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「やあ、いらっしゃい」

 咲哉は人好きのする笑顔で玄関に現れた。心配していた部屋着ではなく、ちゃんと着がえていたので里衣子はほっとした。環も余裕の笑顔であいさつしている。なごやかな雰囲気だ。ただ玄関でくつを脱ぎ、部屋にあがる瞬間鼻を一回ひくつかせ、怪訝け げんそうな表情を浮かべたのが少し気になりはした。

「里衣子の家、ひさしぶり」

 環が部屋を見まわし、それとなくチェックしているのがわかった。

「ぼくがいるから遠慮してたのかな? だったら悪かったですね」

「咲哉くんにも会ってみたかったのよ」

「それは光栄です」

 すぐに用意するからとリビングのソファにふたりを座らせると、咲哉はもらったシャンパンを持ってキッチンにひっ込んだ。そのうしろ姿とテーブルに並べられたカトラリー類やグラスを交互に見つつ、環が里衣子にささやいた。

「前に云ってたイマイズミくんの使いまわしって……」

「ああ、うん」

 里衣子はキッチンのほうを気にしながら小声で答えた。イマイズミくんとは咲哉とつきあう前に一緒に暮らしていた元カレだ。彼も歴代のダメ男のひとりに数えられる存在だった。慎重を通り越して神経質かつ心配性な性格で、なんでもスペアを持っていないと気がすまない男だった。トイレットペーパーやシャンプーなど日常の消耗品にはじまり、食器、本、服やくつに至るまで、同じものを最低二個は常備しておかないといけなかった。最終的には彼女もスペアがいることがばれて別れた。その情報を持ってきてくれたのも環だった。彼の行動を怪しみながらもこわくて訊きだせない里衣子に代わって、環がイマイズミくんの周辺をいろいろ調べまわってくれたおかげでその事実が発覚したのだった。ほんとうに頼りになる友人だ。

 環が訊ねたのは、咲哉の使っている食器や今着ている服がそのストックの残りかどうかという意味だった。さすがにイマイズミくんが使っていたものは彼が出ていってすぐに処分してしまったが、スペアは新品だしなんとなく捨てそびれてそのまま持っていた。環からは未練があるのだろうと呆れられ、散々捨てるよう云われたものの、里衣子はリサイクルショップに売りにいく時間がないからだとごまかした。そのうち咲哉が許可も得ず引っ越してきて慌てた。最小限の荷物で転がり込んだため、食器や寝間着など買い揃えにいく暇もない。仕方なくストックから男ものをいくつかひっぱり出し、里衣子は素直に前の彼氏のものだけど使うかどうかと訊ねた。嫌がるだろうという予想に反して咲哉はよろこんだ。あるんだったらもったいないから使おうよ、なんならラッキーというわけだ。

 里衣子の留守中、自堕落な生活を送る咲哉にだんだん慣れるにつれ、この人にはこだわりや遠慮といったものがないらしいと気づくようになった。テレビに限らず家の中のものならなんでも使い放題投げ放題、清潔不潔にも頓着とん ちゃくせず、古い歯ブラシを捨ててあたらしいのが見つからなければ里衣子のものでもかまわず使ってしまうような不衛生さだった。停止したロープウェーのゴンドラの中で手についた血を拭きとってくれたときは純粋に感動したけれど、それすらも、他人の血液に対する抵抗感が単に希薄だったからではないかと今では疑うようになっていた。

「ある意味、おおらかと云えなくもないけど」

 環は小さく首をふり、「わたしには理解不能」と呟いた。それからさらに声をひそめ、里衣子に耳打ちする。

「里衣子はさ、イマイズミくんの亡霊を飼ってるみたいな気分にならない?」

「ならないわよ。全然タイプが違うじゃない」

「でもダメ男は同じでしょ」

「まだ決めつけなくても……」

「おまたせ」

 いつの間にかソファの横に咲哉が立っていて、里衣子と環は飛びあがりそうになった。今の会話を聞かれただろうか。下ごしらえをして準備していたにしてもはやすぎる。いったいなにをつくってくれたのかとお盆を持つ咲哉を仰ぎ見ると、そこには嗅ぎ慣れたにおいの丼が三つ載っていた。

「はい、召しあがれ」

「………」

 無言のふたりの前に置かれたのは、誰がどう見てもカレーうどんだった。

 確かに夕方帰ってきたとき、カレーのにおいがうっすらと部屋に漂っていることに里衣子も気づいていた。環が嗅いだのもそれだったに違いなかった。でもそれは昨日の残りを小腹が空いた咲哉が食べたからだと思っていた。里衣子と違って、咲哉の食事時間はいつもまちまちだ。気が向いたら変な時間でもかまわず食べる。だからてっきりそうだと思っていたのだ。

「あ、そうだ。いただいたシャンパンも持ってこなくちゃだよね」

 にこにこと去っていく咲哉を横目で眺めながら、顔をひきつらせた環が丼を指さし、口をパクパクさせながら里衣子に訴えた。

(これが?)

(いや……)

 里衣子も首をかしげてジェスチャーで答える。カレーは別に咲哉の得意料理ではない。つくることはあるが、ふつうの市販のルーを使ったオーソドックスな家のカレーだった。それにこれは明らかに昨夜の余りものだ。手間をかけるでもなく、めんつゆと水を足してあたためただけの。ついでに云えばうどんも冷凍を使っているに違いない。夜勤の出勤前、ちゃちゃっとおなかになにか入れておきたいときによくつくってくれるから里衣子もレシピは知っていた。それをお客に出すとはどういうつもりなのか、環でなくたって神経を疑いたくなる。

 氷を入れたシャンパンクーラーを咲哉が運んできた。こちらはプロ顔負けの手さばきで優雅に栓を開け、泡があふれることもなくグラスに上手に注ぎ分ける。ぽかんとしてるふたりに押しつけるようにグラスを手渡すと、咲哉ひとりが上機嫌で「乾杯!」と高らかに云った。

「さあさあ、どうぞ。冷めちゃうから、どんどん食べてくださいね」

「……いただきます」

 丼を手にとり、うどんを口に運ぶ。やはりなんの変哲もないカレーうどんだ。啜ると飛び散りそうなので、細心の注意を払って箸で押し込む。隣を見ると、環も眉根を寄せながらゆっくりと食べている。こういうものを食べ慣れていないのか、里衣子よりその表情は真剣だ。ふたりとも集中しているので無口にならざるをえない。里衣子は環が着てきたきれいな春色のパステルカラーのシャツに、カレーの汁が飛び散らないことだけを祈っていた。

 そんなふたりの姿を咲哉はシャンパンを飲みながらほほえんで見ている。悪気があるのかどうか、なにを考えているのかさっぱりわからない。しばらく眺めてから、咲哉はつと立ちあがりキッチンにいくと、今度は鍋ごと運んできた。

「おかわりもありますからね、ご遠慮なく」

 ドン、とテーブルに置いた鈍い音を聞いて、環の眉がぴくりと動いた。だがそのまま食べ続ける。カレーうどんを啜る音だけが静かに響く。これは修行か、それともなにかの罰ゲームだろうか。里衣子は自分でもよくわからない境地に立たされているような気になった。おでこが熱い。すっかり消えているはずの古傷がどくんどくんと脈打つ感覚。うどんを啜るのが苦しくなってきた。

「もうけっこう」

 環が丼から顔をあげ、咲哉の顔をねめつけるようにしながら手をとめた。ドン、と対抗するように音を立てて丼を置く。その反動でカレーうどんの汁が跳ね、シャツを茶色く点々と汚した。それにかまう様子もなく唇を曲げ、要するに、と環はお決まりの前置きを口にした。

「わたしは歓迎されていないってわけね」

「そんなことはないですよ」

「ありありでしょ。なによ、これ。料理が得意だなんて云っておいて、失礼にもほどがあるわ」

「里衣子さんから気の置けない友人だと聞いていたので。彼女、いつもおいしいおいしいって食べてくれるんですよね。だからこういうメニューのほうがいいかなあ、と。お気を悪くされたならすみません」

 慇懃無礼いん ぎん ぶ れいな態度がますます火に油を注いで、環は見るからにいらいらしはじめた。里衣子ははらはらと両者を見やり、テーブルを人差し指でトントンと叩く環の仕草に気づくと、きょろきょろとあたりを見まわした。

「どうしたの、リイちゃん」

「あ……灰皿、だよね? 環」

「うちは禁煙ですよ」

「わかってるわよ。吸うならベランダに出て吸うから」

「ベランダも、うち、に含まれますけど」

「だから、なに?」

「なに、とは?」

 両者にらみあい、一触即発の雰囲気に里衣子の心臓がきゅっと縮みあがる。

「ここは里衣子の家で、あなたはただの居候 いそうろうでしょ。ヒモ同然の同居人に許しをもらう必要はないと思うんだけど」

「ヒモって……いつの時代の話ですか」

 呆れ果てたように咲哉がため息を吐く。

「男が稼いであたり前だなんて考えかた、捨てたほうがいいですよ。時代錯誤も甚だしい。毎日働いてくれるリイちゃんにも失礼だ。パートナー同士の役割分担に他人がしゃしゃり出てくるなんて、厚かましいにもほどがあるんじゃないですか」

「どの口が……」

 云ったきり、わなわなと震えだした環は肩で大きく何度も息をした。慌てて里衣子が割って入る。

「ごめん、環、今日は……」

「悪い、帰る」

 汚れたシャツの胸元を隠そうともせず、環は置いていたバッグを摑むと大股で部屋を出ていった。

 

 けろりとしたままの咲哉を見て、里衣子は中途半端に浮かせかけた腰を深々とソファに沈め、額に手をやった。

「どうしてあんなことが云えるわけ? わたしの友だちなのよ」

 環を完全に怒らせた。追いかけたほうがよかったかと思ったが、あの感じではとても話を聞いてくれないだろう。謝ったところで同じことだし、咲哉が働いた無礼に対して自分が必死に謝るのもなにか違うような気がした。

「やめときなよ」

「え」

「あの人。ほとんどパラサイトじゃん」

「ちょっと待って」

 本格的に頭が痛くなってきた。この場合、つきあいをやめるよう忠告してくるのは環のほうだろう。それをどうして咲哉に云われなくてはいけないのか、里衣子には意味がわからなかった。

「咲哉は環がわたしに寄生してるって云いたいの? なんで? さっき会ったばかりなのに」

「それくらいわかるよ。だってあの人、もの欲しそうな目でリイちゃんを見てた。ぼくに会いたがったのもリイちゃんからひき離すためでしょう? どうせさ、里衣子にふさわしい男かどうかわたしが見極めてあげる、みたいな調子のいいことを云ったんでしょ。親切ごかしの友情と見せかけてさ。でもそれは友情じゃなくて嫉妬だよ。リイちゃんをとられたくなくて、はじめからぼくを排除する気できてる」

「それは……」

 そうだろうか、と里衣子は一瞬流されそうになる。思い返してみれば、今までつきあった男たちと別れを決めた最後のひと押しは環の言葉や態度だったんじゃないか。いや、考えすぎだ。咲哉はいつもの得意の屁理屈で、わたしを煙に巻こうとしているのかもしれない。だって冷静に考えてみれば寄生しているのはどう見ても咲哉のほうで、自分を正当化するためにあえて環を攻撃している可能性だってある。

 ぐるぐる考えている里衣子を、咲哉は憐れむような目つきで見おろしている。きみはなにもわかっていないと責められているように里衣子には感じられた。

 どうしてそんな目で見られなければならないんだろう。ひょっとしてあのときもそうやって見られていたのだろうか。半年前のロープウェー事故。怪我をしておでこにタオルをあてた情けない姿でうなだれるわたしを、咲哉は同じ目つきでじっと見おろしながら、この女なら簡単に騙せそうだと狙いをつけていたのか。

 だんだん妄想なのかどうかさえもわからなくなってきた。むしろ真実に思えてくる。里衣子は当時のことを思いだしていた。ふと抱いた違和感のようなものがあった気がする。あれはなんだったろう。自分も怪我で動揺していたから周囲に気を配る余裕などなかったけれど、なにか助けだされる直前に疑問に思ったことがあったはずだ。そう、あれは確か……。

 

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