*艮カレン* 午前十一時五分
髪の色を変えたって、状況はなんにも変わらない。
そりゃ、あたしだってそのくらい分かってる。
けど、何かを変えたくてあたしが思いついたのは、髪の色を変えることくらいだった。
「ねえカレンちゃん、もう、ホントにボクは知らないからね!」
部室の隅っこで、モチャが心配そうにぼやいてる。部室っていっても、物置を無理やり部室にしただけの場所だ。コンクリートがむき出しの小汚い灰色の壁には、アーティストのライブのポスターとかTシャツとかが飾られてて、それがようやく軽音楽部の部室っぽく見せてる。
モチャの言葉を、あたしはガン無視してやった。スプレー缶を振ると、からからと元気のいい音がする。いいね、この音。なんかスカッとする。肩の上からバスタオルを巻いて、とりあえず準備はOK。
「なーんで、よりにもよって赤なのかなァ」
あたしがスマホを自撮りモードにして髪の毛にスプレーを吹きかけている横で、モチャはまだそんなことをぼやいていた。モチャというのは、望也というこいつの名前からきたあだ名だけど、こんなにぴったりなあだ名はない。いつ見てももちゃもちゃと何かを食べている。腹もケツも、全体的なフォルムがもちゃっとしてるし。
「せめて茶色だったら、先生にも言い訳できそうなのにさァ」
あたしはスマホの画面に入り込んだ、モチャのでかい腹を睨みつける。モチャの着ている半袖のTシャツは、やつの脂肪でパツンパツンに膨れていた。いわゆるクラスTシャツってやつだ。自撮りモードでシャツのロゴが左右反転しているからという理由を差し引いても、なんの言葉が書かれているのか判別できないほど伸びている。
「うっせーよデブ。染めたわけじゃねえし、なんか言われたら洗えばいいだろ」
「そうかもしんないけどさァ。そもそも、なんで急に髪の色を変えようなんて思ったのさ?」
「そりゃお前」
険しくなったあたしの表情を見て、モチャはため息交じりにもぞもぞと言う。「今、カレンちゃんが何思ってるかわかるなァ。もう、当日なんだし、あきらめなって」
「うるせえ、デブ」
「いらいらしてもしょうがないよ。家庭科部のクッキーいる?」
「うん」
口の中にバターの香りが広がる。うまい。けどやっぱり、スッキリはしない。
家庭科部がクッキーを作る。もちろんいい。演劇部が演劇をする。当たり前だ。なのになんで軽音楽部は……。
「あー。イライラする」
もう何回も口にした言葉が、また勝手に漏れる。
「別にいいじゃん。舞台で演奏できるんだからさァ」
モチャは呑気に太い指でクッキーを一枚摘み上げると、ネズミみたいに隅から齧っていく。「ロックができなくても、音楽はできるよ」
思い出すだけで、腹が立つ。
軽音学部の部室に教頭が来たのは、窓から夕立みたいに蝉の鳴き声が流れ込む、八月の中頃だった。
「……どういうことスか」
顎を上げて睨みつけるあたしを見下ろして、教頭は寂しい頭頂を撫でていた。そうして馬鹿丁寧な甲高い声で、ゆっくり繰り返した。
「ですから、今年の文化祭の軽音学部の演奏では、ロックンロールを演奏することは、禁止となったんですよ」
いやいやいやいやいやいや。
「いやいや」
心の中の「いや」の一割くらいが、口からあふれた。
「意味が分かんないスよ。もっと詳しく教えてもらわないと」
「あなた、名前とクラス名を答えなさい」
「一年四組、艮カレン」
「うしとら? 珍しい名字ですねえ」
分厚い眼鏡の奥の小さな瞳が、ぎょろりと大きくなる。乾いた眼光があたしの身体を舐めまわす。クマゼミが狂ったように鳴いているのに、ぞわりと首筋が寒くなった。
「名字なんて、どうでもいいんで。だから、どういうことっスか」
「ですから、今回の文化祭の演奏で『ロックンロール』と呼ばれる音楽の演奏は禁止ですよ。去年の件を踏まえ、職員会議で決定しました」
去年の件、という言葉で、隣に目をやる。
睨んだつもりはないけど、部長が、うっと喉の奥で声を溜めた。腕を組んでふんぞり返ってはいるけど、腕が細いせいでなんか自分の身体を抱き寄せているみたいに見える。
「きょ、去年のことは、か、関係ないでしょう!」
部長は興奮して、舌を上滑りさせている。
「だ、だって、きょ、きょ、去年は去年で……」
「反論は無用です」
ぴしゃり、と教師特有の叩きつけるような言い草だった。
「去年、あなた方は何をしましたか? あれだけ、学校側の許可が無いイベントは禁止だと伝えたにも拘わらず、中庭でゲリラライブをしようとしたじゃないですか。そのために、体育館では吹奏楽部の演奏が台無しになったんですよ?」
「それは伝統というか……」
「あなた方の言い訳はなんでしたか? 『ロックンロールだから仕方ない』。ロックンロールが非行の原因というのなら、ロックンロールの演奏は認めるわけにはいきません」
去年の中庭でのゲリラライブ。
そういうことがあったのは、知ってた。というか、あたしもそのライブを見てた。中学三年生の秋のことだ。
文化祭に来たのは、モチャの付き添いのためだった。モチャの憧れの先輩が吹奏楽部にいてその女子を一目見たい、という理由だった。昔からそうだ。怖気づいたときはいつも、あたしを頼る。
モチャは着くやいなや「吹奏楽部の演奏を見てくる」と言って、早々に巨体をどこかにくらませた。あたしは一人で当てどなく、校内を歩き回っていた。正直、知り合いのいない場所で独りになれたことにほっとしていた。そんな時間は久しぶりだったから。
まあ。ちょうど、色々あった時期だったから。
名字が「艮」に変わったころだった。親の離婚なんて別によくあることだ。大したことじゃあ、ない。
いろいろ考えたり、あるいは考えなかったりしながら、見慣れない校舎の中を歩き回った。お化け屋敷、喫茶店、科学展示。溢れる熱気と、満ちる生気。文化祭の校舎には、どこもかしこも声が充満していた。誰かを呼び止める声、軽やかな相槌、鼻にかかったアナウンス。
不思議な感じがした。
誰かが声を発して、誰かが声で受け止める。それが当たり前に何百と集まっているのが気持ち悪かった。声の集合体が大きな生き物みたいだった。そいつの顔はなくて、鎌首をもたげてぐわんぐわんと一人残らずその渦に巻き込んでしまう……そんな妄想をしていた。
なんだか、自分だけ言葉も習慣も違う惑星に放り出されたような気分だった。
歩き疲れて、廊下の窓際に身体を預けた。空には千切れ雲が浮かんでいて、三階に吹き込む風は適度に涼しかった。四角い箱庭みたいな中庭にはレンガが敷き詰めてあって、その赤茶色のモザイクがちょうど紅葉みたいだった。時計の下の校章が、陽の光に照らされて気持ちよさそうに光っている。
そんな中庭で誰かが怪しげな動きをしているのが見えた。
普段は教室の隅っこで寝たふりをしてそうな根暗な男数名が、いそいそと楽器やらコードやらを運んでいる。陰気な男子高校生が汗だくになっている姿は見ていて気味が悪かったけど、面白いことが起きそうな予感がしたから、そのまま眺めていた。
しばらくして、用意が終わったんだろう、四人の生徒が配置に付いた。妙に静かな顔つきだった。
おもむろに、本当におもむろにそれは始まった。
「──」
その歌声。
鳥肌が立った。
それまで誰も中庭なんて見ていなかった。誰かがいるってことさえ、きっと、知らなかっただろう。気づいたとしても、根暗が何かやってるな、程度のものだったはずだ。
けど、今はどうだろう。
バンドの連中は誰も見てくれなんて言っていない。ただ演奏し、歌っているだけ。なのに、中庭に面したほとんどの窓には生徒が張り付いていた。
校内で渦を巻いていた意思の見えない声の化け物は、今や消えていた。全てを巻き込んでいた有象無象の声の塊は、全てどこかに弾け去ってしまっていて、あるのは、低音でかすれた歌声だけだ。
そしてその声を発しているのは、紛れもなく、根暗でひょろひょろの男子生徒だった。
「……すげえ」
思わず、そう声が出た。声って、誰かに何かを伝えようとするための、単なるツールだと思ってた。自分以外の誰かがいないと、成立しない。
けど、ほんとはそうじゃないとその時気づいた。声は道具じゃなくて、武器だ。誰彼構わず、胸に銃弾をぶち込める。
手拍子が響きわたり、そうやって最高潮に達そうとした頃、教師が走ってきた。ボーカルの目の前で何か言っているが、ボーカルの声量のせいで何も聞こえない。彼は教師が来ても歌い続け、とうとうマイクを取り上げられてしまった。
その瞬間、叫んだ。
「これがロックンロールだ! 軽音学部を、よろしく!」
そうしてあたしは、この学校で軽音学部に入ろうと決めた。
……で、それから一年たって。こうして憧れの軽音楽部に入ったってのに。
「なら何を演奏したらいいんですか」
あの格好良かったボーカルが、普段はこんなにも頼りないなんて、一体誰が想像できるんだろう? 教頭がねっとり返す。
「フォークでもJポップでも、いろいろあるでしょう。校歌でもいいですよ」
校歌って、お前。まんざら冗談で言っているわけでもなさそうなのが、癪に障る。カラオケで童謡を歌うタイプの学生時代だったな、コイツ。
「そもそもロックンロールの定義はありませんよ」
「CDショップで、ロックンロールのジャンルの棚に置いてある曲はだめです」
「け、けどそれじゃ……」
いいですか、とここで教頭はことさら語調に粘り気を加えた。
「演奏を許可しているだけ、ありがたいと思いなさいよ? 普通なら、廃部どころじゃありません。生徒個人にも何らかの処分があっても良い事案ですよ?」
「納得できません」
黙ってしまった部長を押しのけて、あたしはずいと前に出た。教頭のシトラスのきつい香水の臭いが鼻につく。
腹の奥がぐぐっと熱くなる。
歯を食いしばって堪えた。
「逆に聞きますけど、それだけで生徒が納得すると思うんスか? なんで去年のことで、あたしら一年までとばっちりくわないといけないんスか。決められた場所で決められたとおり演奏するんだったら、いいじゃないスか」
あたしの言ってることは、間違ってないはずだ。軽音学部がステージでロックンロールを演奏する。文化活動の成果を発表するわけだ。一体、何が間違ってるっていうんだ?
こういうやわい教師は大抵、生徒の話を聞くふりをしようとする。生徒に寄り添う教師に憧れているんだろう。だから、その時に真正面から正論をぶち込めば、そのあとの反応は大体二パターンだ。
ひるむか、激昂するか。
さあ、どう出る。
「まあ、職員会議で決まったことですからねえ」
……ああ、もう一つパターンがあるのを忘れてた。
誰かの責任にする、だ。
「じゃあ文化祭って、何のためにあるんだよ」
立ち去ろうとする教頭のポロシャツに、吐き捨てる。教頭の背中が止まった。薄いブルーのシャツは、汗のためにところどころ気味の悪い群青に染まっていた。
教頭は本当に、一片の迷いもなく言い放ったのだった。
「真面目に学習している生徒の発表の場です。自分勝手な行動を許容する場ではない。君たちはまず、反省しなさい」
「──だからさァ、嫌なこと思い出してもしょうがないってば」
もちもちとした声がして、茹だる部室に意識が引っ張り戻された。
「それに教頭先生の言ってることも、間違いじゃないと思うよ」
「はあ?」
「だって去年のゲリラライブの後、ほんとに廃部も検討されたみたいだしさァ。こうやって演奏できるのだって、結構ありがたいとボクは思うんだけどなァ」
「うっせえ。分かったような口をきくな。あたしはもっとこう──」
言いかけて、上手く言えなくて、できる限り大きく舌打ちを残す。あたしは足で扇風機のつまみを最大にする。唸り声が高くなって、滞った部室の空気をかき乱す。
あたしは先ほど言いかけた言葉を、拾い上げようと試みる。もっとこう、なんだっけな。……そうだ。あたしはもっと、心臓にぶちこむような声を出したいわけ。決められた舞台とか曲目なんかじゃ、それは無理なんだよ、多分。
扇風機が唸り声をあげても、なかなか涼しく感じられなかった。朝は涼しくても、この時間になるともうダメだ。焼けたコンクリートの校舎は、まだ夏を覚えている。
「『秋は夏の焼け残り』なんて、昔の人は良く言ったもんだ」
「あ、太宰だ。芥川だっけ?」
「忘れた」
「カレンちゃんって、昔はよく本を読んでたよね」
「うっせ、ばーか」
焼け残りの熱は足の指の先からキューティクルの死んだ真っ赤な髪の毛の先まで、じんわりと侵食する。そのうち行き場を失って、どうしようもなくて、あたしは無駄だとわかっているのに、扇風機の羽の上からスカートを被せた。もちろん、スカートの下には短パンを穿いてる。ぼろぼろの扇風機が送る風で、地味な色のスカートは風船のように膨らむ。
一体何に、あたしはこんなに苛立ってるんだろ、と思ったりする。
一体いつから、この腹の奥の火種はくすぶり続けてるんだろうか。
「失礼します」
「しまーす」
入ってきたのは、二人の女子生徒だった。人当たりのよさそうな長髪ウェーブの生徒と、短めの髪を外側に跳ねさせた元気な感じの生徒。二人ともボウタイの色が赤いから、三年生だ。腕に文化祭実行委員の腕章をしていた。
長髪ちゃんの視線が、短パン丸出しの赤髪の女子生徒に、続いて汗まみれのTシャツに袖を通したデブに動いた。あ、しかも今多分、鼻の穴が動いた。その後ろの元気ちゃんは、あたしの格好を見てにやにや笑っているし。
「……私たち文化祭実行委員なんだけど。聞きたいことがあるんだよね」
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