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「起きてたんだ」

「ぼくも夜勤。徹夜で待ってたんだよ」

 テレビのほうを向いていた身体をくるりと反転させ、背もたれの上で指を組んださくがあごを載せながら甘えた声で答えた。

「待ってたんじゃなくて、ドラマ見てただけでしょ」

「そうとも云うかな。でもなにをしながら待っても、それは自由だよね。要は待ってたことに変わりない、でしょ? 大切なのはそこ」

「………」

 云い返す気力もない。

「お仕事お疲れさま」

 立ちあがってテレビを消し、咲哉がふり返って訊ねた。

「朝ごはん、食べるよね。よう、どっちがいい?」

「ん……和」

 さっきまではあれほどベッドが恋しかったくせに、咲哉の言葉を聞くと突然おなかが空いてくるのだから不思議なものだ。咲哉がキッチンまで移動する。たどり着くまでに床に散らかったくつ下やクッション、雑誌、ビールの空き缶、食べかけのお菓子の袋なんかを足でよけながら進んでいく。里衣子が夜勤に出かけるまでは床はこんなに散らかってはいなかった。咲哉はだらしがない。放っておくと部屋はあっという間に荒廃していく。一緒に暮らすまではこんな人だとは思ってもいなかった。

 今は片づける気さえ起こらず、里衣子は空き缶を倒して舌打した うちする咲哉の姿をぼうっと眺める。どうしてこうなったのか、よく思いだせなかった。

「着がえてくれば?」

「ああ、うん」

 生返事で寝室に向かう里衣子の背後で、咲哉の「シーズンⅡまで一気見しちゃったから、さすがに眠いわー」という呟きが耳に入る。どうせ海外ドラマの配信を夜どおし見ていたに違いない。そのころ自分は暗い病室を小さなペンライトを頼りにひとりで見てまわったり、急変した患者の処置をする医師に怒られたりしながら忙しく立ち働いていたのだろうと想像すると、やっぱり食事なんてどうでもいいから今すぐベッドに倒れ込みたいと思うのだった。

 寝間着代わりのスウェットを着込み、洗面所にふらふらと歩く。鏡を見ると化粧はほとんど剥げかけ、鼻の頭には油が浮き、くまもひどい。コンタクトを外し、ぬるま湯で顔全体をあたためると少しはマシになったが、シャワーを浴びる気力はなかった。みそ汁と焼き魚のいいにおいが漂ってくる。眠りたい。けれどこの誘惑には勝てそうにない。朝ごはんを食べたら横になろう。もしかしたらシャワーを浴びるくらいの元気は出るかもしれないし。

 里衣子はにおいの糸に操られる人形のように、どうにか化粧水を肌に叩き込むと眼鏡をかけ、よろよろと咲哉のもとにもどっていった。

「はい、召しあがれ」

 テーブルにはサワラの西京焼きと大根のみそ汁、小松菜のおひたし、だし巻き卵、ごはんが用意してあった。夜勤明けの疲れた身体にはどれもやさしい味だ。さっきの質問に「洋」と答えても、即興でそれなりの料理が出てきたことだろう。咲哉は料理が上手い。ほんとうかどうかはわからないが、元料理人で、以前はいろいろな飲食店を転々としていたと話していた。あの日も、山の上にある展望レストランの面接を受けにいく途中だったという。ただどこもすぐに辞めてしまうらしく、プロとしての腕前がちゃんと身についているかどうかは不明だ。仕事が忙しくなかなか自炊する暇のない里衣子よりは、格段に腕が上だということだけは確かだった。

「おいしい?」

「……うん」

 食欲なんてあまりないと思っていたのに、いざ食べはじめるとはしがとまらない。咲哉はその様子をにこにこと見ている。この瞬間、しあわせだと里衣子は思う。どんなに部屋を汚されても、日がな一日だらだらテレビを見て過ごされても、料理以外の家事には一切手をつけず無視を決め込まれても。これが俗に云う「胃袋を摑まれた」状態なのかと里衣子は考える。そうかもしれない。だけどはじめはそうじゃなかった。心の底から信頼できる、自分にはもったいないくらい申し分ない人だと信じて疑わなかったのだ。

 あの日、ロープウェーが再び動きだし、乗客たちは無事山頂の駅に到着することができた。怪我をしていた里衣子はすぐさま救急車で運ばれた。助けてくれた青年とはもうそれきりだと思っていたが、念のためひと晩入院することになった里衣子のもとに翌日も青年は現れた。その青年が咲哉だった。彼の姿を病室の入り口に見つけたとき、どくんと胸が大きく跳ねあがった。おでこの傷口が脈打つ音でも不整脈でもない、これは恋だと確信した瞬間だった。

 退院してからもたびたびふたりで会うようになった。外で会う咲哉はやさしく親切で、いつもさりげなく里衣子のことを気遣ってくれた。おでこの傷がきれいに治ると自分のことのようによろこんでもくれた。自分より年下だけれど、里衣子は咲哉のことを頼りにしていた。

 里衣子の職業が看護師だと知ると、咲哉は目を見張り、ちょっとだけバツの悪そうな表情を見せた。どうしたのかと問うと、ロープウェーの事故のときに知ったかぶった発言をした自分が恥ずかしいと答えた。どのあたりが知ったかぶりだったのかと訊いたら、ほとんど全部、と云い、ちょうどドラマで非常停止したエレベーターに乗客たちが閉じ込められたシーンを見たあとだったから……と肩をすくめて茶目っ気たっぷりに笑った。そういう笑顔ははじめてだったので、里衣子は思わず吹きだしてしまった。なあんだ、そうだったの。うん、だから、ゴンドラの中で一方に集まると傾くかもって云ったのも超テキトー。

 ずいぶんくだけた口調になった咲哉はかわいかった。自分が年上だから今まで無理して合わせていたのかもしれない。ゴンドラの中で怪我したときだって、わたしが不安にならないよう平静を装った演技で接してくれていたのだと思うと逆にいとしさが増した。素直な告白を聞いたことで、里衣子は咲哉との距離がぐっと縮まったように感じた。実際、その日を境にふたりはさらに親密な関係になっていった。

 咲哉は里衣子の部屋に泊まりにくるようになり、そんな日は必ず料理の腕をふるってくれた。その味に里衣子は感動した。自炊がよいと頭ではわかっていても、不規則な勤務が続くとつい面倒になって弁当や外食に頼る日が多くなる。咲哉の丁寧な手料理は疲れた身体のすみずみにまでよくみた。食事のあとはふたりでアルコールを飲みながらドラマや映画を見た。咲哉は里衣子の部屋のテレビが大画面で迫力があると云ってうれしそうだった。リイちゃんちのテレビで見るとおもしろさが何倍も違う、と子どものように無邪気に語った。

 ほめられるのがテレビの大きさとは、と里衣子は複雑な気持ちだったが、咲哉が上機嫌なので放っておいた。するといくらでも居続ける。里衣子が朝仕事に出て、夜帰ってきてもそのままソファに座っていることもある。夜勤でもしかり。さすがに呆れてものが云えない。いや、云ったかもしれない。そんなに同じ姿勢でじっとしてたらエコノミー症候群になるわよ、だったか。われながらつまらない嫌味だと思ったが、咲哉はうわの空でそのときはゾンビ映画に釘づけだった。

 そのうちなんやかんやと理由をつけて自分のアパートに帰らなくなった。なにかおかしいんじゃないかとは思ったけれど、どこをどう指摘していいやらわからなかった。いつの間にか咲哉はアパートを解約し、里衣子のマンションに居ついてしまった。なし崩し的な同棲生活に突入したと里衣子がはっきり悟ったのは、ある日、咲哉宛ての段ボールが二個届いたからだった。これが彼の持ちもののすべてだった。それだってあまりに少なすぎてほんとうにこれで全部なのかと疑いたくなる量だった。ぼく、ミニマリストだからさ。問いただすと咲哉は平然とそう云ってのけた。

「ぼくも食べよっと」

 ごはんをよそい、咲哉が向かいの席に座る。里衣子に出したような完璧な和食御膳ではなく、自分はおかかと生卵、それにだししょう油をかけた猫マンマみたいな卵かけごはんを食べはじめた。それを見て里衣子はわずかに眉をひそめる。つくってもらっておいて云える立場ではないが、どうしてそんなものですませようとするのかととがめたい気持ちになる。噓でも自分を待ってくれていたと云うのなら、せめて同じものを食べてほしいと思うのだ。

「ちゃんと食べなよ」

「いいよ。これでじゅうぶん」

 わたしが食べさせてないみたいじゃないの。そう云いたいのをぐっとこらえる。

 咲哉は働いていない。働こうとする意思も感じられない。必然的に家賃も生活費もすべて里衣子持ちとなっているが、それについてどう考えているかわからなかった。ロープウェーの一件で展望レストランの面接を受け損ね、それが尾を引いているのだろうかとはじめは憂慮した。別に里衣子のせいではまったくないのだけれど、事故で怪我をした自分にずるずるとかかわってしまったことでタイミングを逃し、咲哉の中のやる気のようなものがしぼんでしまったのではないかなどといらぬ罪悪感にとらわれたりもした。

 だから強く云えないのだろうか。少し違う。云えないのか、云いたくないのか、里衣子は自分でもよくわからないのだ。咲哉はどんどん自堕落じ だ らくになる一方で、この生活はけっして快適とは云えない。けれども目の前のごはんはおいしくあたたかく、目の前の男を見る里衣子の眼鏡をその湯気で曇らせてしまう。

「ふたりで食べるとおいしいね」

 能天気な声が聞こえてくる。そうだね、と答える自分の声はなにかのどに詰まったみたいにくぐもって低く聞こえた。

 

「そういうの、どう云うか知ってる?」

 環がタバコの煙を吐きながら云った。

「どうって?」

「吊り橋効果。よく云うでしょ」

 ああ、と里衣子は苦笑する。

「ロープウェーが空中で突然とまって、そのうえ里衣子は怪我してってさ、むちゃくちゃ条件揃ってるじゃない。そんな状況で出会った得体の知れない男なんて信用するほうがどうかしてるわ」

「どうか……してたんだろうね」

 古いタイプの純喫茶で待ちあわせて腰を落ち着けた途端、「そろそろ連絡くるころだと思ってた」としたり顔で環に云われた。店内はうす暗く、レトロと云えば聞こえはいいが、凝った調度品のきわの部分にとりきれないほこりが溜まっていそうな、そういう雰囲気の店だった。最近のカフェはほとんど禁煙なので、喫煙者の環と会うときは店選びに苦労する。結局今回も連絡して誘ったのは里衣子のほうだが、店は環が指定した場所に決まった。たいていそうなるのだ。里衣子はミックスジュース、環はコーヒーを注文する。

「でもあのときはほんとに頼れる人だって思ったの。みんなが不安でおびえてるときに、他人に手を差し伸べられる人ってなかなかいないから。自分がそういう職業だから余計そう感じたんだよね」

「だけど実際はヒーロー気どりの目立ちたがり屋で、口から出まかせのただのドラマフリークだったってことでしょ」

「そこまでは云ってないけど」

「受け売りの知識とメッキのやさしさで女引っかけてりゃ世話ないわよ。今じゃ働きもせずにだらだらテレビ見て過ごすだけの完全ヒモ男じゃない。里衣子はね、ダメ男をひき寄せるのだけは得意なのよね」

「……そこまで云わなくても」

 あいかわらずの歯にきぬ着せない口調に、里衣子は一種の爽快感さえ覚える。昔から環はそうだった。里衣子に対して遠慮なくずばずば自分の意見を云う。そんな友人は他にはいなかった。

 

「宙ぶらりんの箱」は全4回で連日公開予定