「このポスターが昇降口の掲示板に貼ってあったんですか。ううん、まさかとは思いますけど、『二年前と同じようなことをやるぞ』っていう予告とか?」

「そう、そうなんだよ!」

 事態の深刻さがやっと伝わったと、尾崎先生はぱあっと顔を輝かせた。「学校側も、それを警戒してるんだ。二年前の事件のことには、学校側も敏感になってるからな」

「そんな『事件』だなんて。大げさだなあ」

 横から茶々を入れる佐竹を横目に、尾崎先生は眉を曇らせた。

「あれだけ騒動になったんだから、十分事件だよ。バカ野郎」

 二年前のことだ。

 うちの高校の文化祭で起こったのは『生徒がふざけて教員に怪我を負わせた』という、どこにでもありそうな出来事だった。

 毎度のことながら、生徒が文化祭の予定にないことをして、注意しようとした教師が弾みで怪我をしたのだ。先生の怪我も軽い打撲だったし、学校側も「いつものことか」と、大ごとにするつもりはなかったに違いない。

 しかし学校側が「いつものこと」と判断しても、そうはいかないこともある。

「学校側の計画にないことを行おう」という生徒の精神は変わっていなくても、時代は変わっていたのだ。もう生徒のほとんどがスマートフォンを持っていて、誰でもSNSに投稿できる時代になっているということを、学校は甘く見ていた。

 つまり、教員が怪我をした瞬間の動画が、SNSを通じて拡散されたのだ。

 動画では、教員に怪我を負わせた生徒の非は明らかだった。今日きよう、非が明らかな動画がSNSに掲載されれば、ほとんど確実に炎上する。臨場感のある動画だったこともあいまって、瞬く間にその動画は拡散した。

 ご多分に漏れず、SNSの次はワイドショーの格好の餌食となった。「この世代の若者は」の枕詞とともに、わけ知り顔をしたコメンテーターたちに、私たち世代全員が無教養で利己的だという論調でこき下ろされた。そうして続く言葉は当然、「学校の管理責任」だった。疲れ果てた顔で取材陣から逃げ回る校長の姿を遠巻きに眺めながら、非日常の高揚感を感じつつも気の毒に思ったのを覚えている。加害者の生徒も当然非難の的になって、結局停学になった。

 そんな出来事のあった二年前の文化祭のポスターが、目の前のこれなのだった。『自分らしくあれ』と謳うポスター。

「で、どうだ? 市ヶ谷」

 あれ、何の話だっけ?

「このポスターが昇降口の掲示板に貼ってあったことについて、何か知らないか? 市ヶ谷は顔も広いし、何か知ってるかもしれないと思ったんだけど」

 ああ、なるほど。そういう話をしたかったわけか。

 ふうむ。

 確かに、このポスターは二年前の文化祭の象徴だ。去年は学校側の締め付けが厳しくなって、生徒のゲリラ活動はことごとく潰されてしまった。だから今年こそ二年前のように、何かしてやろうと企んでいる生徒がいるのだろうか? このポスターは何者かが学校側への宣戦布告として、昇降口の掲示板にでかでかと貼った……みたいな?

 ありそうな話だった。

「うーん、何も聞いていないですね。……私でも」

 私でも、と言うとき背筋が自然と伸びた。ビーユアセルフ、なんて命令されなくても分かっている。私にとっての『自分らしさ』とは、つまりそういうことなのだ。

 誰からも信頼される、というのが自分の長所だと私は自覚している。

 学校生活を無風で通り過ぎるのは、そう簡単なことじゃない。スクールカースト、なんて重々しい言葉を使う大人もいるくらいだし。単に遊んで交友を増やせば楽に生活できる、っていうわけでもない。それはそれで、誰かに嫌われるリスクを負うことになる。もちろん、勉強もある程度できた方がいい。

 友達もいて、勉強もできて、教師からも信頼されて、要はそういうバランス感覚が大事ってこと。

 大学の指定校推薦の自己PRでも、そんなことを書いた。それで先生からもOKを貰ったし、誰からも信頼されるという能力は自他ともに認める自分らしさなのだ。

 そんな私の耳に何も入っていないのだから、犯人はかなり慎重な人間なのだろう。

「そうか」

 と、尾崎先生はスキニーパンツのポケットに窮屈そうに手を入れた。思い出したように部屋を見渡し、一応といった具合で尋ねる。

「佐竹はどうだ? 何か知らないか?」

「あたしは全然」

清瀬きよ せは?」

 その尾崎先生の言葉で、初めて私たちの他に生徒がいることに気が付いた。二年生の清瀬諒一りよう いち君は、隅のパイプ椅子に座っていたが、尾崎先生の声で顔を上げた。

「すみません。分からないです」

 文化祭副実行委員長の清瀬君の声色は、すぐに秋の風に流されてしまいそうなありふれたものだった。その表情も、スマホで「思春期の男子の顔」と検索すれば一番上に出てきそうだ。片眉だけ持ち上げ、それ以上の意味はない淡白で浅薄な表情のつくり方。

 尾崎先生が頭を抱えている。

「うーん、どうするかな。学校側として、何もしないってのもなあ」

 先生に「力を貸しましょうか?」と提案しかけて、私はすぐに判断を翻した。いまさら尾崎先生の私に対する評価を上げたところで、あまりメリットがない。

 そしてそれ以上に、若者の青春を奪う権利は誰にもない、と思ったのだ。

 ポスターを貼った生徒の目的は分からない。この文化祭で何をやらかすつもりなのかも知らない。けどそれは、絶対その子にとってとても大切なことなのだ。「文化祭でバカ騒ぎをするのは通過儀礼だ」とぼやいていた友人しかり、文化祭って本来、生徒たちがそんな風に騒いで、自己を確立するためにあると思う。

 せっかくそう思って私がだんまりを決め込んでいるのに、

「まずは文化祭実行委員として、何かしら対策を取った方がいいでしょうね」

 と、野暮なことを口走ったのは清瀬君だった。

「見回りとか、格好だけでもしといた方がいいんじゃないですかね」

 ……バカだなあ、この子。

 実行委員が見回りなんてして事前に企てが発覚してしまったら、文化祭全体が冷めたものになること請け合いだ。そんな面白味のない文化祭にするのが、私たちの役割なの? まさか。

 深く考えず、その場しのぎで思いついたことを発言する彼みたいな若者がいるせいで、大人たちが「この世代の若者は」と勝ち誇った笑みを浮かべるのだろう。

「見回りって、具体的にはどうするんだ?」

 尾崎先生は驚いたように尋ねた。清瀬君が発言するとは思っていなかった、という驚きだろう。清瀬君は淡々と応えるが、少し早口だった。

「文化祭期間中、実行委員が見回りや聞き込みをするのはどうでしょう。こんなポスターを貼りそうな人や部活に、牽制の意味を込めて重点的に聞き込むとか」

「ポスターを貼りそうな部活って、例えばどこだ?」

「去年は軽音学部がゲリラライブ未遂をしてましたよね。あとは、放送部とか、自然科学部とか」

「なるほどな。けど、その見回りは誰がする?」

「それは」

 清瀬君は目を泳がせた。私の隣に視線を置いて、「まあ、そうですね……」

「しますよ、あたし!」

 横から、佐竹がそんなことを言い出した。目に光が宿っている。さっきまでは気だるそうにしていたくせに、なぜか急にやる気になったらしい。

「なんか、面白そうじゃないですか。うん。あたし見回りします」

「佐竹かあ」

 尾崎先生は黒々とした眉を捻り上げる。「佐竹ねえ」

「何ですか、その態度。あたしじゃ不満ですか?」

「不満というか。お前、頭はいいんだけど、適当なところがあるからなあ。ちゃんとやってくれるのか?」

「やりますってば」

 それでも、尾崎先生は心配そうにオールバックを撫でている。

 尾崎先生の気持ちも分かる。佐竹は確かに勉強はできるけど、積極的に仕事を与えたいタイプの子じゃない。軽薄とまでは言わないけど、信頼に足る熱意が見えない。今だって、なぜ急にこんなにやる気になったのか、全然見当もつかないし。

「あの、市ヶ谷先輩と佐竹先輩で、一緒に見回りをしてもらったらどうでしょう?」

 と、清瀬君の透明な視線が私に向けられた。

「え、私?」

「市ヶ谷先輩、顔も広いじゃないですか。市ヶ谷先輩だったらみんなに安心感も与えるでしょうし、もしかしたら犯人の情報も得られるかもって」

「確かに、のぞみちゃんがいたら百人力だね」

 佐竹まで同調し始めた。屈託のない笑みとともに、肩を組まれる。尾崎先生も「それなら安心だ!」とぐいと詰め寄ってきた。

 誰からも信頼されるという長所は、仕事が増えるという短所との差し引きで成り立っている。

 ……やれやれ。結局巻き込まれるのか。

 承諾した。ため息交じりに。

「分かりました。佐竹と見回り、やりますよ」

 正直、全然乗り気ではなかった。見回って聞き込みをするなんていう探偵まがいなこと、煙たがられるのは間違いないし、恥ずかしい。けど、ここまで言われて断るのも難しそうだから、仕方ない。

 それに、一つ思いついたことがあったのだ。

 私が誰よりも先にこのポスターを貼った犯人を見つけて、逆にそいつを励ましてやろう。学校側が色々邪魔してくるだろうけど、気にせずぶちかましてやれって、そう言ってあげよう。

 探偵が犯人を励ますという愉快なアイデアに、内心ほくそ笑む。

「おお、さすが市ヶ谷。頼りになるな」

「期待しないでくださいよ。清瀬君も、これでいい?」

「あ、はい。お願いします」

 ありがとうございます、でしょ。

 もちろん、そんなことは言わない。市ヶ谷のぞみはそんなことで不機嫌にはならないのだ。逆に、先輩らしくにっこり微笑みを返してあげる。清瀬君も微笑むが、左頬の皺が浅く、意思がどこにも見えない。

 清瀬君が視界に入らないように、身体ごと尾崎先生に向ける。

「ちなみに、このポスターって、いつ見つけたんです?」

「いつだったかなあ」

 首をひねる尾崎先生の代わりに、清瀬君が応えた。

「尾崎先生がそのポスターを持ってきたのは、七時半でしたよ」

「そうだったか。職員室で報告をしてすぐに来たから、見つけたのは大体七時半くらいだな」

 昇降口からこの文化祭実行委員会室まで、たとえ職員室で報告をしたとしても三分もかからないだろう。発見時刻は、おおむね七時半と考えて良さそうだった。

「このポスター、いつから貼ってあったんですかね?」

「うーん。今日の朝七時くらいに俺が見回りをしたときには、なかったと思うけど」

「貼られてたのは、どんな感じで?」

「今貼ってあるポスターの上に、無造作に」

 なるほど。

 尾崎先生の記憶違いでないとすれば、だ。『七時から七時半の間に、誰かが昇降口の掲示板にポスターを貼った』ということになる。

 頭の中に、ぐるりと校舎の鳥瞰図を描く。校舎は一般的なロの字型の三階建てで、昇降口は東棟、つまり北を基準にするとロの字の右側の一階だ。南棟は各クラスの教室で、一階から順番に一年、二年、三年の教室がある。西棟と北棟はいろいろ教室が入っていて、北棟のさらに北に離れのように建っているのが多目的ホールなどが入る特別棟だ。

 容疑者は、各学年二百四十人×三の約七百二十名。

 多い、とは思わない。知り合いならそれなりにいる。

「じゃあ、そういうことで。頼んだぞ、市ヶ谷」

 尾崎先生は満足そうにぶ厚い唇を持ち上げた。

 部屋には、文化祭実行委員の生徒がぽつぽつと集まり始めていた。普段の委員会の時はみんな気だるそうにこの狭い部屋に入ってくるけど、今日はどの瞳も輝いている。高校生にとって、文化祭というものはどうしたって、そういうものなのだ。

 

「まだ終わらないで、文化祭」は全4回で連日公開予定