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 結婚した直後の私を待っていたのは、妊娠と彼の転勤だった。転勤に関しては彼が単身赴任をする、という選択肢もあった。が、彼は私に、「仕事を辞めてくれないかな。せっかく結婚したのに一人で暮らすのは寂しくて耐えられない。家族はみんな一緒にいたいんだ」と言った。

 東京での仕事に未練はあったが、両親を亡くしている彼からすれば大事なことなのだろうとも思え、私は会社を退職した。

 転勤先の宮城県仙台市は、生まれ育った実家の山形からそれほど遠くなく、同じ東北地方ということで親近感はあった。母との物理的な距離が近くなるのは良いことに思え、転居を前向きに捉えた。

 ただ初めての街、仙台市で生まれたばかりの息子を育てるのは、予想よりも大変だった。

 何より、そのころから夫が別人のように冷たくなった。夫は私のことを名前ではなく、「おまえ」と呼ぶようになり、「仕事をしていないのだから子育てはおまえの担当だ」と言い、翔が泣くと溜め息を吐き、マンションから出て行くことが多くなった。そしてふらっと帰ってくると、また不機嫌な顔をし、溜め息を洩らすのだ。

「それくらいも我慢できないのか」「母親失格」とののしられることは日常茶飯事となり、私ははじめのうちは反論したり弱音を吐いたりしたが、だんだんと夫からの批判を受け入れるようになっていた。

 今の時代、家事や子育てをここまで一方的に妻に押し付ける夫がいていいのだろうか。すがるようにインターネット上の相談コミュニティを覗いた。「古い価値観の持ち主たちは、もちろん自分たちの価値観を古いと思ってはおらず、『正しい考え方ゆえに虐げられたのだ』と被害者意識を抱きながら、潜伏し、根強く残っています」という意見があった。まるで秘密結社だ、とさすがに受け入れがたかったが、「面倒なことは他人に押し付けたい、そのうえで自分を正当化したい、といった考え方は、人間の本能に根付いている部分があるから、理性により抑えつけることはできても、根本的には変わらないのだ」という話には納得した。

 面倒なことはほかの人に! しかも自分は悪くない。そういう立場になれれば、確かに本人は幸せかもしれない。

「何より恐ろしいのは、夫が妻を心理的に追いつめる罪は、立証しにくい、ということです!」

 そう述べている人もいたが、まさにその通りだった。

 夫から受けるつらさを公表したところで、世間がすぐに味方となるとは思えなかった。

 睡眠不足を含むさまざまな疲弊により、頭が働かなくなっていたのだろう。彼がこれほど怒るのは、私がいけないのだと責任を感じるようになった。

 友人知人と連絡を取る気にもなれず、相談相手はやはり母だけで、彼女が山形から時折、手助けに来てくれた時だけが唯一、救われる思いだったが、「うまくやってるの?」「困ったことはない?」と訊かれると、「うん、大丈夫だよ」と答えていた。

 母にだったら、自分の状況をすべて打ち明け、味方になってもらえば良かったのだが、その時は、「母に心配をかけたくない」という思いに縛られていた。

 タイミング悪く、まさに私の出産直後、母に肺がんが見つかった。早期発見だったため、手術後もさほど心配はいらないと医師には言われていたが、私が心配をかけることが身体の悪性腫瘍にとっていいわけがない。

 高速バスで仙台に来て孫の翔をあやし、目を細めて、「人生でやっと平和で幸せな時を迎えられている気分」と幸福そうにしている母を見ていると、巻き込んではいけないと思わずにはいられなかった。

「量子は困った人を見過ごせないタイプだけれど、ほかの人よりも自分を大事にしないと駄目だよ」と母に言われたことがあった。

「見過ごせないわけでもないけれど」

「学生の時、児童養護施設に手伝いに行ってたり」

「あれはサークルで行っただけだよ」

「でもほら、ここのマンションの子の面倒も見てあげたんでしょ」

「何だっけ」

「天狗だか河童が好きな女の子の話、してくれたじゃないの」

 同じ階に住んでいた、今田家の娘のことだ。高齢女性と小学生の孫娘が二人で暮らしていた。ある時、その孫娘、つばめ青褪あお ざめた顔でマンションの廊下にいて声をかけると、「お婆ちゃんの様子が変だ」と言う。

 倒れでもしているのかと部屋を覗けば、燕の祖母が出てきて、「お父さんがいないの。私、留守番していたのに」と訴えてきた。年齢からして、彼女の父親が健在とは到底思えない。見た目はこれまでと変わらず、姿勢も良く、健康そうなだけに認知症の線に思い至るまで時間がかかった。

「その燕ちゃん、お婆ちゃんと二人暮らしだったんだっけ?」母は疑問を口にした。「その子の親はいなかったの?」

「母親は東京にいたんだよね。仕事で一年のうち大半を東京に行っていて、その間、お婆さんと燕ちゃんは二人で暮らしているんだって」

「だからといって、量子がかわりに二人の世話をするなんて」

「世話というほど大したことはしていないよ」と言ったものの、それなりに大変ではあった。燕の母親と連絡を取りながら、地域の包括支援センターに相談に乗ってもらい、介護サービスの導入を手伝い、燕の送迎もやった。

「送迎?」

「燕ちゃん、足速いんだよ。陸上クラブで活躍していて。百メートル走もハードルも全国レベルで、大会が近くなると夜も校庭で練習しているの。暗くなると怖いでしょ、だから迎えに行ってあげて」

「そんなことまでする必要ないよ。あなただって大変なんだから」

 その通りだ。家事と翔の相手をしながら、よその家庭をサポートするのは容易ではなかった。ただ、気分転換になっていたのも事実だ。育児疲れ、夫の唐突な不機嫌や嫌味に朦朧もう ろうとしがちな日々に、「誰かの役に立っている実感」は薬の役割を果たしていたのかもしれない。十歳ながら大人びている燕が、しっかりと感謝してくれたこともありがたかった。「この恩は返します」と言ってくれるたび、「楽しみにしているからね」と返した。

「燕ちゃん、本当はやり投げをしたかったみたい」

「すればいいのに」

「小学生の種目にないんだよね。まあ、危険そうだから」

 投げやりに投げちゃ駄目だよ、と私が古典的な駄洒落を口にすると、燕は、「気を付けるね」と笑い、やり投げの仕草を何度も繰り返した。

「で、天狗が好きというのは、何のことだったんだっけ」母が言った。

「ああ、そうそう、燕ちゃん、私に申し訳ないと思っていたんだろうね。よくお礼の手紙を書いてくれたんだよ。ネットで調べたのか、しっかりした文章で。それでいつもイラストも描いてくれていたの。天狗とか河童とか。架空の生き物というか、そういうのが好きなんだって。上手で。天狗と河童がリレーをしたり、やり投げをしたり、そういう絵が上手いんだから。褒めたら、すごく喜んでいて。天狗と河童と、あと何だったかな」

「今も同じマンションにいるの?」

達磨だる まだ」と思い出したことを口にした後で、「ううん、引っ越した」と私はかぶりを振る。

 半年ほど前、燕の母親が訪問してきた。素っ気ない態度で、「今日の夕方、引っ越すので」と挨拶あい さつし、「今までいろいろありがとうございました」とあまり感情のこもらない声で礼を言われた。隣にいる燕が、「お母さん、本当にお世話になったんだから、もっとちゃんとお礼を言ってよ」と指摘すると彼女は、「いいんだよ、別に。こっちが頼んだわけでもないんだから」と溜め息を吐いた。

 あまり気持ちのいい別れではなかったものの、それ以上に、燕がいなくなったことのほうがつらかった。気持ちのよりどころが失われたからだ。

 その後の私はいっそう閉塞感を覚えるようになった。

 夫から言葉の暴力を受け、精神がずたずたの状態になりつつも、翔の可愛らしい反応や寝顔、「ママ」と呼ぶ様子を目にすることで、どうにか耐えることができた。むしろ、これほどの幸せな気持ちを味わえるのだから、ほかの苦労は致し方がないとまで感じた。

 夫のことは恐ろしかったが、身体的な暴力を振るわれたことはなかったため、まだマシなのだろうと自分に言い聞かせていたところもある。怪しい新興宗教から抜け出せない信者に近かった。

 が、その結果、どうなった?

 内なる私が聞いてくる。

 私は夫を殺してしまった。彼に初めて殴られた、今日だ。

 どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。正気を保つのがやっとだ。現実から逃げたい。これが現実でなければ良いのに。

 

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