幼いころ、白漣を剣術の稽古のために広間に連れ出し、木刀を持たせて基礎を教えた。
剣の握り方、体のさばき方に受け方、白漣はなにをやってもすぐに息を切らしてへたり込み、紅波を呆れさせた。簡単な模擬戦をしたこともあったが、どれだけ力を抜いて剣を振っても、木刀がぶつかるたびに簡単にひっくり返った。「もう嫌だ」と口にすれば、すぐにやめるつもりだった。けれど、白漣は濁った灰色の瞳で「まだ、お願い……します」と紅波に従おうとする。
稽古以外も、終始、そのような様子だった。他の姉たちと一緒に話していても、俯いてあまり話そうとはせず、聞いているのかどうかもわからない。けれど、近くにはいようとする。一人だけのときは、延々と本を読んでいる。
そのすべてが、紅波を苛立たせた。
「見かねた父上から、もう白漣にはかまうなと言われたよ。それからは、考えをあらためた。あいつは弱い、だから──私が、あいつを守ろうと」
守るべき存在。そう思った時、紅波の心の中から苛立ちは消えていた。白漣は可愛い妹になり、紅波は王族として正しい資質を認められた気がした。
白漣の卑屈で弱気な態度は、姉たちの婚姻が決まり、国を出るまで変わらなかった。
良い姉であろうと振る舞っていたが、白漣が自分のことをどう思っていたかは、最後までわからなかった。
「だから、そんなに緊張しているのですね」
「緊張している? 私がか?」
「はい。とても」
紅波はようやく、自分の心臓がいつもより速く脈打っているのに気づく。
緊張している。そうか、私は緊張しているのか。妹に会うだけなのに。
紅波はようやく、城に入ってからずっと感じている居心地の悪さの正体に気づく。
「……ありえない、はずなんだ」
守るべき大切な妹だった。けれど、この国の女王には相応しくない。
長女の紫洋には、国中から賞賛される才智と美貌があった。次女の桃汐は天真爛漫で誰からも愛される性格の持ち主だった。けれど白漣は、特別な才もなく、国民の話題に上ることもなかった。
花の四姉妹の中で一人だけなにも持っていない、三人の姉に守られるだけのか弱い妹。
その妹が──女王になった。
居心地が悪く、緊張している理由は、辻褄が合わないからだ。
「……私の記憶の中のあいつは、そんな器じゃなかった」
「二年あれば、人は変わります」
「剣の握り方も知らなかった新兵が、二年でお前より強くなって将軍になったと聞いたら動揺するだろ」
「心外ですね、ありえません」
「そういうことが起きている、と言ってるんだ」
「なるほど。少し、理解しました」
先王の子は四姉妹だけだったが、先王には政を傍で支えていた弟・海徳がいる。紅波にとっては叔父にあたる人物だ。誰もが、海徳が王位を継ぐものと思っていた。
だが、波多留国が次期国主として選んだのは、今まで目立たなかった白漣だった。どういうわけか、臣下も国民も、それを受け入れている。
考え込んでいると、急にシャミに軽く爪先を蹴られた。
顔を向けると、赤毛の従者は真剣な表情で囁いてくる。
「足音が四人、近づいてきます」
「蹴る前に言え」
紅波が足音を認識できたのは、シャミの言葉を聞いてから数瞬してからだった。
背後の扉が開かれる。
二人は立ち上がって扉の方に体を向けると、ウルグにおいて礼を示す挨拶である、右手で左肩に触れる仕草をする。
扉の向こうには、懐かしい顔があった。
二年ぶりに再会する妹は、背筋を伸ばし、堂々としていた。紅波の記憶の中にある、いつも俯いて父親の後ろに隠れていた軟弱な様子はどこにもない。
「お久しぶりです、紅波姉さま」
白漣が笑いかけてくる。
身に纏うのは、波涛文様が美しい淡い青の長衣。首からは、歴代の王のみが身に着けることを許された瑠璃の宝珠を下げている。
かつての白漣は身を着飾るのに疎く、いつも無地で代わり映えしない長衣姿だった。民の前に出る儀式のたび、次女の桃汐に「そんなんだから平民の出自だって馬鹿にされるのよ」とからかわれながら着せ替え人形のように服を選んでもらっていた。
白漣の背後には若い従者が一人、衛士が二人控えていた。従者の方はよく知っている。白漣が幼い頃より連れていた、星羅という名の綺麗な顔をした少年だった。
「このたびは新女王の即位、お祝い申し上げる」
紅波は妹に向けて、ウルグ帝国の使者として声を掛ける。白漣は驚いたように目を丸くした後、やわらかな笑みを浮かべた。
「堅苦しい挨拶はやめてください。これまでのように、白漣とお呼びください。女王になっても、姉妹であることは変わらないのですから」
「……わかった。では、そうさせてもらう。白漣、元気そうで私も嬉しいよ」
「つもる話もありますが、まずは参りましょう」
白漣は当然のように告げると、応接室に一歩も足を踏み入れることなく背を向ける。
「どこへ、いくんだ」
「それはもちろん、お父さまのところです」
紅波は、白漣のことばかり考えていたため、すっかり本来の目的をないがしろにしていたことに気づく。
しっかりしなくては。妹に、緊張しているようではいけない。
紅波はそっと、拳を握りしめながら後に続いた。
王の間、と呼ばれる部屋がある。
波多留の国を支えてきた歴代の王たちの遺品が並べられている部屋だ。王族か、王族から許可を得た者しか入ることができない神聖な場所だった。
紅波も、幼い頃になんども父親に連れてこられ、歴代の王たちの逸話を聞かされた。印象に残っているのは、いずれも戦が強かった王ばかりだ。第七代王・海武が先陣を切って侵略者たちを退けた英雄譚には興奮したし、第九代王・海善が三日三晩国境を守り続けた武勇伝には感動した。
けれど、他国に嫁いだ今ならわかる。
大陸と国土を隔てる海に守られてきた波多留には、他国に比べると英雄譚は少なく、登場する逸話も弱々しい。岩を砕く将軍も、千の兵を一人でなぎ倒した豪傑もいない。
白漣に先導されながら廊下を進み、王の間に着く。
扉を開けた向こうには、幼い頃の記憶のままの景色が広がっていた。
縦に長い広間には、波多留国二十三代の王の肖像画と数々の愛用品、剣や冠、王たちが残した書物や絵が飾られている。けれど、飾られているのは部屋の手前半分ほどまで。後ろ半分にはなにも飾られていない。それは、これから先の五百年も、この国があり続けるという願いのように思えた。
「そこにあるのが、お父さまの遺灰の壺です」
白漣が示す先、王たちの遺品の一番端に、まだ新しい青磁の壺が置かれていた。上蓋には鯨、側面には波涛と飛魚が描かれている。波多留国では、死者は火葬し、遺灰は壺に収められると決まっていた。
紅波は、そっと壺に歩み寄る。
父のことは、愛していた。その死を聞いた時は、涙を流した。
けれど、報せが届いたのは、海燕が死んでから四日後。翌日に白漣より葬儀への招待が届き、それから五日かけて旅をしてきた。
旅の中で悲しみは薄れ、父の死を悼むことよりも、女王となった白漣に会うことが目的になっていた。
父の遺灰という言葉に、通り過ぎたと思っていた悲しみがこみあげてくる。
そっと右手を伸ばす。
毎日のように剣を握っていたせいで掌は豆だらけで、よく父に歴戦の兵士のようだとからかわれた。
指先が振れる。磁器の滑らかさと冷たさが伝わってくる。
「お父さま、このような形で再会するとは、思っておりませんでした」
紅波は小さく呟く。
涙は出てこない。昔から、悲しくて泣くのは苦手だった。泣くのはもっぱら悔しい時だ。それも、父に言われて初めて気づいたことだ。
「まだ、お父さまは、その中に入っていませんよ」
背後から、妹の申し訳なさそうな声がする。
「火葬の後、三日間は火葬窟から出さない。それは、同じ王専用の火葬窟で灰になった先王たちに、務めを終えたことを話し、労いを受けるからです。今日で三日目、午後に出てこられます」
紅波が振り向くと、従者のシャミが声を出さずに笑っていた。
五日間の旅の中で、彼女が笑ったのを見たのはこれで二回目だ。
「お父さまのところへいく、なんて紛らわしい言い方をするからだ」
「失礼しました。お父さまが眠ることになる灰壺をお見せしたかったのです」
白漣は謝りながらも、悪戯が成功したかのように微笑んでいる。
これまで、白漣に笑われたことなどなかった。紅波は、再会してから何度目かの違和感を覚える。
「お父さまは、この灰壺の中に眠り、三日後の国葬の日に先王廟へと運ばれます。そして、過去の偉大な先王たちの列に加わるのです」
「ああ。盛大に、お見送りしよう」
紅波はそれから、視線を壺の隣に向ける。そこには、父が愛用していた戦駒盤が置かれていた。盤を挟んで、父親と向かい合った記憶がよみがえる。真剣勝負では、一度も勝てないままだった。
「お父さまの愛用されていた戦駒盤か。お父さまは、確かに強かったな」
「ええ、とても」
「紫洋姉さまと桃汐姉さまは、もう到着されているのか?」
紅波は、二人の姉の名前を口にする。姉たちと会うのも二年ぶりだ。
二人の姉とは幼い頃から仲がよく、葬儀で会えるのを楽しみにしていた。この機会を逃したら、次はいつ会えるかわからない。
ただ、少しだけ、二人の姉に会うことに躊躇いも覚えていた。
物心がついたときから、ずっと姉たちと比べられながら生きてきた。ことあるごとに敵わないと思い知らされ、劣等感を刻まれてきた。
きっと、二人の姉は、すでにそれぞれの国で揺るぎない地位を得ているだろう。今の自分と違って。
「今日、波多留に到着するのは、紅波姉さまだけです」
「……どういうことだ? お前からの手紙には、かならず三日前には到着するようにと記されていたが」
紅波が、赤い瞳を細めて問いかける。けれど、白漣は答える代わりに、視線をするりと横に向ける。その先にいたのはシャミだった。
「連天乱世の四姉妹 1」は全4回で連日公開予定