沖上喜見子の手記 一頁
私の命がもう長くはないことは、お医者様や家族の態度から、うすうす感づいておりました。残されたわずかな時間を何に使うべきかと、病床で何度も考えましたところ、やはり長年胸にしまいつづけた、あの記憶を告白しなければならないと、思うに至りました。
私は若い頃、人を殺しました。何人もの命を奪いました。
しかし、私が法で裁かれることはありませんでした。
この報いは、きっと地獄で受けるのでしょう。そこへ行く前に、せめて夫と果乃にだけは、自分の言葉で事実を伝えたく、こうして筆を執りました。
学のなさゆえ、下手な文章になってしまいますでしょうが、どうか最後まで読んでいただければ幸いです。
さて、今まで誰にも話しておりませんでしたが、私は隣県の海沿いにかつて存在した、河蒼湖という名の集落で生まれました。まずはこの河蒼湖集落と、そこにそびえる母娘山についてお伝えしなければなりません。
書き終える前に、私の命が尽きぬことを、せつに願います。
第一章
2015年7月6日 大里幸助
けたたましいアラームの音で、大里幸助は目を覚ました。
粘っこい眠気。頭痛。酒臭い息。辺りは暗い。
(アラーム……? こんな夜中に……?)
スマートフォンの画面を見ると『AM6:00』と表示されている。
(朝の6時……? こんなに暗いのに?)
体を起こそうとして床に手をつく。ひやりとして、硬い。自分が今いる場所がベッドの上ではないことに気づく。そのとき『ごおおおお』という低い音がして、冷たい風が吹きつけた。
(外……か?)
目が慣れるにつれて、周囲の様子がわかるようになった。完全な暗闇ではない。
頭上にオレンジ色のライトが鈍く光っている。それが街灯のように、遠くまで等間隔で並んでいる。酔いつぶれて道路に寝ていたのだろうか。
だがおかしい。今の季節、午前6時でこんなに暗いわけがない。それに、屋外にしては空気が薄く、妙な圧迫感がある。おそらくここは建物の中だ。
しかし、どこなのだろう。ゆっくりと立ち上がり、目をこらして周囲を観察する。近くに壁があることに気づく。ブロック状の石を、いくつも組み合わせて作られた壁だ。湿っていて、所々に苔が生えている。見上げると、天井はアーチ状になっており、反対側にも同じような壁がある。
つまりここは左右を石壁に囲まれた、長い廊下のような場所ということだ。
大里はこの場所に心当たりがあった。
恐る恐る足元に目をやる。銀色の細長い金属が二本、遠くまで延びている。そこには小さな文字が記されていた。
『YABITSU_RAILWAY_TRACK Mt.MOJO_TUNNEL 2.3キロメートル_FROM_ENT』
(矢比津鉄道 母娘山トンネル内線路 湖隠駅より2.3㎞地点)
背筋が冷える。ここは鉄道トンネルの中だ。

『矢比津鉄道』はR県の海沿いを走る私鉄だ。大里はこの鉄道会社のすべてを知り尽くしていた。22歳で入社してから40年近く、会社のために尽くしてきたからだ。
鉄道会社の社員は、運転士や駅員などの『現場職員』と、オフィス勤務の『内勤』に分かれる。ブルーカラーとホワイトカラー。両者は何かと対立しがちだ。
そんな中、大里は内勤でありながら、現場職員たちと強い信頼関係を築き、オフィスと現場の橋渡し役を担ってきた。その能力と人望が評価され、社長に任命されたのが10年前だ。
社長になってからも、大里はたびたび駅や工場に足を運び、職員たちとコミュニケーションを取り、安全が保たれているか、日々チェックすることを怠らなかった。
そんな大里だからこそ、自分が置かれている状況の恐ろしさが理解できた。

『YABITSU RAILWAY TRACK』……矢比津鉄道の線路には、すべてこの文字が刻印されている。その次に続くのは、線路の位置を示す文字だ。『Mt.MOJO』は『母娘山』のことである。

母娘山は、R県の沿岸にそびえる巨山だ。山の両脇には『湖隠』と『柿童』という二つの駅がある。その両駅の間を電車が走るために掘られたのが、全長6㎞の『母娘山トンネル』だ。

大里が今いる場所は『2.3㎞ FROM ENTRANCE KOGAKUSHI』……『湖隠駅側の入り口から2.3㎞地点』……つまり、母娘山トンネルの中央付近ということになる。
太陽の光も、新鮮な空気も届かない、巨大な山の底。
思わず身震いをする。今すぐここから出たい。
しかし、片田舎の古いトンネルだ。無線はなく、スマホも圏外。助けを求める手段はなく、歩いて外に出るしかない。
母娘山トンネルには、緊急時に外へ避難するための歩行用トンネルが、1㎞間隔で5か所設置されている。それぞれ『第一非常口』~『第五非常口』という名前がついている。
ここから一番近いのは第二非常口だ。重い体を引きずるように、大里は歩きはじめた。

(しかし、なぜ俺はこんなところに寝ていたんだ。昨日の夜は……そうだ。誰かと一緒に飯を食った……それから……ダメだ)
途中で記憶が途切れている。
(酔いすぎてトンネルに迷い込んだのか……? いや、俺がそんなバカなマネをするわけがない。しかも昨日は日曜だ。休みの前ならまだしも……ん?)
ふと、前方に奇妙なものを見つける。
枕木に、赤黒い液体がついているのだ。
(何だあれは……)
近づくと、独特の生臭さが鼻をついた。まさか血液だろうか。しかしなぜこんな所に?
血はまだ乾ききっておらず、ライトに照らされ、ぬらりと光っている。あまりに不可解なことが立て続けに起きるので、頭がおかしくなりそうになる。枕木を避け、先を急ぐ。
しばらくすると、青いランプが見えてきた。非常口だ。ひとまず、ほっと胸をなでおろす。

非常扉には鍵がかかっているが、緊急時には鍵穴の上に付いている金属の棒を倒せば、鍵がなくても開けることができる。大里は棒に指をかけた。そのとき、異変に気づく。
どんなに力を込めても、途中までしか倒れないのだ。まさか壊れたのか。なぜ、今にかぎって。鍵穴を覗くが、暗くてよく見えない。いや、仮に故障の原因がわかったとしても、工具を持っていないので修理のしようがない。
(仕方ない。こうなったら第一非常口まで行くしか……いや、まてよ)
目覚めてから今まで、影のようにまとわりついてきた不安が、今になって姿を現した。
慌てて腕時計を見る。『AM6:09』……血の気が引いていく。

通常通りのダイヤなら、柿童方面の始発電車が6時12分に湖隠駅を出発する。
あと少しでここに電車がやってくる。
それがどれほど恐ろしいことか、大里はよく知っていた。利用客の少ない矢比津鉄道は、ほとんどの区間で、上り電車と下り電車が一本の線路を分け合う、いわゆる単線鉄道だ。その上、母娘山トンネルは電車一台がぎりぎり通れるほどの広さしかない。
つまり、逃げ場がないのだ。
屋外であれば、レールの隙間にうつ伏せになることで、軽傷で済む可能性もあるが、ここではそんな甘い想像は通用しない。

トンネルを電車が駆け抜けるとき、ピストン効果によって、瞬間的に大型台風並みの風が吹き荒れる。大里は小柄で、体重も軽い。しがみつく場所もない線路の上で、強風に耐えられるとは思えない。
吹き飛ばされた場所がレールの上だったら……その上を電車が通過したら……想像したくもない。
(しかもこの暗いトンネルじゃ、相当接近しないと運転席から俺の姿は見えないだろう。それから急ブレーキをかけたって……)
祈る思いで棒を握り、全体重をかける。
だが、びくともしない。
(なぜだ! なぜ今壊れた!)
「クソ!」と吐き捨て、大里は第三非常口に向かって走り出す。

6時12分に湖隠駅を出発した電車は17分頃トンネルに入る。
第二非常口にたどり着くのは6時19分頃。第三非常口に至るにはそこからさらに1分。
要するに、6時20分までに第三非常口に入れば助かるということだ。
時計の針は6時10分を指している。
第三非常口までは1㎞。1㎞を10分で走る。
全力疾走すれば間に合わないことはない。
枕木は湿っており、少しの油断で転んでしまいそうだ。慎重に、しかし最大限の速さで駆けていく。
数分で息切れが始まる。心臓が荒く脈打つ。
大里は年齢の割には健康だ。
毎朝のジョギングも欠かさない。
なのに、少し走っただけでここまでバテるとは、まだ相当酒が残っているようだ。
(どうして昨日は、こんなになるまで飲んだんだ……それに……)
線路に付いていた血痕。突然壊れた鍵。明らかにおかしい。
そのとき、脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。いかめしい、鷲のような顔。
(会長。そうだ……昨日は珍しく会長に誘われて……)
唯一、社内で大里の上に立つ人間がいる。会長の矢比津啓徳だ。
矢比津と大里は現在、あるプロジェクトをめぐって対立しており、ここ数年はまともに口をきいていない。
そんな彼が昨日、なぜか夕食に誘ってきたのだ。
(まさかあの爺さん、邪魔者の俺を……)
矢比津は足が悪い。大里を背負ってトンネルの中まで運び入れるなど不可能だ。
だが、協力者がいれば……。
(あっ)
一瞬の油断だった。足がもつれ地面に崩れ落ちる。とっさにレールに手をつき、なんとか怪我をせずに済んだ。だが同時に、最悪の事態を知る。
レールがかすかに振動している。電車が近づいてきているのだ。残された時間は少ない。
急いで立ち上がり、湿った空気を胸いっぱい吸い込むと、脱兎のごとく駆けだした。もう足元など気にしていられない。
(転んだら終わりだ。それでいい。どのみち間に合わないなら、最後まで走り抜く!)
もはや時間の感覚はなかった。過ぎ去ったのが1分か1秒かさえどうでもよかった。
とにかく無心で走った。不思議と足はもつれず、息も乱れなかった。
やがて遠くにぼんやりと、青色の光が見えてきた。
(非常口だ……!)
だが、危機も迫っていた。
「うああああああああああああああああああああああ」と、まるで妖怪の鳴き声のような音が、トンネルいっぱいに反響しはじめた。電車はもうすぐそこまで来ている。
呼吸も忘れ、無我夢中で走る。段差を駆けあがり、非常扉を開ける。助かった……はずだった。ところが、そこには思いもよらぬ光景があった。
次の瞬間、大里の意識は消えた。
そして、二度と戻ることはなかった。
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