二人で店に入る。建物自体は大きいが、一階建てだ。平屋。
で、ここにならあるだろうと思っていたとおり、証明写真機は、ある。それは誰にもつかわれていなかったので、すぐにとりかかる。
画面でマイナンバーを選択し、持ってきた交付申請書のQRコードをバーコードリーダーにかざす。父を椅子に座らせ、そうしたほうが見映えがいいかと、シャツのボタンを一番上まで留めさせて、撮影。そしてそのまま申請。申請確認プリントを受けとる。
一度やっていたので、要領はわかっていた。だからものの数分ですんだ。
「はい。完了」と僕。
「もう終わりか?」と父。
「うん」
「ほんとに終わってるのか? 誰かに何か渡したりしなくていいのか?」
「だいじょうぶ。これでもう渡したことになってる」
「電波か何かで飛んでいったのか?」
「電波なのかはよくわからないけど、とにかく届くべきところに届いてるよ。あとは、交付通知書が送られてくるから、指示された交付場所でカードを受けとるだけ」
「何だ。簡単だな」
「うん」
ただ、これでも父一人ではできなかっただろう。パソコンはつかえず、電話もいまだにガラケーの父では。そのガラケーでも、メールはやれず、伝言メモを聞くことさえできないくらいだから。
「そのあとのポイントの申し込みとかはまた僕がやるよ。だから、その交付通知書が届くのを待ってて」
「それは郵便で来るのか?」
「そう。はがき。ただ、一ヵ月ぐらいかかるんで、忘れないようにね。それを失くしたら受けとれない。たぶん、交付申請書を再発行してもらわなきゃいけなくなる。そんなことをしてるうちに期限が過ぎてポイントをもらえなくなる可能性もあるから。それはほんと、覚えといて」
メモ用紙に書いてマグネットで冷蔵庫に貼っておいたほうがいいかもな、と思う。
そもそも、その交付申請書の時点であぶなかったのだ。確か簡易書留で届いたはずだが、父はそれを覚えていなかった。電話で僕が訊いたときは、そんなの来たか? と言っていた。
だから、実家に帰ってくると、僕はまずそれを捜すことから始めた。
幸い、すぐに見つかった。捨てられてはおらず、ほかの郵便物などと一緒に、無造作に棚に置かれていたのだ。
そう。父のような高齢者は、その手の物を捨てはしない。わからないならわからないまま置いておく。ほうっておく。
それで早くもメインの用はすんでしまった。
申請が終わって、ほっとした。ものの数分ですんだわりには、充実感があった。
たぶん、僕は、すでに多くの人たちが持っているマイナンバーカードを父が持っていないことがいやだったのだ。持っていないのではなく、持てていないような気がして。
そこでスマホの画面を見る。
時刻は午後一時半。想定より早いが、まあ、いい。
「じゃあ、ご飯食べよう」と僕。
「そうだな」と父。
二人でフードコートへ。
ピークタイムは過ぎたようで、席は空いている。四人掛けのテーブル席に着く。
見たところ、選択肢は少ない。この感じならこれしかないだろう、ということで、父に尋ねる。
「中華でいい?」
すると、父は意外なことを言う。
「たまにはハンバーガーにしてみるかな」
「ほんとに?」
「ああ。ダメか?」
「いや、いいけど」
ハンバーガー。マクドナルドだ。
「そんなの、食べるの?」
「いつもは食べない。だからたまにはいい。富生は、食べるんだろ?」
「いや、僕もそんなには食べないかな」
そんなには、ではない。ほとんど食べない。最後に食べたのがいつかも覚えてはいない。もう二年は食べていないかもしれない。三十代半ばからあまり食べなくなった。今はもう、外食の選択肢にも入らない。
「なら、たまには食べろよ」
「じゃあ、まあ」
二人で店のカウンターに行き、列に並ぶ。三番めが僕らだ。
待っているあいだに父が言う。
「こういうのは、何にするのがいいんだ?」
「何でもいいよ。食べたいのにしなよ」
「うーん。あ、そうだ。何か、魚のやつがあったよな?」
「フィレオフィッシュ?」
「わからんが」
「たぶんそれだけど。ハンバーグみたいに焼いてあるんじゃなくて、揚げ物だよ。いい?」
「要するに魚のフライだろ? 海苔弁に入ってるみたいな」
「ちょっとちがうような気もするけど、まあ、そう」
「じゃあ、それにするよ。ハンバーグにチーズなんかよりはそっちのほうがいい」
「フィレオフィッシュも、確かチーズは挟まってるけど」
「いいよ、挟まってても」
結局、父がそこで頼んだのはセット。フィレオフィッシュとサイドサラダと爽健美茶。
メニューを見て、驚いた。今はセットにサラダがあることを知らなかった。
あるのならそれを、と父に薦めておきながら、僕自身は、久しぶりなのでつい食べたくなり、ビッグマックにポテト、そしてやはり久しぶりなのでつい飲みたくなり、コーラ。ただし、コーラは普通のコカ・コーラではなく、コカ・コーラゼロにした。
代金は僕が払った。バーコード決済でだ。
「いいのか?」と父。
「うん」と僕。
「さっきの写真代も出してもらったろ。あれは、あとで渡すよ」
「いいよ、そんなの」
「じゃあ、そのポイントとかいうのをお前がもらえよ」
「いや、それは本人しかもらえないものだから」
「じゃあ、おれがもらってお前にやるよ」
「そんなこともやりようがないからいいって」
「おれがお前に二万円渡せばいいってことだろ?」
「それじゃ意味がないよ。僕がほしくてポイントをもらうわけでもないし」
そんなことを言い合いながら、テーブルに戻り、そこにトレーを置く。
そして今度は手を洗いに行く。
コロナを経験して、やはり慎重になったのだ。何かを食べる前には手を洗いたくなる。経験したといっても、僕はかかっていないし、父もかかっていない。だが手は洗う。電話で父にもそうするよう言っている。父がいつもそうしているかはわからないが。
手を洗って戻り、椅子に座る。
「では頂くよ」と父が言う。
「うん。ポテトも、食べたかったら食べて」
「じゃあ、一本だけもらうか」
「一本じゃなくてもいいよ」
「いや、一本で充分」
父がその一本を食べ、僕も一本を食べる。
「ほう。ちゃんと芋だな」
「そりゃそうだよ」
「ポテトチップなんかよりは、しっかりと芋だ」
「あぁ、そういうことね。何、ポテトチップスは、食べるの?」
「食べない。せんべいは食べるけどな」
「あったね、家に」
「海苔のやつな」
「うん」
「あとは、豆のもうまいな。黒豆の」
「あぁ。うまいね」
「まあ、菓子はそのくらいだな」
「大福とか羊かんとか、そういうのは?」
「甘いのは買わないな。お母さんみたいにクッキーだの何だのは食べないし」
「お母さんは、食べてたね。って、子どものころは僕も食べてたけど」
「おれも、食べればうまいとは思うけど。自分では買わないな」
「僕もそう」
「といっても、買うけどな」
「ん?」
「たまにクッキーを買って、仏壇に供えるよ。お母さんもたまには好きなものを食べたいだろうしな。いつもせんべいばっかりじゃ、飽きちゃうだろ」
「そのクッキーは、あとで食べるの? 供えたあとに」
「食べるよ。で、うまいとは思う。たまに食べるのがちょうどいいな。チョコはちょっときついけど、クッキーはいい」
「チョコはきついんだ?」
「ああ。鼻血が出そうになる。出ないけどな」
そして父はサラダを少し食べ、爽健美茶を少し飲んで、フィレオフィッシュにとりかかる。一口食べ、ゆっくり噛み、ゆっくり飲みこんで、言う。
「ほう。これもちゃんと魚だな」
「だから、そりゃそうだよ」
「白身魚だ」
「うん」
「何の魚だ?」
「スケソウダラじゃなかったかな」
「そうか。タラか。言われてみれば、タラだな。海苔弁のあのフライも、そうか?」
「それもつかわれてるだろうけど、ホキとかいうのが多いんじゃなかったかな」
「聞いたことないな」
「オーストラリアとかニュージーランドとか、そっちのほうで獲れるらしいよ。ほとんどがそういうフライになるみたい」
「そうなのか。よく知ってるな」
「何か、たまたま知ってる。仕事関係で調べたんだっけな」
「幅広いんだな、お前の仕事は」
「いや、仕事関係じゃなく、ただ自分で調べただけかも。僕も、海苔弁のこれは何の魚だろうと思って」
「そういうのを、お前はちゃんと調べるんだな。だからいい会社に入れたのかもな」
「調べたのも、たぶんたまたまだよ」
僕がいるのは求人広告会社。名前はよく知られている。だから父も、いい会社、と認識しているのだと思う。
今は求人広告に限らず、いろいろと手広くやっている。住宅関連に美容関連に旅行関連に飲食関連。分野は広い。あ、そういえば、ウチはこれもやってたんだ、と、たまに人ごとのように思うことがある。
僕もビッグマックを一口食べる。
それを見て、父が言う。
「富生のは、何だ、ハンバーグの二枚重ねか」
「うん」
「それもうまそうだな」
「ちょっと食べる?」
「いいよ。こっちだけで充分。じいさんだから、すぐ腹いっぱいになる」
「僕も、そんなには食べられなくなったよ」
「お前はまだ四十だろ?」
「四十だとそうなるよ」
「そうか。四十のころがどうだったかなんて、覚えてないな。四十も五十も大して変わらないような気がするよ。そのころからは時間が経つのが速いからな」
それはわかる。僕自身、三十代からはもう時間が経つのが速いと感じられるようになった。いつの間にか一年が過ぎ、二年や三年も過ぎた。そして五年が過ぎ、十年も過ぎた。そんなふうにして、まさにいつの間にか四十歳になった。三十代は、二十代よりもずっと短かった。
何にしても。思いのほか長く父と話せたことに驚く。まさかフィレオフィッシュがきっかけでそうなるとは。
そこで、右の腿に小刻みな震えが来る。チノパンのポケットに入れておいたスマホだ。
取りだして、画面を見る。
LINEのメッセージが届いている。梓美からだ。
〈今どこ?〉
「ちょっと連絡ね」と父に言い、返事を打つ。
〈もう館山。イオンでお昼〉
〈イオンがあるの?〉
〈そう。わりと大きめの、イオンタウン館山〉
〈お昼は何?〉
〈マクドナルド〉
〈お父さんと二人で?〉
〈そう。本人の希望で〉
〈お父さん、若い〉
〈若くあってほしいよ。何なら若返ってほしい〉
〈戻りは明日?〉
〈明日。午後イチで出て、東京着が夕方かな〉
〈気をつけて〉
〈どうも〉のあとにすぐ足す。〈来週、ご飯行こう〉
〈イタリアン〉
〈了解〉
それでやりとりを終え、スマホをポケットに戻す。
「メールか?」と父に訊かれ、
「LINEだね」と答える。
「あぁ。聞いたことはあるけど、よくわからんな。で、相手は誰だ?」
「知り合い」
「会社の人か?」
「会社の人ではないよ。会社は休みだし。会社の人とこんなふうに連絡をとったりはしない」
ここでも父は意外なことを言う。
「じゃあ、付き合ってる人か?」
隠す必要はないので、こう返す。
「まあ、そうかな」
「いるのか、相手が」
「一応」
「じゃあ、何か、悪かったな」
「何が?」
「休みなのに、こっちに来させて」
「それはいいよ。別に来させられたわけじゃなくて、僕が久しぶりに来ようと思っただけだから」
「でも、お母さんのあれにも来るだろ?」
お母さんのあれ。五月の七回忌だ。
「来るけど。それとは別。遅めの正月、みたいなものかな」
「だったら、あとで餅食うか? まだあるぞ」
「いや、それもいいよ」
餅。ちょっと気になる。一人暮らしの高齢者と、餅。食べてノドに詰まらせたらあぶない。
その意味で、ちゃんと正月に帰ってくるべきだったかもしれない。家にまだ餅があるなら、父がそれを一人で食べたこともあったはずだから。
「仲よくやってるのか? その人とは」
「まあ、やってるよ」
「そうか。ならいい」
「何それ」
父はフィレオフィッシュを食べ、爽健美茶を飲む。
遠慮しているのか何なのか、それ以上は訊いてこない。
僕も、自分からわざわざ明かしたりはしない。
フィレオフィッシュのことは気軽に話せるが、カノジョのことは気軽に話せない。それは、僕らが親子だからだ。まさに、あまりしゃべってこなかった親子だからだ。
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