「やっほ、のぞみ」
顔見知りの子が、声をかけてきた。おはようと私も声を高くして尋ねた。「あれ、髪型変えた?」
「高校最後だしね。結構気合入れたんだー」
「とっても似合ってる!」
彼女は雑多に置かれている備品や棚をすり抜けて、私の隣に腰掛けた。私の言葉に、えへへと素直な笑顔を見せる。彼女は髪を指に巻き付けて、何気なく視線を走らせて言った。
「まだ、藤堂君来てないね」
「あう」
私らしくない、歯切れの悪い声が漏れ出た。ちょうどドアの方に目をやった時だったから、意表を突かれたのだ。そんな私の様子を見て、「なに、のぞみ可愛いー!」と友達がやわらかな手のひらを私の肩に乗せる。やめてよー、と私は笑いながら彼女の肉付きのいい腕をはたく。
と、ちょうどその時、藤堂夕介君が入ってきた。
不思議なもので、彼がこの部屋のドアのレールをまたぐその前から「あ、藤堂君だ」と分かった。私の好きな人だから、という理由も大いにあるんだろうけど、それだけじゃないようにも思う。藤堂君の学生服の右襟には『Ⅱ』という学年章が付いていて、私の後輩であることを示しているけど、とても後輩とは思えないオーラがある。言葉で表現すれば、「優しい」「人当たりがいい」「器が大きい」とかになるんだろうけど。
藤堂君はニコニコと柔かい笑みをふりまきながら席をさがしている。
「藤堂君、いいよねえ」
隣で友達もほうっと息を吐いた。「不思議だよねえ。めっちゃイケメンってわけでもないのにさあ。包容力があるっていうか、イキってないというか、優しそう」
「実際優しいよ、藤堂君は」
なぜか私が胸を張っている。
「初対面の私にも、すごく優しかったし」
「それで一目ぼれってこと?」
「まあ、そんなとこ」
ふふふ、と友人は楽しそうに声を上げながら、
「まあ、藤堂君それなりに人気あるから。倍率すごそうだけどね」
と言うと、手鏡を出して髪型をチェックし始めた。
……最後のセリフいるかなあ。ため息を殺して、彼女が視界に入らない視線の置き所を探す。
中央の長机には、受付で配るパンフレットや冊子が積み上がっている。ふせんのついた規程集や、夏には大活躍だった小型の扇風機、らくがき帳になり果てた日めくりカレンダーが諸島みたいに散らばっていた。
生徒が続々入ってくる。冬服の黒っぽい制服の子と白いシャツだけの子と、ちょうど半分くらいだった。教頭先生も真っ黒なスーツだし、白衣の先生もいるし、なんだかオセロの盤の上みたい。
壁にかかった時計が、七時五十分を指した。
「定刻になったので、文化祭実行委員会を始めます」
司会の清瀬君の声に、騒々しさが引いてゆく。「まず、実行委員長から挨拶を」
カタン、と藤堂君が椅子を引いて立ち上がった。そう、藤堂君は文化祭実行委員長でもあるのだ。実行委員長は、文化祭実行委員の中から他薦で決まる。もちろん、圧倒的な一位だった。
「みなさん、おはようございます!」
張りがあって、しかも深い。藤堂君はそんな声をしている。
「ええっと、色々ありましたけど、とうとう文化祭当日です。今まで、準備やら何やらで頑張ってくださって、ありがとうございました。特に三年生の先輩方」私たちの方をまっすぐ見つめて、「受験もあるのに、すみませんでした。おかげさまで何とか形になりそうです」
「まだお礼は早いんじゃないのか」
三年生の男子生徒が長い前髪を捩じりながら嫌みっぽく言う。藤堂君はそれにも柔らかい苦笑を丁寧に返してあげている。
「そうですね。あともうひと踏ん張り頑張って、思い出に残るものにしましょう。じゃ、諒一、報告事項をよろしく」
藤堂君から話を戻された清瀬君が、淡々と引き継いだ。「はい。許可印のない部の広告が西側出入口の前の掲示板に大量に貼られていたため、回収しました。内容からして、おそらく家庭科部だと思われますので、後で注意しておきます。それから、体育館の舞台道具の一時保管場所に、ソフトボール場が追加になってます。あとは──」
熱がこもっていないせいか、全然頭に入ってこなかった。清瀬君を副委員長に指名したのは他でもない藤堂君だけど、どうしてそれほど清瀬君を信頼しているのかよく分からない。清瀬君も藤堂君のことを「ユウ」なんて親しげに呼んじゃってるし。太陽のごとく明るい藤堂君と、平凡な清瀬君。水と油みたいに見える。幼馴染らしいけど、男子はよく分からない。
清瀬君の話を右から左に受け流し、目はずっと藤堂君を追っていた。大きな二重の目と力の宿る瞳や長いまつ毛がベビーフェイスに見せるけど、学生服に包まれた肩は短距離選手らしくがっちりしている。
「……で、二日目は終了です。ここまでで、質問ありますか」
藤堂君を眺めている間に、清瀬君の説明が終わったようだった。
男子生徒が手を挙げた。
「あの、一ついいですか。明日の夕方からある後夜祭のフォークダンス、あれは文化祭実行委員の担当じゃないんですよね?」
「そうですね。後夜祭は生徒会が直接運営するので、僕らの仕事はあくまで夕方の演目終了までです。ですよね、先生」
「そうだな。もしお前が女子と手をつないで緊張で倒れたら、その全責任は生徒会にある。謝罪会見でもしてもらおう」
どっと生徒たちが湧いた。発言した男子生徒は顔を赤くしている。フォークダンスに参加できるかどうか、心配だったのだろう。意中の相手がいるのかな。その甘酸っぱさに、幸あれ。
「あとは、ええっと」
清瀬君は顎を一センチほど傾けて、私を見た。私はその熱量のない視線を、そのまま尾崎先生へ受け流す。清瀬君はその流れのままに言い足した。「ええっと、尾崎先生、お願いします」
「ああ」
尾崎先生は大事そうに抱えていた分厚いチューブファイルを机に置いて立ち上がった。チューブファイルは右開きで、表紙に『文化祭関連資料』とシールが貼られている。
例のポスターを力強く広げた。
「今朝、昇降口でこのポスターが貼ってあるのを見つけた。何か分かるか? 二年前の文化祭のポスターだ。知ってる奴も多いと思うが、二年前の文化祭は生徒がいきすぎた行為をしてしまった経緯がある」
先ほどとは打って変わった、威厳がある口調だった。きっと隣に教頭先生がいるからだろう。「にも拘わらず、だ。何かを誇示するようにこのポスターが貼ってあった。この事態を学校側は──」
「とても、とても重く、受け止めています」
尾崎先生の言葉を引き継いだのは、教頭先生だった。
肌色の見える頭をゆるゆると振って、口を開く。やけに読点を入れる、粘っこいしゃべり方だった。
「みなさん、そもそも文化祭は何のためにあると思いますか?」
誰も答えない。回答を待つ沈黙は重かった。
私も「やりたいことをして、本当の自分を見出すための装置」だなんて答えることはしない。それが間違った回答だとは到底思えないけど、教頭先生はきっと丸を付けてくれないだろう。
「いいですか? 文化祭は生徒が羽目を外すためにあるのではありません。来賓や保護者の方に、日ごろの学習成果を見ていただくためにあるんです。分かりますか?」
ヘビみたいだ、と思う。やけに大きな目と、ぬらりと巻きついてくるような口調。
「そして、文化祭実行委員会は、その目的を達成するための組織です。分かりますね?」
室内の高揚感が、見事にしおれていく。膨らんだ風船が萎んでいくのが、目に見えるようだった。その様子を見て満足げに頷いて見せ、教頭先生は一歩下がった。なんで満足そうなのか、本気で理解できない。
あとを受け継いだ尾崎先生は、何とも歯切れの悪い口調だった。
「あー、教頭先生の話にもあったように、文化祭実行委員としても、何か対策を講じようと思う。具体的には、文化祭中の見回りだ」
「情報さえくれたら、ぼくが犯人を見つけてあげますよ」
澱み切った空気の中で一人嬉し気なのは、先ほど藤堂君の言葉に応じた文芸部の男子生徒だった。顎を上げて前髪のすき間から細い目をのぞかせる。
「考えるお手伝いなら、できると思いますけど?」
ゆるゆると尾崎先生は首を振った。
「お前がそういうのが好きなのは知ってるけどな。犯人を見つけるより先に、まずは何も起こさないことが大事なんだ。その牽制のために、見回りや聞き込みをしてほしいんだ。見回り役として、もう市ヶ谷と佐竹にお願いしてある」
彼は肩をすくめただけで、答えなかった。いつもならもっと食いつく彼だけど、さすがに高校最後の文化祭を見回りで終えるのは本意ではないらしい。あるいは、知らない人に話を聞きに行くという行為が苦手だからかも。
誰からも言葉が続かないのを確認して、清瀬君が気の抜けた口調で締めくくった。
「じゃあ、まあ、そんな感じでお願いします」
椅子の音が慌てた調子で響いた。学習成果だの見回りだの、居心地の悪い空間から早く逃げ出したいのだ。教頭先生の様子だと、学校側は去年に続いて今年も本気で生徒を大人しくさせるつもりのようだ。
黒板の上のスピーカーからチャイムが鳴った。いつもとは違う時間のチャイムだ。十五分後に体育館で文化祭の開会式が始まる。残っていた生徒がばたばたと駆け足で出て行く。もうすでにどこかの教室から歓声が聞こえていた。残っているのは佐竹と清瀬君くらいで、佐竹は尾崎先生と何やら話し込んでいた。
大人って本当に、何も分かっていないなあ。
学校側が本気で何も起こさせないようにするのなら、いつもの時間とは違うタイミングのチャイムなんて絶対避けるべきだ。これだけで、高校生は非日常を感じることができる。高校生がどれほど日常から抜け出したいと思っているか、全然理解していない。こんな調子じゃ、また今年も、誰かがサプライズを起こすだろう。きっと先生たちが予想していないようなことを。
自分らしくあれ、か。チャイムの余韻は、ほどよい責任感を伴っていた。
さて。
落ち着いたら、ポスターを貼った犯人捜しといきましょうか。まずは清瀬君も言及してた軽音楽部あたりかな。
私はゆっくり立ち上がった。
「まだ終わらないで、文化祭」は全4回で連日公開予定