んでくる人影が、目に映った。
銀色の刃が、シーリングライトの光を反射して鈍く光る。
震える切っ先が、その憎悪の対象へと向く。
「もう、こうするしか!」
荒い息遣いの合間に、絶望に満ちた叫び声がほとばしった。
「……殺してやる!」
身体と身体とが激しくぶつかりあう。生々しい相手の体温が、刹那、肌を通じて入り込んでくる。
長い時が経ったような気がしたけれど、実際はほんの一瞬だったのだろう。
すでに地獄に取り込まれたような、死のオーラを放つ顔が見えた。
ぬめりとした、生温かい感触が伝わってきた。視線を下へと向ける。腹部にずっぽりと刺さった包丁──。
半開きになった彼女の赤い唇が、網膜に焼きついた。
視界が真っ白になり、直後、暗転した。
ここが運命の分かれ道だ、と人に言えば、大げさだと笑われるのかもしれない。
クラスメートの氏名を出席番号順に次々と読み上げ、細長い紙の切れ端を投げやりな手つきで差し出している担任教師を眺めながら、僕はそれでも祈らずにはいられなかった。お願いだから、順位が下がりませんように。多くを望むつもりはない。現状維持。現状維持でいいのだ。
頭の中には、答案を提出した直後に計算ミスに気づいた数学の最後の設問や、助動詞の意味を取り違えて文意をつかみきれなかった古文の読解問題が、際限なく渦巻いている。
担任の指先が慣れた様子で紙切れをめくり、自分の順番が近づくにつれ、僕の身体はいっそうこわばっていった。
「清水。鈴木。ああ──染野」
低いトーンの声で名前を呼ばれた瞬間に、この先の運命を悟った。肩の力が抜けると同時に、失望が胸に広がる。
ゆっくりと腰を上げ、通路に飛び出している通学鞄にぶつからないよう気をつけつつ、教室の前方へと向かった。心の声がそのまま顔に出がちな中年の担任教師は、僕の苗字を口にする直前から、残念至極、とでも言うように唇をへの字に曲げていた。
「次は、頑張ろうな」
これから不本意な結果を目にすることになる僕の落胆を和らげ、ついでに発破をかけるため、わざわざ声をかけてくれたのだろうけれど、かえって死刑宣告を受けたような心地になる。僕はぎこちない愛想笑いを浮かべながら、細長く裁断された白い用紙を受け取った。
横にずらりと並んだ科目ごとの順位や偏差値はいったん無視し、表の右下に印字された学年順位を確認する。
途端にため息が漏れた。
仕方ない、と自分に言い聞かせる。最初から分かっていたことじゃないか。あの熾烈な中学受験を勝ち抜いてきた猛者たちが生徒の八割を占めるこの学校で、不人気の高校編入枠でたまたま引っかかった僕なんかが、そう易々と好成績を取らせてもらえるわけがない。勉強量で差を埋めようとしたところで、やっぱり天性の才能を持つ彼らには遠く及ばないのだ。いい結果を期待するほうが、間違い。
でも──親に、何と言われるか。
担任はまだ次の生徒の名前を呼ばない。中間テストの個人結果表を手に立ち尽くす僕を、同情するような目で見ている。
自分が流れを止めていることに気づき、慌てて回れ右をした。担任と僕との一対一の世界が不意に終わり、濃紺のブレザーを着たクラスメートたちの視線が、濁流のように襲いかかってくる。
──ダメだったのか、あいつ。かわいそうに。
──いつも机にかじりついてるくせに、その程度?
──染野の頭じゃ無理だよ、無理。
その勢いに、息が止まった。
急激に膨らんだ不安と恐怖で全身がはち切れそうになり、脈拍数が瞬く間に階段を駆け上っていく。
自意識過剰だということは分かっていた。ただの錯覚だ。僕が担任の前で立ち止まっていたのはせいぜい二、三秒程度のことで、クラスメートたちの視線が僕のいる教室の前方に集まっているのは、それぞれ自分自身の個人順位が気になっているからに他ならない。それが証拠に、窓側の席に座る出席番号の早い生徒たちはこちらに見向きもせず、すでに配布された結果表をせっせと読み込んでいるではないか。
それなのに、激しい動悸も首筋の冷や汗も、僕の理性とは無関係に、一向に収まる気配がなかった。
まずい、と胸元を押さえた。普段から、大勢の視線にさらされる場所では頑なに下を向いてやり過ごすことにしていたのに。学年順位に気を取られていたせいで、自己防衛の心がけをすっかり忘れていた。
足がもつれてよろけそうになるのをこらえ、自席に戻った。受け取ったばかりの細長い用紙を通学鞄のポケットにねじ込み、机に両肘をついて顔を覆う。
いつもの症状だ。息苦しい。水槽の中に閉じ込められているようだ。このままだと倒れてしまう。自分を保っていられなくなってしまう。
まぶたに当たる中指が、小刻みに震えていた。それがどうにも気になって、拳を強く握り込む。
「津川。戸田。内藤──おいおい、お前は相変わらずだなぁ」
隣の列の生徒たちが、一人ずつ立ち上がって往復する足音がした。そばを通過する彼らの気配を感じていると、至近距離でけたたましい笑い声が弾け、じゃれるように肩を小突かれた。
「何だよ染野、頭抱えちゃってさ。さすがに落ち込みすぎだろ! 推薦狙いでもないんだし、学校の定期テストくらいで一喜一憂すんなって。勝負はだ・い・が・く・じゅ・け・ん、今はまだ六月! そんな順位無視して、気楽にいこうぜぇ」
内藤龍也だった。このクラスで僕に気軽に話しかけてくる唯一の生徒だ。といっても親友や同じグループの仲間といった関係ではなく、彼が誰にでも分け隔てなく接する人気者というだけのこと。三年J組の顔ともいうべき彼は、中高一貫クラスであるA組からH組にも仲のいい友人がたくさんいて、文化祭や体育祭などのイベントが開催されるたび、学年内のマイノリティである高校編入組──I組とJ組計八十名の代表として、両者の橋渡し役を担っていた。
そんな内藤に声をかけられたときや、担任をはじめとした教師陣に授業の内容について質問するときくらいしか、僕は普段、学校で他人と会話をしない。こちらから交流を拒否しているわけではないのだけれど、入学以来誰にも積極的に話しかけずにいたら、自然と今の立ち位置に収まった。おそらく周りからは一人を好む人間だと思われていて、それはあながち間違いでもなかった。
「こら内藤、染野を唆すな」
「あ、先生、聞こえちゃいました?」
「お前ら一般受験組が、学校の成績を軽視する気持ちも分かるよ。でもこっちだって、この時期のテストは、大学受験に役立つように一生懸命考えながら作ってるんだ。これまでの卒業生を見る限り、東大に合格するような奴は、定期テストの順位も必ずといっていいほど一桁台を取り続けてたね。必ずだよ」
担任が誇らしげに胸を張って言うと、「じゃあ三百九十五位の俺って……」と内藤が神妙な顔で絶句し、周辺から笑いが起こる。そのやりとりは決して不快なものではなかったけれど、僕にしてみればそれどころではなかった。
身体中から発せられる悲鳴が、ピークに達している。呼吸や脈拍があまりに速く、気を抜いたら椅子から崩れ落ちてしまいそうだ。
長引きそうな朝のホームルームを乗り切るのを諦め、僕は身を縮めて立ち上がった。
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