これまでの五百年はそれぞれの大陸で複数の小国が乱立し、対立し合っていた。だが、五十年ほど前から三つの帝国が頭角を現し、十年前にそれぞれが大陸を統一した。
北の大陸を統一したのは、文武双全を掲げる雪土の大国・袁璃。
東の大陸を統一したのは、享楽と放蕩を愛する熱砂の国・パシルレーン。
西の大陸を統一したのは、複数の部族の盟約により生まれた草原の国・ウルグ。
三帝国は大陸統一だけでは飽き足らず、世界の覇権を狙っている。陸路で他大陸に進軍するには波多留を経由するしかない。そのため、波多留は戦略的要所に位置していた。
三帝国は、波多留を遥かに上回る国土と国力を持っている。
いずれかの国が波多留に攻めかかれば、抗う術はない。橋を落としたところで時間稼ぎにしかならない。航海術が発達した今の時代では、三帝国が本気になれば、海流を越えて大船を着岸させることもできるだろう。
波多留が独立を保っているのは、三帝国が牽制し合っているからだった。
波多留は三つの帝国すべてと結びつきを持っている。そのため、一国が攻め入れば、残り二国は波多留を助けるという大義名分を得る。二国は同盟を結んで介入し、最初に侵攻した一国を退ける。二国の軍勢は波多留に留まり、国土を分断して事実上の占領下に置くだろう。最初に手を出した一国のみが損をする構図となる。
「なるほど。だから、紅波さまは我が国に嫁いだのですか」
「そういうことだ。ウルグ帝国皇帝・白狼帝から、波多留国王家の姫を嫁がせるように書簡がきた。関係強化とは名ばかりの人質だよ。選ばれたのが、私だ。オルハンさまの側近の中で知らないのは、お前くらいだと思うけどな」
「だとしたら、先王は大きな過ちをおかしましたね」
過ちだらけだ、心中で呟きながら、紅波は横目で従者を見る。
「我がウルグのみを頼るべきでした。三帝国すべてと婚姻を結ぶなど、愚かな決断です」
「同じような要求が、他の二帝国からも届いたからな」
「わかっています。その中で、信じるべき一つの帝国を選べなかったのは弱さです。王の器ではない」
「そう、だな」
紅波は視線を空に向け、思い描いていた未来が、がらりと変わった二年前の夜を思い出す。
紅波が十七歳になった翌日だった。先王は四姉妹を自室に呼んで告げた。
先王・海燕は、その時、四十代だったが、度重なる心労からか、年齢以上に老け込んでいた。少し曲がった背に落ちくぼんだ目元が疲労を感じさせる。
「この国の状況は知っているな。三帝国から、自らの軍門に降れと圧力をかけられ続けている。脅しにも似た調略や、人質のような婚姻の要求などだ。だが、もしどこかの軍門に降ろうものなら、他の二帝国が静観していないだろう。たちまち波多留は攻め込まれ、この美しい国は、三帝国の戦場になる」
先王は悲しそうに愛する娘たちを見つめていた。
「お前たちには、三帝国にそれぞれ嫁いでもらう。波多留は婚姻によって三つの帝国すべてと結びつきを強め、力の均衡によって国を守るのだ」
他国の為政者が聞けば、愚策も極まったと嘆くような決断だった。ただ、三帝国からの圧力をはねのけることも、一つの帝国を選ぶこともできなかっただけ。
まだ外の世界を知らなかった紅波にさえ、日和見で決断を先延ばしにしているだけのように聞こえた。
だが、海燕にとっては考え抜いた末の最善だったのだ。
「力の均衡はそう長くは続かないだろう。いつかは崩れ、いずれかの帝国の軍門に降ることを選ばざるをえなくなる。その時に、間違いのない判断をしたい。だから、お前たちに頼む。嫁いだ後には、毎月どのような暮らしをしているか手紙を送ってくれ。手紙は検閲を受ける、国の内情をしたためるのは難しいだろうから、伝えられる範囲でいい。その情報をもとに、この先の波多留の行く末を考えたい」
四姉妹それぞれに想うところはあったが、国主である父の判断には逆らえなかった。
こうして、花の四姉妹のうちの三人が三帝国に嫁ぎ、体が弱かった一番下の妹だけが残された。
ああ、そうだ。と、シャミが思い出したように付け足す。
「もう一つ、過ちがありましたね。もっとも美しい花と呼ばれる紫洋さまがウルグにくるべきでした」
シャミが口にしたのは、花の四姉妹と呼ばれた四人の中の、長女の名だった。波多留でもっとも美しい花と呼ばれた、絶世の美女だ。
長女の紫洋は、袁璃帝国に嫁いでいた。
「なんで、そんなに私のことを嫌うんだ」
「決まっているでしょう。あなたが、オルハンさまに相応しくないからです」
シャミに嫌われているのはわかっていた。ただ、ここまではっきり言われたのは初めてだった。
「やっと本音を話してくれたな」
「ご安心ください。あなたのことは命に代えて守ります。主命ですから」
「オルハンさまが好きなのだな」
ほんの軽口のつもりだったが、シャミは仇敵に会ったような鋭い視線を向けてくる。
「そういう単純なものではありません。私は、尊敬しているのです。他の黒衣の兵たちと同じように」
黒衣の兵とは、オルハンが抱える精鋭部隊の呼び名だった。全員が、シャミと同じような揃いの黒い騎馬袍を纏っている。
オルハンの兵たちの多くは、オルハンを侮っている。
政争に敗れ、辺境である波多留国との国境沿いに送られた敗者だと考えている。
だが、黒衣の兵たちだけは、オルハンを強く慕っていた。そのほとんどが孤児や貧民の出自で、オルハンによって才を見出され、鍛え上げられた者たちだ。
それでも紅波には、シャミがここまで露骨に対抗意識を見せるのは、やはりシャミが女であることが理由に思えてならなかった。
しばらく馬を進めると、弧を描くように曲がった街道の先、王都の最奥に聳える宮城が目に入る。小高い丘の上、石を積み上げた低い城壁に囲まれた二階建ての建物。紺色の瑠璃瓦が光に映えていた。
「見えたぞ。あれが、私の生まれ育った波里城だ」
紅波が、懐かしい故郷を指す。
「やはり、攻めやすそうな城です」
しばらく間をおいて、シャミの呆れたような声が聞こえた。
◆◇◆◇◆
紅波は王都・波里に到着した後、旅の疲れを癒す間もなく、宮城へと向かった。
祖国といえども、ウルグ帝国の弔問団の代表として訪れたのだ。まずは国主に挨拶するのが儀礼だった。
案内の衛士に続いて廊下を歩きながら、かつて隅々まで知っていたはずの城中が、風景はそのままに全く違う場所になってしまったような違和感を覚える。
身に纏っている騎馬袍のせいだろうか。隣を歩く赤髪の従者のせいだろうか。暮らしていた時は城勤めの者は皆覚えていたが、前を歩く衛士が知らない顔だからだろうか。
「こちらで、しばらくお待ちください」
衛士が応接室の前で立ち止まり、恭しく拱手をしながら微笑む。
かつてこの国の王族であった者への敬意と親しみが込められていた。「ありがとう」と笑顔で応えるけれど、紅波の心の中では寒々とした感情が生まれる。
今の私は、きっと、この若い衛士が思い描く人物像とはかけ離れたところにいる。
衛士が立ち去ると、応接室には、シャミと二人だけになった。
波里城に護衛として連れてきたのは、シャミだけだった。他の兵士は、城の外で待機させている。
何度も入ったことのある部屋だが、調度品はすっかり変わっていた。真ん中に白檀の卓があり、手すりに鯨の装飾が施された椅子が並んでいる。
紅波が椅子に座ったあとも、シャミはしばらく部屋を見回していた。壁の向こうに気配がないのを確かめるように壁沿いをぐるりと一周回ってから、やっと納得がいったのか紅波の隣に座る。
「白漣女王とは、どのような人物ですか?」
座ると同時に、質問が飛んでくる。
紅波は、呆れたように従者を見た。いつ誰が入ってくるかもわからないこの場所でする話題ではない。旅の途中、いくらでも尋ねる機会はあったはずだが、この時になってようやく気になったのだろう。
「大丈夫です、確認しました。この部屋に聞き耳を立てている者はいませんよ」
自信満々に付け足す。紅波はウルグで過ごした二年の日々で、シャミがそう言う時は、その通りであることを知っていた。
「私の知っている白漣は、いつも本ばかり読んでいる、なにもできない妹だった。話しかけてもおどおどするだけで、私の目を見ることもできなかった」
紅波はほんの一瞬だけ目を瞑り、小さな声で続ける。
「出会ったばかりのころは、私はその姿に苛立っていたよ」
「姉妹なのに、生まれた時から一緒ではないのですか?」
「私たち四姉妹は、全員、母親が別々だ」
「おや、そうなのですか。ずいぶんとお盛んなお父さまだったのですね」
「気持ち悪い言い方をするな、王の務めだろう。だが、結局は、子供は私たち四姉妹だけで、男子が生まれることはなかったけどな」
「白漣女王とは、いつ出会ったのですか?」
「あいつが五歳の時だ。白漣の母親は、お父さまが国内を旅していた時に出会った薬膳医だった。急病になったお父さまを助けたのがきっかけで、恋仲になったそうだ。子を授かった後も彼女は市井で薬膳医を続け、波里城には入らなかった。白漣が五歳の時、その母が死に、宮城に引き取られた。ここに来る前の話は、聞いただけで詳しくは知らないが」
「引き取られてきた時に、初めて会ったのですか。急に宮城に連れてこられたのですから、おどおどするのは当たり前なのでは?」
「あいつのは、それだけじゃなかった」
「どういう意味です?」
「うまく言えないが、普通じゃなかった」
紅波は、初めて白漣に会った日のことを思い出す。
父は、二人の姉と紅波を自室に呼ぶと、新しい妹だ、と紹介した。白漣は父に懐いており、その左足に体を半分隠すようにしてしがみついていた。
白い髪に灰色の濁った瞳。波多留の民は黒髪黒瞳が多いが、古くよりさまざまな大陸の民と交流を持っていた歴史があるため、白い髪も灰色の瞳も、街を歩けば見られる特徴だった。けれど、両方揃っている者は多くない。白い肌は美しさよりも存在がうつろっているような儚さを感じさせる。手足はおどろくほど細く、壊れ物のようだった。
紅波の心をもっとも強く動かしたのは、その容姿よりも、態度だった。
卑屈で軟弱そうで見ているだけで苛立った。そして、違和感を覚えた。
見ず知らずの、年下の少女を見た途端に苛立つなど、これまでなかった。
紅波は、王族の一人として高潔であろうとしてきた。苛立つような感情が湧いたことに、衝撃を受けた。このような感情を与えた、白漣の方が普通ではないのではないかとさえ思った。
「それで、虐めたのですか」
「虐めるわけがないだろう、私をなんだと思っている」
初めて会った時に感じた苛立ち。紅波は、それを恥じた。
その苛立ちを押し込めるように、良き姉であろうとした。白漣に正しく接することで、王族の証明になる気がした。
「最初は、少し向き合い方を失敗したがな」
「興味がありますね」
「お前は本当に、私の失敗が好きだな。大した話じゃない、白漣はもともと、体が弱かった。卑屈で気弱な心の根は、それだと思っていた。体を鍛えれば少しは性格も前向きになるだろうと、無理やり剣の稽古をつけたり、馬の乗り方を教えたりした」
「相変わらず、単純な発想ですね」
「剣ばかりのお前に言われたくないな。でも、いくら鍛えても、あいつは変わらなかった」
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