EX大衆で大好評を博した〈小説×アイドル〉企画。人気アイドルグループ「僕が見たかった青空」の早﨑すずきが、藤つかさによる甘酸っぱい男女の関係を描いた青春小説をもとにグラビア撮影に挑む。誌面では掲載しきれなかった物語のすべてを一挙公開!(全3回の第3回)

 

【あらすじ】
陸上部に所属する高2女子の古崎は、同じハードル競技に取り組む後輩男子の岸に、日々アドバイスを求められる。ハードル初心者で、小生意気で、無邪気な岸との距離感を掴みかねる古崎だが、ある事件をきっかけに二人の関係性が変わってしまう。

 

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 私のもとに、同窓会のお誘い、というメッセージが届いたのはオフィスビルを出た時た。

 地下鉄までは五分ほど歩く。その間にざっと内容を確認した。東京は夜が訪れてもなお蒸し暑い。アスファルトに、ビルのコンクリートに、夏の気配をずっと残している。額に浮かぶ汗をハンカチで拭う。

 同窓会の内容は、高校の陸上部が創部何十周年を迎えるから高校に集まる、というものだった。陸上部、という言葉を久しぶりに見て、目の奥が少し重くなった。陸上部。懐かしく、痛い言葉だ。

 高校のインターハイでは決勝に残れなかった。しかし、大学は陸上の推薦で行くことができた。

 けど、そこまでだった。

 全国から集まる選手は、記録だけでなく意識もずば抜けていた。強烈な個性と自我が渦巻く集団の中で、何となくうまくいく、そう思っていた自分を恥じた。自分は他者とは違う、と漠然としたプライドは粉々に砕かれた。「古崎はどこを目指したいの?」「どういう人間になりたいの?」「どういう人生を歩もうとして大学に来たの?」答えられなかった。そこで私は他者とは確かに違う、とようやく気づいた。もちろん、悪い意味で。他者よりもあまりにも曖昧で、茫漠としていて、希薄で、ふわふわしている。

 三年生の時にハードルに足を引っかけて足首をひどく怪我した。それで陸上部は辞めた。怪我をしてほっとしている自分に気が付き、もう無理だと悟ったのだ。

 すぐに就職活動が始まって、陸上がないと自分は何者でもないということも知った。「なぜ陸上を止めたのですか? 諦めないで続けようとは思わなかったのですか?」そう面接官に問われる度に、ぎこちない笑みを浮かべることしかできない自分がいた。何とか内定をもらった一社に就職し、三年になる。

 

 

 やっと三年か、と思う。

 社会において自分の役割とは何か、この三年で何度考えただろう。何もできないわけじゃない。ただ、何かがきちんと噛み合っていない、そんな気がする。まるで踏み切り足を上手く調整できないみたいに、ずっと助走ばかりを繰り返している、そんな気が。

 地下鉄の強すぎる冷房の中で、スマートフォンの画面を見ていた。『参加・不参加』その簡素な文字。顔を上げると、黒い窓に自分の顔が見えた。午後十時、くたびれたブラウスをきた会社員の力のない表情。

 三駅乗って、乗り換える。人波の中で『参加』の文字を押したのは、何かを期待したわけではない。ただ、何かを判断する力さえ、もう残されていなかったためだ。

 

 約七年ぶりに訪れた母校は、少しも変わっていなかった。部室棟の四角いコンクリートの色は当時のままだったし、グラウンドに落ちる楠の影の形も変わらない。しかし夕暮れ時なのにこんなにも暑いと感じるのは、単純にこの七年で気温が上がったせいなのか、それとも自分が年を重ねたせいなのだろうか。空は透き通るほど青いのになんだか無様だと感じるのも、過ぎた年月のせいなのか、どうか。

 OBやOGは五十人ほど集まっていた。副部長の佳奈美の姿も見えた。彼女はベリーショートだった髪の毛を耳の下まで伸ばしていた。左手の薬指に指輪をしているのが目に入った。

「ああ、専門学校の時の同級生と去年結婚したんだ。去年子どもも生まれた」

 明るい口調は昔のままだった。「気の置かない奴と一緒に暮らすのは心地いいし、何より経済的に楽だよー。どっちかが病気になっても、なんとか人生やっていける」

 人生、という言葉は適切な重みをもって胸に届いた。手に職をつけて、パートナーを選び、未来を設計している人間が使う、きちんと背景を持った言葉の重さ。私はいつ人生という言葉を使っただろう? 『ハードルなんてない。人生だって同じでしょ?』……高校生の私が使った言葉は、二十五歳の自分の胸を抉る。

 青空の元、群衆を縫うように歩いた。

 自然と、無意識に、彼の影を探している。

 しかし予想どおり、岸の姿はなかった。彼にとって、高校生の部活動は同窓会に参加するほど濃い時間ではなかったということだろう。あっけない結末。分かりきった答え。要するに、彼の中の部活動という思い出を、私が汚してしまったということなのだ。あの日、私が彼に言葉をかけずに背中を向けたから。

 同窓会は一時間グラウンドで談笑して、その後ホテルで立食パーティーという内容だった。みんな時間通りにホテルへ向かったけど、私は少し遅れると言ってグラウンドに残った。ホテルに行く気にはなれなかった。体調不良ということで、許してもらおう。暮れなずむ日が、自分の長い影をグラウンドに落とした。

 どれほどそうしていただろう。

 日はすっかり落ちていた。頼りない足元で校門へ向かった。わざと視線を下げて、そして何かを期待して視線を持ち上げる。もちろん、誰が待っているわけでもない。高校生の頃の下校の道を、無意識に選ぶ。

 川沿いの土手には、薄明るい空に白い半月が煌々と光っていた。

 なんだかもう駄目だな、と思った。

 私は越えるべきハードルを、多分、越えてこなかった。

 普通に生きている人なら、誰もが越えるハードルだ。私はそれを見て見ぬふりをしてきたのだ。ハードルがないわけじゃない。ハードルを見ないように、歩んできただけなのだ。だからこうして、社会にうまく適応できない。空っぽだ。毎日会社に行って、ひどく疲れて帰って、何かが違う、そう思いながら何とか日々をやり過ごすことしかできない。

 もう、やり直しはきかない。

 どうすればいいのだろう。

 どこへゆけば、いいのだろう。

 ふいに甲高い金属音が背中から聞こえた。からから。風鈴とは違う。しかし、耳馴染みのある音だった。

 急いで後ろを振り向くと、暗がりに一人の男性が立っていた。小柄な身体。髪の毛はもじゃもじゃだ。

「あれ、古崎さん。ホテルに行かなかったんですか?」

 とぼけた顔の岸が立っていた。

 

「おれは高校卒業してから、地元の企業に就職したんですよ。給料も安いし、身体はきついし、けど、まあなんとかやってます」

 岸は唇を大きく持ち上げた。髪が伸びて鳥の巣のようになっても、高校生の頃と変わらない笑顔だ。

「古崎さんはどこに住んでるんですか?」

 東京、と短く答える。歩幅が小さくなり、俯き加減になる。しかし、岸は気にも留めずにすごい、と大げさに驚いた。

「キャリアウーマンじゃないですか! やっぱりすごいなあ」

「全然全然。むしろ私は……」

 言葉に詰まった。やばい。何かが溢れそうになる。堪えるためには喉を引き絞るしかなかった。熱い何かは喉からこみあげて目頭に上った。やばい。

 黙りこくった私を見て、岸は歩調を緩めた。からから。からから。乾いた音が夏の河川敷に響く。

 ねえ古崎さん、と岸は柔らかく口を開いた。

「好きでしたよ」

「へ?」

「古崎さんハードリング。おれ、好きでした」

 好きでしたよ、ともう一度言った。噛みしめるように。

「おれ、中学生のころ結構家庭の方が不安定で、でもそれを無理やり明るい風に見せてやりすごしてたんです。まあ、しんどかったです、正直」

 でもね、と続ける。

「高校に入って、グラウンドですいすい走る古崎さんを見て、『ああ、いいなあ』って思ったんです。『こんな風に、まるでハードルがないみたいに、すいすい行っちゃうのって、すごいなあ』って。で、陸上部に入ったんです」

 高校生の自分を思い出そうとする。けど、うまくいかなかった。きらきらと輝いていたとは言わないけど、今よりはもっと日々に重みがあったような気はした。あまりにも遠い日々で、そのおぼろげな輪郭さえ追うことができない。

「……でも、それは嘘だよ」

 ようやく、声が出た。声が出たことにほっとした。

「ハードルが無いみたいに走れるかもしれないけど、実際にはハードルはあるんだよ、やっぱり。私はそれを無視してきただけで」

 小さく岸は笑ったようだった。私が俯いているせいで、表情は見えない。

「そうかもしれないですけど。でも、おれは救われたって話です。だからこそ、あの日古崎さんによそよそしくされたのが妙に嫌で、一緒に帰るために待ち合わせをするのをやめにしたんです」

 ずきり、と胸が痛んだ。よそよそしくした。その通りだった。あの日、私は岸とどう向き合えばいいのか分からなかった。自分の想像もつかない家庭状況の高校生が隣にいることに、違和感を覚えていた。岸から出てくる言葉はまるでドラマのようで、それが自分を浮足立たせた。その態度が岸を傷つけることも分かっていた。しかし、どうすればいいのか本当に分からなかったのだ。

「ガキですよね、おれ。気を悪くしたんだったら、ほんとすみません」

「まさか、悪いのは私だよ。なんていうか、こう……」

 言葉がすんなり出てこない。頭の中の辞書をかき回していると、勝手に言葉が転がり出た。

「……こう、ハードルをうまく越えられなかった」

 岸が噴き出した。

 いかにもおかしそうに笑う。何言ってるんですか、と。

「インターハイまで行ったハードラーが言う言葉じゃないですよ」

「そういうんじゃなくて——」

「だったら、越えたらいいじゃないですか」

 風が止んだ。立ち止まったせいだ。

 静寂の中で、岸の声だけが形を持っている。

「ハードルはないと思い込んでたけど、実はハードルはあると気づいた。なら、越えたらいいじゃないですか。踏切足で地面を蹴って、足を振り上げて、七十五センチを越えたらいい。それだけでしょ?」

 いかにも簡単そうに言い終えて、振り向いてきた。くせ毛をかきながら。

「——」

 風がまた吹き始めた。

 夏の夜の風。優しく、穏やかで、蒸れた草の香りがした。

 ゆっくりと私は足を踏み出した。岸も歩み始める。車輪もからからと回り始める。自転車のフレーム、この高さも大体七十五センチくらいだろうか、と思う。今の私と岸の距離も、多分それくらいだろう。

「……ねえ」

 私は呼びかけた。

 肺が痛い。喉の奥も、手足も、足の裏も痛い。ここ数年、痛いことばかりだ。

 でも踏み切ろう、と思った。

 ハードルを越えようと試みよう。

 まずは、それからだ。

 七十五センチを超えよう。

「どっか、飲みに行こうか?」

 岸は一瞬目を丸くしたが、すぐにくしゃりと笑った。

「いいですね」

 ぽつりぽつりと街灯の光る土手の一本道に、二人の笑い声が重なった。重なった分だけ、その声には心地よい重みがあった。

 半月は青白い光を天空に広げていた。暗いはずの夜空は、いつか見た作り物のような青空より、なお青く深く瞳の底に残った。