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 看護師という職業に就く以前から、里衣子はなにかと人に頼られがちだった。自分ではそれほど面倒見がいいつもりはなく、むしろ面倒からは遠ざかるよう注意して生きてきたはずなのに、友人や恋人から一方的に相談された挙句、世話を焼かざるを得ない状況に知らぬ間に陥ってしまうのだ。優等生っぽい外見の問題か、持って生まれた運命がそうさせるのか自分ではわからないが、少なくとも里衣子の本意ではなかった。ほんとうは自分こそ誰かを頼りたい、甘えたい人間なのだ。そういう意味で云うと、環は毒舌で甘くはないが、親身になって相談にのってくれる貴重な存在だった。つきあいが長く続いているのもそうした理由からだった。

「頼りになる男を探そうとするからだめなのよ。そんな男、もともとこの世にいないんだから」

「?」

「頼りになる女にしなさいよって話。わたしたちふたりで暮らしたら、きっとたのしいに決まってる。最強だと思わない?」

 そうねえ、とあいまいに頷きながら、ちょうど運ばれてきたミックスジュースを太いストローですする。バナナの味が強い。ちょっと失敗したなと里衣子は思う。同じミックスジュースでもオレンジなどもう少し酸味が強い味が好みだった。店によってなにをベースにつくっているかで全然味が違う。飲んでみなければわからないところが一種の賭けでもあり、ミックスジュースの醍醐味でもあるのだった。

 環の提案をはぐらかしてしまうのは、これまでにも何度か同じことを云われた覚えがあるからだった。なるほど環と共同生活というのも悪くはないかもしれない、若いころはそんな風に気軽に考えたこともあった。里衣子は看護師になりたてで、環も広告デザイナーとして前の会社に勤めはじめたころだ。ふたりとも慣れない世界にへとへとで、でも夢だけはあって、忙しい毎日を励ましあったり支えあったりしながら暮らすのはいいアイデアに思えた。

 ふたりは大学時代に出会った。数ある友人のひとりだったがなんとなく馬が合い、就職後もつきあいは続いていた。すぐにそうしなかったのはお互いにあまりに忙しすぎてタイミングを逃したからだった。そのころはまだ寮生活で夜勤もある里衣子と、クライアントの依頼の締切近くなると会社に泊まり込む環。あたらしい住まいを仲よく一緒に探す時間はなかった。会って愚痴をこぼす暇すらなく、そのうち里衣子のほうに恋人ができて話は自然消滅した。それから十年ちょっと、里衣子は病院で中堅となり、環は会社を辞めて独立してばりばり働いている。ともに忙しいのはあいかわらずだが独身のまま、こうして会えるときには会って憂さを晴らす。ますます気の置けない大切な友人としての位置をキープしている。

 だからこそ、なのだ。

 若いころにはその場のノリで一緒に暮らすのもありだと思った里衣子だったが、結婚や出産を意識しはじめる年ごろになった今、環と生活することは考えられない。はじめは確かにたのしいだろうし、気も楽だろう。だけどその暮らしはいつまで続く? どちらかに恋人ができたり、もし結婚することになったりすれば環境の変化は避けられない。そのとき残されたほうはどういう反応をすればよいのか。表面上は祝福するだろう。できれば心からしたいと里衣子も願っている。環だって相手に納得すればそうしてくれるに違いなかった。だけどそこから先のさみしさは埋められない。それまでふたりで暮らしてしまったからこそ埋められないだろう。どちらがどうなったって次第に疎遠になっていく。そんなのは嫌だった。

 さらにもうひとつの可能性だってある。それは環との生活が快適すぎて、いつまでも女ふたりで仲よく暮らしてしまう未来だった。こっちのほうがよほどこわい。そのどこがいけないのだと環は云うだろう。もともと男に頼らずひとりで道をひらいて生きているような彼女だから、里衣子のように漠然とした恐怖を抱くことはないかもしれない。里衣子もなにがおそろしいのか自分でもうまく言葉にできない。けれどもそうなることはひとつの終焉で、ぬるま湯で、あきらめで……つまり自分はまだあきらめたくないのだと里衣子は思った。

 だったら途中でまたひとり暮らしにもどればいいだけの話、とはいかない。はじめたものを終えるにはそれなりの理由が必要だ。そしてその理由如何いかんによっては今後の友情に影を落としかねないのだ。男は簡単に捨てられても、友人は簡単に捨てることはできない。それが里衣子をためらわせるものの正体だった。

「あいかわらず煮え切らないわねえ」

 ため息とともに煙を吐きだし、環はタバコを持ったほうの右手で器用にほおづえをついた。

「わたしのなにが気に入らないのよ」

「そういう問題じゃなくて」

「別れる気はないわけね」

「咲哉は料理が上手なの」

 苦しまぎれに里衣子が放った言葉を受けて、要するに、と環は前置きした。

「それしかいいところがないってことね」

「………」

「ああ、もう。どうして里衣子はいっつもこうなんだろう」

 もどかしそうに大げさに嘆かれるとわれながら情けなくなる。自分だってどうしたらいいかわからないのだから。環はタバコを灰皿に置き、冷めたコーヒーを啜ると里衣子に云った。

「ロンドン橋落ちたって遊び、あったじゃない。覚えてる?」

「なに、急に」

「吊り橋のこと、考えてたら思いだしたのよ」

 脈絡もなく子どものころの遊びを持ちだす環の真意を測りかねて、里衣子は首をかしげた。遠い記憶では「ロンドン橋、落ちた」とくり返し歌いながら、橋の形に掲げたふたりの子どもの腕の下をみんなで列になってくぐり抜け、最後の「マイフェアレディ」のところで腕がおろされ捕まった子が今度は橋の役をするという、日本の「とおりゃんせ」と同じ仕組みの遊びだったはずだ。

「里衣子って絶対いつも捕まってただろうね。そんな気がする。ううん、ひょっとすると、マイフェアレディって言葉に舞いあがって自分から捕まりにいってたんじゃないかって思うわ」

「しないわよ、そんなこと」

 ずいぶんな云われように、さすがの里衣子も顔をしかめる。

「だいたい、うつくしいわたしのレディってなんなのよ。橋が落ちるのとなにか関係がある?」

「さあ、知らない」

 環は無責任に云い放ち、もうその話題には興味を失ったみたいにタバコを灰皿に押しつけた。黒とベージュでシックに塗り分けられたネイルがよく似合っている。レディとは環のような女性を指して云うのだと思う。

 看護師という職業柄、里衣子は爪になにもしていない。消毒用のアルコールで年中荒れた自分の手を眺めていると、この爪の先から老いていくような気がして里衣子は目をそらした。こんなこと、職場の先輩に云えばまた笑われるだろう。でも、自分はもう三十を過ぎてしまったという焦りのようなものは消えなかった。

「ともかく一度いくから」

「え」

「いいでしょ、料理が得意なんだから招待してくれても。わたしも会ってみたいの、里衣子の今カレ。それでほんとにアウトだと思ったら、がつんと云ってあげる。迷ってうじうじしてるだけ時間の無駄よ」

「……うん」

 ふんぎりがつかない里衣子の心を見透かしたように環が云う。長いつきあいだ。これまでも解決がつかないことを散々相談してきた自分が心の底ではどうしてほしいのか、環には本人以上によくわかっているのだろうと里衣子は思った。そんな風に自分の荷物を半分あずけたと思ったら少し気が楽になった。

 ほんとにねえ、と気だるく髪をかきあげながら環は続ける。

「わたしがいないと里衣子は昔からだめなのよ」

 そうぼやく彼女の口角は少しだけ満足そうにあがっていた。

 

 恋人を環に会わせるのはこれがはじめてではない。前に一緒に住んでいた元カレもそうだったし、その前も。会わせていないのは誰だったかと思いだすほうがむずかしかった。

 咲哉に友人を招待したいと云うと嫌がるかと思ったが、軽く「いいよ」と返事してきたのは意外だった。咲哉は里衣子の近しい友人や家族の話題に興味を示したことがなかった。ほとんど無関心と云ってもいいくらい。だから単純に自分のテリトリーに他人を入れたくない性格なのかと思っていたのだ。

「ほんとにいいの?」

「もちろん。どうして? だめな理由ってなくない?」

「なくない……かな」

 念を押す里衣子を不思議そうに見返し云うので、だめだと決めつけていたのは自分のほうで、勝手な思い込みはよくなかったかもしれないと反省した。環の仕事のスケジュールと里衣子のシフトを調整して、平日のディナーに呼ぶことになった。料理上手な彼だと自慢していることをそれとなく伝えると、咲哉は「ふうん」と空中の一点を見つめながら、「じゃあ、気合い入れてつくらないとなー」とまじめな口調で云った。

「そんなに張り切らなくても、気の置けない友だちだから大丈夫よ」

「環さんって、でもリイちゃんの親友でしょ。そういうわけにはいかないよ」

「覚えてたの?」

「まあね」

 日々のとりとめのない会話の中で環の話をしたかもしれないが、いつもうわの空でちゃんと聞いているとは思っていなかったから驚いた。ありふれた身近な話題はつまらないらしいとわかると、だんだん話すことも減っていった。咲哉が聞きたがるのはおもに里衣子の仕事の話で、奇妙な患者やめずらしい病気、生死を分けるような緊迫した場面のことぐらい。それも医療もののドラマの影響だろうと思われた。もちろん守秘義務があるので詳細は話せないが、ほどほどに脚色したストーリーで満足そうに聞いている。だから咲哉が自分の親友の名前を覚えてくれていたというたったそれだけのことで、里衣子はいたく感動してしまった。環に云わせれば、そういうところがダメ男につけ入られる隙なのだと莫迦にされそうだけれど。

 招待の当日、咲哉はまだ陽の明るいうちに里衣子を部屋から追いだした。つくるところを見られたくないと云う。どうして急に鶴の恩返し的な発言を、といぶかる里衣子に、まあまあぼくに任せてよ、と胸を叩いて答える。それよりリイちゃんは駅まで環さんを迎えにいってあげて。

「環なら何度もうちに遊びにきてるから迷わないけど」

「ぼくの気が散るんだよね。お客さんがくるのなんてはじめてだから」

「そう?」

 料理人はそんなに繊細なのかと首をかしげつつ里衣子は部屋を出た。まあ、そうじは午前中にすませたから問題ないだろう。なにをつくる予定なのか、咲哉は教えてはくれなかった。冷蔵庫の中も見せたがらない徹底ぶりだ。あとのおたのしみということにしたいらしい。仕方なく環に連絡をとり、駅近くのスタバで時間を潰しているから着いたら寄ってほしいとメールした。環が好むような店ではないが仕方ない。夕方、シャンパン持参でやってきた環と合流し、家に向かった。

 

「宙ぶらりんの箱」は全4回で連日公開予定