第一章
1
つまるところ、ぼくはずっと愛を求めていたのだと思う。
だからこそ、この拳銃を手に入れたのだ。
これまでも、けっして愛がなかったわけではない。それはそこにずっとあったが、ぼくには見えていなかった。求め方もわからなかった。すでに手に入れているものは求めようがない。失ってはじめて求められるようになる。
ぼくは中流の家庭で幸せに育った。そのころは、自分が〝幸せ〟だとは気づいていなかった。大人になり、世界を知れば知るほど、自分がいかに恵まれていたのかがわかるようになった。いつだってそうだ。大切なことに気づくのには時間がかかる。
今度だけは失いたくなかった。
ぼくとエノモトは夕日に染まる荒川沿いの土手を歩いていた。
「ほんとうに大丈夫なのか?」エノモトに尋ねた。
「大丈夫だって、任せとけって」
エノモトは、ポケットに手を突っこみ、痩せぎすの身体で肩を揺すりながら歩いていた。シルバーのスタジアムジャンパーが夕日を受けて、赤く染まっている。
ぼくと同じ、二十八歳。似合わない不揃いの短い髭を生やしている。ぼくとは幼馴染で小学校と中学校が同じだった。
とくに仲がよかったわけではない。定職に就かず、小さな悪事を繰り返している男だ。子供のころ、家に遊びに来ていたエノモトは、ぼくの部屋にあった、「USA」と書かれた小さなバッジを盗んだことがあった。とくに大事にしているものではなかったし、それを手に入れた経緯も覚えていなかったが、エノモトは信用できない、と子供心に思ったものだった。
そんなエノモトだったが、ぼくが自衛隊に入ることが決まったときには、まるで自分のことのように喜んで、餞別をくれたりする妙な男でもあった。
エノモトがこちらに向かって、ニヤリと笑い、まるでダンスのステップでも踏むように身体をターンして小石を蹴とばした。小石は土手を転がり、叢に飛びこんで見えなくなった。
荒川の川面に滲んだ太陽が、ぼくたちについて移動していた。暖かくも悲しげなその太陽が、どこまでも追いかけてくる。
橋まで百メートル手前でエノモトが方向を変えた。ぼくもエノモトについていく。
目的地には、それから二十分ほどで着いた。
寂れた商店街の外れにある、古びた時計屋だった。シャッターの閉じられた店の連なりのなかでも、ひと際古そうなこの店は、この街ができる遥か昔から存在しているように見えた。
まるで商売気がなさそうな外観だが、窓にコピー用紙が貼られ、そこには手書きで「最新スマートフォンの修理をします」とある。とてもスマートフォンを修理する技術がこの店にあるとは思えなかったが、何かしら手段があるのかもしれない。意志あるところに道は通ず。道はわからなかったが、少なくとも意志は見えた。
時計屋の主人は、八十代くらいの男だった。カウンターケースのうしろに座ってこちらを眺めていた。恰幅がよく、薄くなった白髪をうしろに流している。度のきつそうな眼鏡を掛け、柔道着のような厚い生地の灰色の和服を羽織っていた。
老人は、眼鏡を鼻の前にずらすと、上目づかいでぼくと一緒に来ていたエノモトを見た。
「なんだ、お前か」
「お久しぶりです」エノモトは、ペコリと頭をさげた。
ここは紹介でないと拳銃を売ってくれない。それでエノモトに連れてきてもらったのだった。エノモトには仲介料を払うことになっている。
「おじさん、こいつはいい奴なんで」エノモトは、時計屋の主人にぼくを紹介した。
それからぼくを見て、
「錠二、俺は用があるから」とさっさと店を出ていった。勝手なところは子供のころからまったく変わっていない。
時計屋の主人とふたりきりになり、気づまりな時間が流れた。
ここで拳銃を買えると聞いていたが、段取りはまったくわかっていなかった。
カウンターのケースに、古そうな——価値があるのかもわからない——時計が置かれていた。壁にはこれまた古そうな掛け時計が、配置に何か意味があるのか、並んで掛けてある。古い順なのかもしれない。あるいは値段順か。いずれにせよ、それらは整然と並んでいた。
時計屋の主人は、藪睨みでぼくの顔をじっと見つめた。まるで、ぼくの顔に書かれた極小の文字を読んでいるような目つきだった。
年老いた主人がのっそりと立ちあがった。意外に背が低い男だった。あちこち油で汚れた紺色の前掛けをつけている。彼は何もいわずに奥に歩いていった。
うしろにドアがあり、彼が拳銃をとってくるのかと思ったが、ドアの前で立ち止まると、「こっちに来い」とぼくを呼んだ。
カウンターのケースをまわりこんで、老人が入っていったドアに向かった。
ドアの向こうには時計が山積みになっているのかと思ったが、そこはまるで子供部屋のような空間だった。それも金持ちの子供の部屋だ。その印象を強めているのは、部屋の真ん中にある大きな鉄道模型だった。十畳ほどの部屋の半分はその模型の台が占めている。
壁にはずらりと列車の模型の箱が積まれていた。こういうものが好きな人には垂涎の光景なのかもしれなかったが、あいにく、ぼくはまったく興味がなかった。自分の理解できない趣向の物体に囲まれて、ただ圧迫感を感じるだけだった。
部屋の出入口付近に、ひとり掛けの古い緑色のソファーが向かい合わせに置いてある。生地のあちこちが綻んでいた。ソファーとソファーのあいだには木製の正方形の小さなテーブル。あちこちに煙草の焦げ跡があった。灰皿はない。
「まあ、そこにお座りなさい」
老人はドアに近いほうのソファーを手で示した。
座ると、すっかり反発のなくなったクッションが盛大に軋んだ。どこまでも沈みこんでしまいそうなほどのソファーだった。やがて軋みが治まるとぼくの臀部も所定の位置に収まっていた。
老人がぼくの前に腰をおろした。ほとんど軋む音は聞こえなかった。ぼくほどは沈みこまず、ぼくをじっと見つめる。目の高さはぼくよりも幾分低い。
「君は並行世界を知っているかね」老人はいった。
「え、何ですか?」てっきり銃の種類のことを聞かれるのか、あるいは、どうして必要なのかを聞かれると思っていたので、すぐには意味がわからなかった。
「ヘイコウセカイだよ」老人は、もう一度、今度はゆっくりと発音した。
「……いえ、知りません。それは何ですか?」
「この世界から分岐し、並行して存在する別の世界のことだ。観測はできないがね」
「へえ」
そういうしかなかった。ぼくは銃を買いに来たのだ。無駄話をしに来たんじゃない。
老人はじっとこちらを見つめていた。
また気づまりな時間が流れる。
——いったい、何の話なんだ?
こんな話はしたくなかったが、老人に話を合わせようと思った。そうすれば、この妙な科学談義を早く済ませてくれるかもしれない。遠まわりしたほうが結果として早いこともある。
「まあ、そうですね。そういうものがあるのだとしたら、じつに興味深いですね。でも観測できないんじゃ、意味はないように思いますけど」
老人は深い息をついた。眼鏡を外して布でレンズを擦る。
「観測できるかどうかは問題じゃないさ。あるかどうかが問題なんだ。たとえば、暗闇のなかで川に小舟が浮かんでいるとする。ある場所に差しかかったとき、川が分かれていても、その流れに乗って進んでいれば、分岐には気づかない」
「まあ、そうですね」
この老人は、ある、と思いたいのだ。だったら、ある、と思わせておけばいい。人は誰しも自分の信じたいものを信じる。それが事実かどうかは別として。
老人は続けた。
「人生ってやつは残酷でね。普通は一度きりだ。繰り返すことはできない。だが稀に、人生の途中から、ふたつの世界を生きなければならない奴がいる。どちらも自分の人生だ。どちらかを選ぶことはできず、どちらも生きなければならない。そういう奴を幸運に思うかね?」
「まあ、二回、人生を送れるようなものですから、幸せといっていいんじゃないですか?」
老人はゆっくりと首を振った。
「その本人は自分が二回人生を送っているとは思っていない」
「でも、意識はどちらにあるんですか? それがあるほうが自分の世界でしょう」
「『我思う、ゆえに我あり』か。デカルトだな。残念ながら、それはあてはまらない。ふたつの世界のどちらでも、『我』は『思う』。だから、どちらにも『我』は『ある』んだ。そのふたつの世界は、同じものではない。その人にとって、大切なものが存在する世界と存在しない世界だ」
「大切なものって何ですか?」
「誰だって、それがなければ世界がまったく変わってしまうようなものがあるだろう。そういうものだ」
「だったら、大切なものがある世界のほうの自分は幸せで、大切なものがない世界で生きる自分は不幸せってことになるから、二回人生を送っても幸せ度合いは同じじゃないですか」
「そんなに簡単なものじゃないさ。大切なものってのは絶対的な存在ではない。大切なものがある世界に生きていても、それが失われることもあるし、大切なものがない世界に生きていても、あとから大切なものが見つかるかもしれない」
「……だとしたら、幸せかどうかは、その人次第ということになりますね。それぞれの世界で、どう生きるかの問題ですから」
老人は考え深そうに、二、三度頷いた。そして、ぼくを見る。
「君だったら、どうする?」
「え、ぼくが、何ですか?」
「そういう並行世界を生きる人間だったら、という意味だ」
ぼくは考えるふりをした。だが、実際には何も考えていなかった。早くこの妙な話から逃れたかっただけだ。それでも話を合わせるしかなかった。まだ拳銃を手にしていない。
「その人間は、自分が並行世界にいるとは気づいていないんですよね。だとしたら、気にしようがないですよね」
老人が、また深く頷く。
「確かにそうだな。だが、気にする必要はある。そいつは並行世界を生きることになるんだからな。本人が気づこうと気づくまいと」
ぼくはじっと老人を見つめた。
矛盾している、と思った。その人間は、世界が分かれたことに気づかない。それなのに、並行世界に生きていることを気にする必要がある、という。
これは禅問答のようなものなのだろうか?
「どうやったら、自分が並行世界にいることに気づけるんですか?」
「並行した世界が、またひとつになれば気づく。どちらの記憶も残っているからな」
「もとに戻るという意味ですか?」
老人が首を振る。
「完全にもとに戻るわけではない。どちらかの世界に吸収されるんだ。いっただろう、川の流れみたいなものだと。川と同じように分岐しても、また合流すれば、世界は、またひとつの流れになる」
「そのときは、どっちの世界になるんですか?」
「流れの強いほうの世界だよ」
「へぇ」ぼくは感心したふりをして、いった。実際にはまったく感心していなかった。その〝流れ〟が、何なのか、さっぱりわからなかったからだ。
それでも疑問は浮かんだ。
「世界がひとつになるって、どういう意味ですか?」
「並行した世界は、互いに共鳴し合って、引かれ合うんだ。もともと同じ世界から分岐したものだからな。同じような環境のなかを流れる。インシデントが重なることも多い」
——インシデント?
時計屋の主人にしては妙な語彙を使う男だ。
「もしも、世界が分岐しても、どちらも同じ人間なら、同じインシデントが起こったら、同じ反応をするんじゃないですか?」
確か、インシデントは「出来事」と同じような意味だったな、と思いながら尋ねた。
「そうとはかぎらないさ。同じ人間でも状況が違うんだ。たとえば、目の前にあるポルシェを壊さなきゃならないとする。一時間でそのポルシェの代金を稼ぐ人間と十年働いてもその代金を稼ぐことができない人間が同じ反応をすると思うか?」
「どちらの場合も、壊さない、という選択をすることはあるでしょう」
「壊さなければ誰かの命を救えない、となったら?」
「それなら壊すと思います。どちらの場合でも」
「それじゃあ、それを壊さなければ命を救えないと知っているのが、君ひとりだけだったとしたら? 誰にも理解されないことだから、当然そのポルシェの代金は壊した者が支払うことになる。救われた人間も君が助けたとはわからない。君はただ責務を負うだけだ」
「……そんな状況がありますか?」
「仮定の話だよ。もしも、そんな状況なら、壊さないことを選択する者はいるだろう」
「まあ……そうかもしれませんね。だけど、ぼくは自分ひとりでも、そう信じているなら壊す、と思います」
「いうのは簡単だよ。実際にどうするかは、そのときになってみないとわからない」
老人が眼鏡の位置を直してから続ける。
「それぞれの世界でインシデントが重なったとしても、分岐した流れは普通は交わらない。それでも、〝生き方〟によっては、その共鳴が強くなり、まったく〝同じ〟になることがある。そのとき世界はひとつになる」
「はあ……」
妙な話のなかに、さらに抽象的な事柄があり、正直、何をいっているのかわからなかった。ぼくはもっと切実なことが気になっていた。
いま、自分がいるこの現実世界のことだ。
「でも、どうして、ぼくにこんな話をするんですか?」
ぼくは話を切りあげたくて、老人に尋ねた。
老人がニヤリとした。
「多くの人間は、自分の世界が分岐しても気づかないもんさ。気づかないうちに分岐した世界を平然と生きているんだよ。だけど、自分にとって何がほんとうに大切なのか知っている人間は別だ。そういう人間は並行世界に生きても、また世界をひとつにできる。君にはそういうことができるような気がしたんでね。だから、どうしても話しておきたかったんだよ」
「なるほど……」
老人が手摺りを掴み、ようやく立ちあがった。壁際を歩き、模型の箱に手を這わせながら、何かを探しはじめる。
——さっきのは、いったい、何の話だったんだ。拳銃を買うのに必要な話だったのだろうか?
「もし、人生をやり直せるなら何がしたい?」
老人がこちらを見ずに尋ねてきた。
「えっと……そうですね。パン屋ですかね」
「パン屋か」老人が振り返って意外そうな顔を向けた。
まじまじと見つめられて、戸惑った。正直そこまで本気で考えて答えたわけではなかった。パン屋に興味があったのは確かだが、正確にはぼくの夢ではなかった。それは太陽の夢だ。
太陽は、ぼくが盗みをはじめたころに知り合った男だった。彼は数年前まで実際にパン屋をしていた。だが、店を閉めざるを得なくなり、いまはぼくと一緒に行動している。
太陽がつくるパンは絶品だった。
色鮮やかなクロワッサンを家で焼いて持ってきたことがあった。生地に抹茶とラズベリーとチョコレートを練りこんだものだ。一口ごとに味が変化する。趣味の領域を遥かに超えるもので、店で売られているものでもこんなにうまいパンを食べたことはなかった。太陽は、時間が余ったからつくってみたと、こともなげに話していた。
彼のパンを食べるたびに、彼にはまだパンづくりに情熱が残っているのだなと感じる。その熱がぼくに伝わったのかもしれなかった。
それにしても、突然妙な方向から話を振ってくる老人だった。
「いい夢じゃないか。人生をやり直すなんて、大げさなものじゃなくても、いまからでも目指せるんじゃないのか」老人が話す。
「どうですかね。そんなに簡単にはいきませんよ」
どっぷり身体の半分以上浸かってしまった泥から簡単に抜けだせるとは思えなかった。望んで泥に嵌ったわけではなかったが、こうなった以上もう引き返すことはできない。
「それで、どんなのが欲しいんだ?」
ようやく銃の話だろうか? おそらくそうだろう。
「できれば、九ミリのオートマティックがいいですね」ぼくはいった。
自衛隊時代に使ったことがあるものであれば扱いやすい。
「いつまでに必要だ?」老人がこちらに背中を向けたまま尋ねる。
「すぐにでも」
危険を回避するために、どうしても今夜の仕事に必要だった。
「それなら、贅沢はいえんな」
老人は棚を探ると、何かを手に持って振り返った。拳銃だった。模型の箱に入れていたようだった。
「急ぎとなると、これしかない」
ゆっくりと戻ってくる。よっと声を出しながらソファーに座り、テーブルの上に一丁の拳銃を置いた。知っている銃——トカレフだ。
「触ってもいいですか?」
老人が頷いた。
「正規のものじゃない。コピー品だ」
手に持ってみると、手触りは本物の拳銃と変わりないように思える。
実際のトカレフに触れた経験はなかったが、自衛隊が採用している、ミネベアの九ミリ拳銃と重さも材質も似ている。ミネベアの九ミリ拳銃なら、弾が入っていないかどうかを手で持っただけでわかるほど訓練で使用していた。形が似ているから、これも使いこなせるだろう。ただ、やけに古いのが気になる。
「撃てるんですか?」
老人は何を考えているのかわからない顔でぼくを見た。
「撃てるときは撃てるし、撃てないときは撃てない」
——大丈夫なのか?
しかし、そんな銃でもないよりはましだろう。少なくとも相手を脅すことはできる。
「いくらですか?」
老人が背もたれに体重を移した。ギギッとソファーが軋んだ。
「そいつでいいなら、タダでやる」
「ほんとうに?」
エノモトに聞いたときは最低でも五十万円はかかるとのことだったから、ある程度の金を用意していた。
「ああ、構わん。どうせ処分しようと思ってたからな」
壁に向けて両手で銃を構えてみた。自衛隊時代の射撃訓練を思いだす。カートリッジを外すと、弾はすでに充填されていた。
トカレフの構造は簡単だと聞いている。コピー品ということは、構造は同じなのだろう。
「弾は、いるか?」
「これだけあれば、じゅうぶんです」
何も銃撃戦をするわけではない。できれば撃ちたくもなかった。
立ちあがって、拳銃を腰のうしろのベルトに差した。それをシャツで隠す。
「それじゃあ、助かりました」
出ていこうとしたとき、老人はいった。
「気をつけろよ。さっきもいったが、そいつは確実に撃てるかどうかはわからない。撃てるときは撃てるし、撃てないときは撃てない」
ぼくは手を挙げて応えた。
——わかってますよ。
しかし、実際には、ぼくはまったくわかっていなかった。ほんとうにその意味がわかるのは、もう少しあとのことだ。
帰り道を歩きながら、エノモトにスマートフォンで電話をかけた。あの老人を紹介してくれた礼をいうためだった。
〈ああ、あのおっさん、またあの話をしたのか〉
ぼくが並行世界の話をされたといったら、エノモトは、よく知っているといった口ぶりでいった。
〈最初の客にはいつもその話をするんだよ。世界が分岐して、どうのこうのってやつだろ〉
「そうなのか」どうやら見込みがあったのは、ぼくだけではなかったようだ。
さては、エノモトはあの話を聞くのがいやで先に帰ったな。
〈で、売ってもらったのか?〉
「ああ、古い銃をタダでくれたよ」
〈タダで? ……そいつは珍しいな。あのおっさん、普段は、がめついんだけどな。大丈夫か、その銃?〉
「まあ、見た目は普通だな」
だといいけどな、とエノモトはいった。
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