彼女とは三年前に再会したと言っていた。その頃は両親のことで大変だったから、伸朗の仕事の話は殆ど聞いていなかった。でも、単行本だけは把握していた。

 三年前に出版された本と、三年前から関わった単行本は三冊あった。ライフスタイルの本、児童向けに書かれた住居の大型本、そして小学校高学年以上向けの免疫の本だ。ライフスタイルの本は監修が付いておらず、住居の本の監修者は男性だった。免疫の本の監修者は女性の医学博士だったが、年齢が六十代だった。

 伸朗は食事の時、いつも自分が携わっている本や記事の話をするから、以前は全ての仕事の内容を把握していた。再び彼の仕事をきちんと把握するようになったのは、ここ数か月だ。

 私たちは短くない月日を居場所も、時間も、思いも共有せず、お互いに違うところを見て過ごしていたのだと、今更気がついた。

 母は夫にもやもやした感情を抱きながらも、片時も夫から離れず、家庭の暮らしを共有し続けた。母の方が私よりずっと夫の気持ちに寄り添っていたのかも知れない。

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「この作者はレヴィ・ストロースに触発されたんだ」

 伸朗はスプーンを持ったまま、楽しそうに続けた。

「主人公のポルは、幼い頃お祖母さんに聞かされた地元の伝説が、全く違う文化圏の神話とシンクロしていることに気づくんだ」

「へぇ、面白い」

「影響を与え合ったとは考えにくい異文化の間に、なぜこんなにも似た物語が存在するのか。そこでポルは、これらの物語は人間の母胎内での記憶がインスピレーションになっているんじゃないか、と仮説を立てた」

「そこにいくんだ」

「ここから、ポルの仮説と妄想が混濁していくんだけど、その神話や伝説の主人公たちが体験することは、胎児が母体内で体験することとリンクしてるんだよ」

「神秘的。まるで胎内の宇宙を旅するみたい」

「その通りだよ! この小説は人間という宇宙への旅でもあるんだ」

 そこでやっと伸朗はオムライスをぱくりと頬張った。

「美味しい!」

 こちらの主人公はオムライスが大好きだ。

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 伸朗が面白いと思うことは、いつも私の好奇心を刺激した。彼は「君に話すことで考えがまとまるし、君の感想がヒントになる」と言った。

 伸朗の語る本の世界に遊び、彼の冒険旅行に同伴できるのは私だけだと思っていた。私たちには、二人だけにしか通じ合えない世界があると信じていた。

 私の不在中、彼は仕事の打ち合わせをしながら、その女性を脳内旅行に連れ出したのかも知れない。それをきっかけに、一線を越えてしまった可能性は大いにある。私の相槌なんて、簡単に代わりの利くものだったということだ。

「大らかで海のような人」。いかにも伸朗が好きになりそうな人物だ。そして、彼にとって女である人。伸朗がその人の人間性と、女性としての魅力の両方に惹かれているとすれば、私は分が悪いに違いない。私にはもう、目新しい所が一つも無いばかりか、実家の問題に囚われて、女としての自分に無頓着になっていたのだから。

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「真美がね、離婚したの」

「真美さんって、サークルで一緒だった人だっけ」

「そう、英文科の子」

「そうか。残念だね」

「うん。あんなに仲が良かったのに……あの二人だけは絶対に別れないと思ってた」

「そんなに落ち込まないで」

「だって大恋愛だったのよ」

「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)。仕方がないよ。賞味期限が無い恋なんて無いんだから」

「またセ・ラ・ヴィ? それじゃ、私たちまでいつか終わっちゃうみたいじゃない」

「愛情が冷めるとは言ってないよ。愛情って体や心の変化に伴って変わっていくものなんじゃないの」

「ああ、そういう意味か」

「僕は一生君を愛するよ」

「真美とご主人だって一生愛するって教会で誓ったのよ」

「じゃあ僕は絵里に誓う」

「かえって軽くなったんですけど」

「そんなことないよ。僕は神様よりも絵里を信じてるんだから」

「何それ……でも、私もそうかも知れない。一番信じているのは伸朗です」

 伸朗はニマッと笑って両腕を広げ、私はいつものようにそこに飛び込んだ。

 私は運がいい。私の愛は確かにここにある。

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 誰かに恋をすることを責めても仕方がない。誰かが性愛の対象でなくなってしまうのも、意志ではどうにもならない。一番信じている人のことも、簡単に裏切る。

 恋というのは一種の脳ジャックだ。一旦占拠されてしまうと、ある程度の欲求を満たすか、相手に幻滅するようなきっかけがない限り、止められない。

 小説やドラマの中でなら、そう思える。

 だが、それが自分の夫となれば話は別だ。不倫は許しがたい裏切りで、愛する気持ちが無くなるのは罪と呼びたいくらいだ。

 多分、多くの夫婦は愛の形を変えながら関係を維持していくのだろう。私は今も伸朗の「大の仲良し」かも知れないが、いつの間にか「女」ではなくなっていた。

 私は勝手に、伸朗はそういう事には淡白なのだと思い込み、今更新しい恋をするなんて考えてもみなかった。夫を長い間放置して、自分たちの関係の変化についても、なかなか話し合おうとしなかった。

 もしも、私たちに子どもがいれば、こんなことにはならなかったのではないか。

 子どもが大好きな伸朗は子どもを愛して、愛して、生き甲斐にしていたはずだ。暇さえあれば子どもと冒険の旅に出て、愉しい物語を紡いでいたに違いない。他所の女に気を取られる暇などなかっただろう。

 結婚当初、私たちは「いつか子どもができたら」とよく話し合っていた。伸朗は子どもの感性に触れるのが大好きで、子どもの絵画展や工作展へもまめに足を運んでいた。

 

「宙い夢に棲む」は全4回で連日公開予定