悲鳴だけ聞こえない
事務所の面談室、机の上には二枚の紙切れが、こちらへ向けて並べられている。依頼者が持参したものだ。彼の経営する会社に設置された、社長室へ直通の意見箱の中に入っていたという。
先輩弁護士の高塚智明と並んで座った木村龍一は、机を挟んだ反対側で神妙な顔をしている依頼者に断って、紙切れを手前に引き寄せた。
向かって左側に置かれた一枚には、ボールペンでたった二行、
『応接室の前を通ったら、パワハラじゃないかと思うようなやりとりが聞こえました。嫌な感じだったので気になっています』
と記されている。
右側に置かれた二枚目の文章は、一枚目よりは少し長い。一枚目とは異なる筆跡で、ペンの太さも違っていた。
『先週、夜の九時頃、忘れ物をとりに会社に戻ったら、会議室から、誰かが誰かを激しく叱責している声が聞こえた。怒鳴り声と言ってもいいくらいの声で、これはもはや指導とは言えないのではないかと思った』
どちらも、穏やかではない内容だ。
依頼者――株式会社スドウの代表取締役社長、須藤是光は、神妙な表情で、「由々しき事態です」と言った。
「これ、パワハラの告発ですよね」
そのように読めますね、と高塚は頷いて、机の上で長い指を組む。
「それにしては、随分と抽象的な内容ですが」
それについては木村も同意見だ。
パワハラの存在を匂わせてはいるものの、具体的なことは何も書いていない。これでは、被害者も加害者も、ハラスメントの内容すらもわからない。
「はっきりと書けない理由があるんだと思います。何かあったときに、告発したのが自分だと知られたくないとか……だから、ローラー作戦で調べてほしいというメッセージだと受け止めました。社員の誰かが、勇気を出して投書してくれたんです。二人も。放ってはおけません」
須藤社長は自分の腿の上に両手を置き、眉根を寄せている。
「社内でのパワハラについて、何か思い当たることはありますか。雰囲気の悪い部署があるとか、評判のよくない人がいるとか……」
「いえ、まったく。皆が活き活きと働いている、いい職場だと思っていました。でも、それが問題だと思っています。気をつけていたつもりで、何も気づけていなかったんですから」
侍のような名前のこの社長は、三十歳の節目に勤務先を退職してオフィス用品の企画・販売をする会社を興し、数年で大きくしたやり手の実業家だ。事務所にとっては彼が起業したての頃からの顧客で、現在の年齢は四十代半ばのはずだが、十歳は若く見える。
風通しのいい会社を、というモットーを掲げて職場作りをしてきた彼にとって、社員からの告発はショックだっただろう。その目には、なんとしても、自分の会社からパワハラを根絶しなくてはという強い意志が見てとれた。
「この投書の件について対応するのはもちろんですが、今後はもっと徹底的に、パワハラを防止する体制を作りたいんです。専門家である先生方に、ご協力をお願いできますか」
顧問料とは別に料金が発生する業務なので、断る理由は何もない。
高塚はもちろんです、と応じた。
「私と木村で担当します。社員への聞き取り調査には、複数の弁護士で当たったほうがいいと思いますので」
まずは、現在起きているパワハラについての社員への聞き取り調査、被害者と加害者を特定しての対応。それと並行して、パワハラを防止できる体制を作ること。
須藤社長の希望は明確だったので、高塚は次々と、そのために必要な施策の案を挙げた。
「社員へのパワハラ研修の実施、パワハラ防止のためのマニュアル作成と配布、社外相談窓口の設置と周知、弁護士による個別の社員面談、匿名でのアンケート実施。社員面談の中で、現在起きているパワハラについて知っている人がいないか聞き取ります。くれぐれもプライバシーに配慮して、被害者にプレッシャーを与えることがないよう留意して」
次から次へと、具体的な提案が出てくるのはさすがだ。須藤社長も、高塚を頼もしく感じているようだ。彼は何度も頷きながら話を聞き、満足した様子で帰って行った。
須藤社長を見送り、執務室へ戻ってから、お疲れ様でした、と高塚に声をかける。
「こういう相談って、ちょっと珍しいですよね?」
「そうだね。パワハラ相談っていうと、大抵は被害者からなんだけど……あと、うちの事務所では、従業員に訴えられた企業側からの相談とかね。存在するかもしれないパワハラについて調査して解決してほしいっていうのは初めてかな」
高塚は革製のリーガルパッドホルダーを自分のデスクに置き、スーツのジャケットを脱いで肩と首を回した。
「顧問先の会社で事実関係の調査を行うなんて、俺、初めてです」
「調査っていっても、ほぼ従業員たちとの面談だけだろうから、いつもやってることと変わらないよ。けどまあ、聞いてほしくて自分から相談に来る人の話を聞くのと、こっちから出向いて行って色々話を聞き出すのとは違うところもあるか。刑事事件の証人に対するときみたいな感じかな」
「あ、なるほど……そうですね、相談者じゃなくて関係者に聴取する感じか」
会社の顧問弁護士として面談するのだから、従業員たちがこちらに非協力的ということもないはずだ。そう思えば、それほど気負う必要もなさそうだ。
令和二年六月から、パワハラ防止法が施行されたことに伴い、企業にはパワハラ防止措置義務が課された。相談窓口で適切な対応を行うことは、その中に定められた義務の一つだ。中小企業における義務化は令和四年四月からだが、株式会社スドウでは、それに先駆けての実施ということになる。須藤社長の性格や経営方針は従業員たちもわかっているだろうから、そのこと自体は不自然には思われないだろう。
パワハラ相談については、周囲に相談をしたことを知られないよう、外部に相談窓口があったほうがいい、という考えから、弁護士が窓口となることも珍しくない。従業員の側からアクセスしなければいけないとなるとハードルが高くなってしまうので、弁護士のほうから全員と面談をして、パワハラ被害がないかどうか聴取する……という口実なら、従業員たちも特に怪しまずに受け入れてくれそうだった。
「今回の面談は、投書の内容について調べるためですけど、今後も定期的に弁護士が面談するとか、常設の窓口として弁護士の連絡先が開かれているとなったら、従業員も安心しますよね。パワハラの抑止にもなりそうですし」
「うん、そうやって、今後パワハラが起きにくくなるような体制作りをしたい、っていう考え方はいいね。弁護士ってどうしても、トラブルが発生してから動き出すことになりがちだけど、あらかじめトラブルを予防できるならそれにこしたことはないから」
予防の観点から弁護士を使ってもらえることはあまりない。それどころか、トラブルが発生してもすぐには相談せず、こじれにこじれてから弁護士を頼ってくるというケースがほとんどだ。事前に相談しておいてくれれば、せめて、すぐに相談してくれれば、と悔しい思いをすることもしばしばだった。
世の中の社長がああいう人ばっかりならいいんだけどね、と言う高塚の言葉に同意しつつ、木村は手の中にあるファイルを見下ろす。
それでも、あんないい社長の会社でも、パワハラは起きてしまうのだ。
ファイルの一番上には、クリアポケットに入れられた二通の投書が綴じられている。株式会社スドウにパワハラがあることを示す証拠だ。
木村の視線で察したのか、高塚は、「パワハラには色んな形があるから」と言った。
「目に見えにくいパワハラもあるし、社長が気づけずにいたとしても仕方ないところはあるよ。社長の意識が高い会社だと従業員も気をつけるだろうけど、パワハラしている側がそれをパワハラだと気づいていないことも多いし」
確かに、パワハラは、何をもってパワハラとするのか、その基準がはっきりしていないところがあり、認定が難しい。怒鳴りつけたり、体罰を与えたり、人格を否定するような言動をしたりすれば明らかにアウトだが、そこまで行かなくても、厳しい叱責、過大な業務を強いること、その反対に仕事を回さないことがハラスメントになることもある。程度の問題だったり、その言動の理由が合理的かどうかとか、職務上必要な指導の範囲を出ているかどうかで判断されるが、どこからがハラスメントになるかは、個人の認識によっても違うだろう。同じ行為をされても、平気な人もいれば、傷ついてしまう人もいる。
場合によっては、加害者側にはまったく悪意がないということもあり得る。
「難しいですね。周囲から見たら、そんなことで? って思うようなことでも、本人はすごく苦しんでいるかもしれないし、自分ではよかれと思って指導していたつもりが、相手にとっては苦痛でしかないかもしれないし……」
調査する側としては、それを見つけて本人に指摘し、改善を促さなければならないのだ。部下や後輩のためを思って指導していたつもりが、パワハラだと言われて弁護士に呼び出されたら、ショックを受けるだろう。気をつけなければ、今度はその従業員と会社との間にわだかまりが残ってしまいそうだ。
「そのためのパワハラ研修だよ。自分ではセーフだと思っていることがアウトかもしれないって、立ち止まって考えてみる意識を持ってもらおうってことだね」
何事も、予防が重要だ。トラブルが起きてから対応するより、トラブルが起きないシステム作りに手間をかけたほうが、最終的には労力もかからない。それに何より、被害者を生まないで済む。
株式会社スドウにおけるパワハラ対策は不十分だったかもしれないが、今からでも予防のためのシステムを構築しようと思える人間が社長であることは、会社にとっても従業員にとってもいいことだ。
「社長がああいう感じで、直通の意見箱を設置したり、普段からオープンな姿勢を示していたからこそ、こうやって声をあげてくれる従業員がいたってことだしね。完全に防ぐことはできなくても、していたことには意味があったと思うよ」
「こうして投書が来て発覚したからこそ、社長が気づけて、俺たちも動けるわけですしね」
頷いて、腕の中のファイルを抱え直した。
それを受けて、ここからさらにきちんと、パワハラを生み出さないための具体的な防止策を作っていく。
そしてまずは、すでにあるパワハラについて、被害者の声を拾い上げて解決すること。
須藤社長のおかげで、比較的声をあげやすい環境はすでにできている。後は自分たちの仕事だ。
「お、やる気になってきた顔」
いい傾向、と高塚が眉をあげる。
木村は胸を反らして、「俺はいつだってやる気に溢れてますよ」と返した。
「高塚さんと仕事するの、すごく勉強になるので。さっきも、どんどん案が出てきてすごいなって思ってました」
「経験だよ。木村くんもすぐにそうなるって」
さて、というように高塚は首すじに手を当ててもう一度首を回し、木村を見る。
「パワハラ研修、まずは社員全体への講習、質疑応答、最後にアンケートを配って……それを回収して確認してから、二人で手分けして全員の個別面談だね。講習はどうする? 木村くん、講師やる?」
「いえっ、もともとスドウは高塚さんの担当ですし、従業員の人たちも、高塚さんのほうが安心すると思うんで……俺だと威厳? 弁護士らしさ? が足りないっていうか」
慌てて、左手でファイルを抱え込んだまま、右手を胸の前でぶんぶんと振った。
先輩の前で講師役なんて、絶対にやりたくない。想像しただけで冷や汗が出そうだ。
それに、須藤社長も従業員たちも、顧問弁護士による講習と言ったら、当然高塚が講師をすることを期待しているだろう。彼の代わりは荷が重い。
「そんなことはないと思うけど、まあ、じゃあ今回は俺がやろうか」
高塚はあっさり言って、リーガルパッドを開き、一番上の一枚を切り取った。それを、ひらりと木村が抱えた株式会社スドウのファイルの上にのせ、
「じゃ、管理職用マニュアルと従業員へのアンケートと研修用の資料作成、今週中に。よろしくね」
言葉の内容にかかわらず、向けられた側が思わず頷いてしまいそうな笑顔で言った。
今日は午後から訴訟の期日が入っているし、今日中に提出しなければならない書面もある。明日は朝から調停が一件、面談予定が一件、明後日は当番弁護の待機日で、今週はもう残り三日しかない。
過大な業務、というフレーズが頭に浮かんだが、もちろんこれはパワハラではない。早速経験を積ませてやろうという、先輩のありがたい配慮だ。
ファイルを抱えて突っ立ったまま、よろこんでー、と弱々しく応える。
高塚は満足げに椅子を引いて座り、優雅に長い脚を組んだ。
「悲鳴だけ聞こえない」は全4回で連日公開予定