最初から読む

 

 二週間ほど前のことだ。

 幼稚園バスに乗り込んだ翔を見送り、その場に残った顔見知りのお母さんたちと少し喋った後でマンションに戻ろうとしたところ、マンション近くの道で、「あれ、量子さん?」と呼ばれた。

 見れば、想像以上に背の高い男がいた。物騒な輩ではないかと身体が硬直したが、しばらくして、ようやく、「まさか、凍朗君?」と言えた。

「ああ、やっぱり、量子さん。前にも一度見かけて、まさかなと思ったんですけど」

「どうして、ここに」

 十数年ぶりのはずだが、彼の見た目はまったく変わっておらず、相変わらずの、色気のある二重まぶたと鼻筋の通った顔立ちで、身体のほうはより大きくなったように見えた。高い壁のようだ。

「僕の実家、仙台なんですよ。少し前から仕事の関係でいったん東京のマンションは引き払って、こっちにいて」

「本当に久しぶり。結局、大学も途中で辞めたって聞いたけれど」私はその時だけ、日々の苦労やつらさを忘れ、大学時代に戻った気分になった。

 桂凍朗が大学を途中で退学したのは事実らしいが、詳細は誰も把握できていないようで、「親の関係する企業の役員となったようだ」「親の会社で働くようになったみたい」といったものから、「怪しい人脈と繋がって、学校を辞める羽目になった」「胡散臭い研究施設に出入りするようになった」といったものまでさまざまだった。

「まあ、いろいろあったんです」桂凍朗は笑った。

「私は、夫が転勤で仙台の会社に勤めることになったので、そこからずっとこっちに住んでいるの。ほら、そこのマンション」私は斜め前方を指差した。

「どれですか」

「ほら、輪王寺りん のう じの塔の左側に少し見えるんだけれど」

 二十階建ての白い建物を指差す。

「輪王寺、好きですよ。あの長い参道、すごく静かで、歩いているだけで気持ちが良いです。あそこだけ現実社会から離れた場所という感じで。紅葉の季節もまたいいですね。庭園もよく行きます」

「息子を連れて、一回だけ行ったよ」池があり、そこをぐるっと回れる美しい庭園に翔も喜んでいた。足を踏み外すのではないかと常に注意を払い、気は休まらなかったものの、座って一息つきながら見渡す緑と白で作られたような光景には、気持ちが安らいだ。また来たいな、また来たいね、と翔と言い合った。が、日々の生活にもみくちゃになり、そのこと自体をすっかり忘れてしまっていた。

「マンションが新築で売り出された時に買ったんだけれど」私は近所に、美しい参道を持つ寺があったことを嬉しく思ったが、夫は関心もなさそうで、一度も訪れたことがないはずだ。「あ、今は苗字、佐藤になっているの」

 このように砕けた調子で他者と話すのはいつぶりなのだろうか。隠れた自分が顔を出したかのような新鮮さと驚きがあった。

「宮田から佐藤。日本で一番多い苗字ですね」

「寄らば大樹の蔭だから」と私は答えながら、少し陰鬱な気持ちに襲われた。どうしてなのかと自らの記憶を辿るようにすれば、結婚前のことを思い出したからだと分かる。

 交際して少し経った頃、夫は、「結婚して苗字を統一するなら、宮田がいいかもなあ」と言っていた。私は特にこだわりがなかったから、どちらでもいいと思っていたのだが、いざ結婚する際には、彼は当然のように、姓は「佐藤」にすると決めており、「苗字変更の手続きは自分でやれよ」とむすっと指示を出してきたのだ。

「息子は幼稚園で、今ちょうど幼稚園のバスを見送ったところ」

「子供はいいですね」桂凍朗はうなずくが、やはり感情がほとんど見えない顔つきだ。

「子供は宝。昔から凍朗君、そう言ってたけどね。実際、本当にそうだよ」

 私が言うと、彼はきょとんとした後、珍しく表情を緩め、うなずいた。「僕は依然として一人です。こっちにいる親が少し健康状態に不安が出てきたから、それもあって戻ってきたんですけど」

 学生の頃から、彼の実家が資産家で、裕福だという話はよく出た。彼自身の生活も、「好きな時に好きなものを好きなだけ購入する」というものに見えたのも事実だ。

「仙台が実家だったとは初耳」

「僕、駅に出るのにいつもこの道を通るから、また会うかもしれませんね」

 実際、それ以降も同じような時間帯に、桂凍朗と遭遇し、そのたびに簡単な挨拶を交わしたが、それ以上の深い話題を交わすことはなかった。相手が桂凍朗だったからだろう。もし別の知人だったら、自分は連絡先を交換していたかもしれない。子育ての大変さや夫に対する悩みを聞いてもらいたくなった可能性も否定できない。

 が、桂凍朗には相談しようという気が起きなかった。頼りにならないからではない。むしろその反対だ。

 桂凍朗は頼りになる。なりすぎる。学生時代の彼の言動からすると、彼の本質が変わっていなければだが、私が「虐げられている」ことを知った途端、我が事のように関わってくる可能性があった。「宝」である子供にとって良くないことが起きていると判断すれば、何とかしようとするかもしれない。だから私は、意識するよりも前に、桂凍朗とは表層的な関係でいるべきだと決めていたのだろう。

 一度だけ、夫と翔と三人で歩いている際に桂凍朗とばったり会った。「大学時代のサークルの後輩」と説明したところ、その時の夫は、「ふうん」と興味もなさそうに答えただけだった。

 実際には、私たちの関係に不審なものを感じていたということなのだろうか。

 

「蔭でこそこそとやりやがって!」

 怒鳴りながら、私に暴力を振るってくる。

 痛い。そして、うまく理解できない。どうしてここまで怒るのか。

 夫はかなりの確率で、家庭外の女性と親しくしている。私はそう思っていた。外泊が不自然なくらいに多く、家の中では常に不機嫌で、私や翔に愛着があるとは到底思えない。

 なのにどうしてここまで激怒しているのか。

 床に手を突き、身体を起こす。そこをまた蹴られた。煽るような声を発してくる。蹴られて転がり、起きようとしたところをまた蹴られる。

 ああそうか。

 夫は、私のことを対等な人としても捉えていなかったから、その私に裏切られていたことが許せなかったのだろう。愛情の問題ではなく、プライドの問題なのだ。

「ぶっ殺してやる。全部、壊してやる」

 正気には思えなかった。

 頭がかっと熱くなった。息子も巻き添えにするつもりなのか? ぞっとする。手元に金槌があった。棚の釘を打ち直すために納戸から取り出したところだったのだ。夫が顔を真っ赤にして平静を失い、喰いつかんばかりの表情で飛び掛かってくると、私はその金槌をつかんだ。

 

 

 そして今、携帯端末を握っている。警察に連絡しなくてはいけない。三桁の数字を入れるが、発信ボタンを押すことができない。そうするしかないにもかかわらず、指が動かない。

 警察に捕まることが恐ろしいのではない。自分の人生がここで折れてしまうことが怖いわけでもない。

 ブレーキをかけてくるのは、翔に対する心配だけだ。

 自分の母親が、自分の父親を殺害した。その事実が、翔に影響を与えないわけがない。

 翔はどうなってしまうのか。

 頭を抱え、しゃがみ込んでは立ち上がり、立ち上がってはしゃがんだ。

 その時、インターフォンが鳴った。

 もしかするとだいぶ前から鳴っていたのかもしれない。耳に入っていなかった。入っていたとしても、頭の中で警報が響いているのだと感じていた。

 宅配業者だろうと想像し、放っておけばそのうち音も止むと思っていたが、鳴りやむ気配がまったくなかった。止まったところでまた聞こえる。罪を永遠にとがめてくる音のようだ。忘れるな、忘れるな、おまえは殺人犯だぞ、と。故障なのかと心配になりリビングに戻り、壁に埋め込まれたモニターを見る。

 桂凍朗が映っていた。

 マンションはオートロックとなっており、家主は二回、解錠操作をする必要がある。マンションのエントランスの入り口ドアを開放するためと、各戸の玄関を開けるためだ。どちらの場合も来訪者はモニターに姿が映るが、桂凍朗のいるのは玄関のすぐ外だと分かる。

 エントランスのドアを解錠した記憶がない。どうやって開けたのか。

 こちらの狼狽をよそに、桂凍朗は無表情だった。カメラと向き合い、その先に私がいることを確信しているかのようだ。震える指が前に出た。私の指だ。自分で許可を出した覚えもなかったにもかかわらず、私の指はタッチパネルを押していた。

「凍朗君」か細く、かすれた弱々しい声しか出ない。「どうしたの?」

「量子さん、旦那さんはどうしていますか。怒られているんじゃないですか。問題が起きていますよね? 中に入れてください」

 

この続きは、書籍にてお楽しみください