EX大衆で大好評を博した〈小説×アイドル〉企画。人気アイドルグループ「僕が見たかった青空」の早﨑すずきが、藤つかさによる甘酸っぱい男女の関係を描いた青春小説をもとにグラビア撮影に挑む。誌面では掲載しきれなかった物語のすべてを一挙公開!(全3回の第2回)

 

【あらすじ】
陸上部に所属する高2女子の古崎は、同じハードル競技に取り組む後輩男子の岸に、日々アドバイスを求められる。ハードル初心者で、小生意気で、無邪気な岸との距離感を掴みかねる古崎だが、ある事件をきっかけに二人の関係性が変わってしまう。

 

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 どこまでも続くようなしつこい夏が終わり、おずおずと秋が顔を覗かせた。秋の記録会では、私は自己ベストを更新した。タイムだけ見ると、インターハイは行けるだろう。そして驚くべきことに、岸もまた大幅に自己ベストを更新し続けていた。さすがにインターハイは無理だけど、冬の過ごし方によっては地区大会でも上位を狙える。

 いつもの帰り道、それを伝えると岸は大げさに喜んだ。紺色のブレザーに身を包んだ彼は、私より少しだけ高いところにあるくせ毛をひょこひょこ揺らした。西日に照らされた彼の横画をを見ると、自分の胸に温かいものが広がるのが分かる。

 誰かの記録が伸びて嬉しいと思う。

 そんなことはもしかすると……いや多分、初めてだ。

「これも古崎さんのおかげですね」

 素直な笑顔が眩しくて思わず目を逸らす。

「うーん、まあね。確かにそうかも。私、教えるの上手だし」

「いや、そこは否定してくださいよ! 具体的な指導受けた記憶ないですって」

 

 

 茜色の絨毯が敷かれた細い一本道に、二つの笑い声がこだました。その後をからからといつものスポークの音が追いかけてくる。金木犀の香りと、久しぶりに着るブレザーの重みと、隣を歩む岸の落ち着いた安心する歩調。

「お礼に、今度おごりますよ。文化祭ででも」

 ふいに、隣からそう声がした。さりげない口調だった。

 あまりにもさりげなすぎて、奥にある彼の緊張が透けて見えた。

「あー……」

 五秒ほど考えて、答えた。「うん。いいね、それ」

 分かりやすく岸の笑顔がぱっと輝く。茜色に頬が染まっているのは、夕日のせいなのかどうなのか、私には分からない。

「あれ、古崎さん。ちょっと顔赤くないですか?」

「ばか。夕日のせいでしょ」

 からからと自転車が笑う。

 自転車を間に置いたこいつとの距離は、一体何センチくらいだろう、と思う。

 

 天高し。

 文化祭当日、秋の空は澄み切っていた。待ち合わせ場所は渡り廊下だった。頭に大きなリボンを乗せた生徒が笑顔をふりまいて通り過ぎる。スカートをいつもより数センチ短くした級友が小走りで駆けていく。何となく手持無沙汰になり、前髪を撫でたり胸元のリボンを直したりする。

 待ち合わせの時間通りに岸はやってきた。

「すみません! クラス展示の当番が長引いちゃって……」

 腕まくりをした白いシャツの袖で汗を拭う。眉尻を下げる表情は子犬のようだ。

「待ちました?」

「全然。さ、行こ」

 ……なんでこんなに喉が渇いているんだろう?

 クラス展示を軽く見て回ってから、自動販売機でジュースを買ってもらった。中庭のベンチに並んで腰かける。乾杯をして、コーラの缶を傾ける。炭酸が喉の奥ではじけて消えて、他愛もない言葉のやりとりもまた弾けて青空に消えた。

「結局、ベンチでだらだらしてただけになっちゃいましたね」

 文化祭終了のチャイムが鳴って、岸はくしゃりと笑って言った。

「まあ、そうだね」

 と私も微笑む。木製のベンチの手すりには、かつて誰かが彫ったイニシャルが残っている。薄れて、今にも消えそうだ。消えないでほしい、と指先でなぞる自分に気がつく。

「けどいつも走り回ってるし、たまにはこういうのもいいんじゃない?」

「ですね」

 空は青いけど、沈みゆく太陽の反対側は群青を帯びている。走り回ってたら、気が付けばもう二年生の秋だ。同じことを岸も考えていたようだった。視線が遠くなる。

「もうすぐ冬が来て、それから総体ですね」

「総体が終わったら……」

 言いかけて、言葉が出なくなった。もう二年の秋。きっとすぐに三年生の春はやってきて、総体が終われば、引退だ。

「……ま、私はインターハイに行くから、夏まで陸上は続けることになるだろうけど。大学も多分、陸上で声がかかると思うし、練習は続けないとね」

 駆け足の言葉が勝手にあふれる。コーラの缶を傾けたけど、もう中身は無い。

 岸は私の言葉にうっすらと笑った。いつも見せる無邪気なものとはどこか違っていた。薄い唇の右端がわずかに持ち上がって、目がすっと細くなった。静かで、奥行きのある表情だ。

「このままずっと、一緒に走っていけたらいいんですけどね」

 ぽつり、と岸が漏らした。

 私は空っぽと分かっていながら、缶に唇を寄せる。

 それ以外、何ができるだろう?

「……だから、卒業まで練習には出るって」

 そう答える以外、何を言えるだろう?

 岸はしばらくじっと私を見つめた。瞳に何かの感情が浮かんで、すぐに沈んだ。あまりにも素早くて、その感情が何か私には見えなかった。

 気が付くと岸はもういつもの表情だった。元気百パーセントの、快活な無邪気な笑顔だ。

「もしかしたら俺はこの冬にめちゃくちゃ記録が伸びるかも。それで、来年の春には逆に古崎さんにハードリング教えてるかもしれませんよ?」

「あっそ。ならまた帰り道にコツでも聞くことにするよ」

 と、私は笑って立ち上がった。

 

 

 もちろん、そんな日は来なかった。

 岸の記録が伸びなかったわけではない。

 冬のある日を境に、私は岸と話をしなくなったのだ。

 

 

 その噂を聞いたのは、二月の土曜日だった。

 部室に入ると、喧しかった声がぴたりとやんだ。私はチームメイトと仲良しこよしというわけではない。けど、こんな風にそわそわするような視線を送られる関係ではなかったはずだ。

「古崎、ちょっといい?」

 副部長の佳奈美に連れられ、部室の外に出る。耳を切り裂くような風で、マフラーに顎をうずめた。手洗い場のふちに腰かける。沙奈枝のベリーショットの髪が困ったように揺れていた。

「私、何かしたっけ?」

 戸惑っている副部長が可哀そうになって、淡々と水を向ける。まあ、もともと部のみんなに愛嬌をふりまいていたわけではないし、何があっても驚かない。高校生にもなって、いじめってことはないと思うけど。まあ、どうせ春になれば部のみんなともお別れだし。

「あの、別にあんたがどうこうとかじゃなくて」

「ふうん?」

「岸君のこと」

 思いがけない名前が出てきて、一瞬思考が止まった。急に喉の渇きを覚える。

「……あいつが、なんかあったの?」

「正確には、岸君も何もない」

「話の行先が見えない」

「岸君のお父さんが逮捕されたんだって」

 私が多少強く促したせいか、結局佳奈美は結論から言った。逮捕、という身近なくせに身近でない響きよりも、蛇口から落ちる水滴の音が気にかかった。ぽちゃん、ぽちゃん。冬だから、あえてちゃんと閉めていないんだろうか。

「なんか、会社で横領? 背任? よくわかんないけど。そういうので昨日逮捕されたんだって。もともと結構荒っぽい人だったみたいだけど」

「ふうん」

 私があまり大きな反応を見せなかったからか、佳奈美はほっとしたようだった。いつもの明朗な調子に戻る。

「ごめん、変に気を遣っちゃって。だよね、あんたは気にしないよね!」

 にっこりと笑った時にできる彼女の頬のしわは、昔より幾分か深い。

「それがあんたのいいところだよね。しっかり自分を持ってるというか」

 ぽちゃん、ぽちゃん。

「なんていうのかな、小学生の頃から、『他人は知らないけど、絶対自分はうまくいく』ってなんとなく思ってるでしょ? そういうあんた、大好きだよ」

 ——ぽちゃん。

 私は黙って水道の蛇口を締めた。それで滴りは止まった。蛇口は冷たい。掌が痛くなるほど。

 今日の練習はなんだっけ、と部室に向かいながら無理やり話題を変える。

 

 いつものように校門で待ち合わせて、岸と帰路を歩む。夏は心地よかった風が、今はたまらなく冷たい。夜の土手は街灯がぽつりと等間隔で灯るだけだ。岸の自転車は変わらずからからと高い笑い声をあげている。

「——で、そのときあいつが……。それからそのあと——」

 岸もまた、いつもと調子は変わらなかった。少し目の上にあるくせ毛を見上げる。見上げる時の目線の角度が夏とは違うと唐突に気が付いた。この数か月で、彼が少し背が伸びたのだろう。

 数か月か、と思った。

 長いのか短いのか、分からない。陸上の記録みたいにきっちり決めてほしい。シーズンベストとか、歴代十傑とか、フライングは号砲から何秒以内だとか、ハードルは何センチだとか、そんな風に。

 そういう基準がないと、何だかいろいろよく分からなくなる。

「……古崎さん、どうしました?」

 考えに耽っていて、反応が遅れてしまった。ぼんやりして号砲を聞き逃したみたいになってしまう。「あ、ん、別に」

 岸はじっと私を見つめた。黒い瞳だった。

 やがて、岸はため息をついた。

「親父の話ですか?」

 また、反応が遅れる。

 岸の白い息、夜の闇、二つがゆっくりと紛れて溶けていく。その隙間を、岸の声がするすると驚くほど滑らかに通り抜ける。

「まあ、今日噂になってましたもんね。尾ひれがついてましたよ。実は親父はやくざだとか、入れ墨があるだとか。まさか。ただのサラリーマンですよ。で、横領で逮捕された」

 ふうん、と佳奈美にできた反応が、どうして言えないのだろう。

「みんなちょっと距離置いちゃって。親父は確かにどうしようもない奴ですけど、仕方ないじゃないですか」

 そうですよね? と首を傾げる。

「母親がいなくたって、借金があったって、親父が捕まったって、それでも人生は続くわけで。人生にハードルなんかないって、そう思わないとやってられないじゃないですか」

 自転車の笑い声が止まった。

 頭上の街灯が一度瞬いた。目の前の彼の表情が刹那消えて、また現れた。闇から現れた岸の目は、じっと私を窺っていた。懇願のように見えた。一体、私に何を願っているというのだろう。

「……」

 その私といえば、喉が凍ったように言葉が出なかった。岸と彼の親は関係ない。その通りだ。親の噂だって、尾ひれがついたものだ。その通りだ。人生にハードルなんかない。

 ……その通りだろうか?

 今、私の目の前にはしっかりとハードルが存在していた。私と岸の間に潜む、暗い夜の闇の隙間に。私はそれを無いものとして生きてきた。

 でも今、確かにある。

 七十五センチを、冷たい肌に確かに感じる。

「……」

 言葉が出ない。

 ハードルを越える言葉が、少しも思いつかなかった。

 私は無理やり話を変えた。帰った後にこの配信を見ようとか、らしくない話題だった。岸は口の端を持ち上げ、私の話題に従った。いつものように何気ない会話を続け、いつもの場所で別れた。

 いつものように部活終わりに校門の前で岸が私を待っていることは、卒業まで二度となかった。

 

(つづく)