地を焦がす真っ赤な太陽が、水平線の向こうへ消え落ちると、ようやく気持ちのいい浜風が吹き始めた。宿の中庭の置かれたベンチに座って、今日も読みかけの本を開く。地中海に浮ぶ小島、ジェルバ島に来てからというもの、この夕暮れの静かなひと時が何よりの楽しみになっていた。
彼が花束を持って近づいてきたのは、宿に来て三日目の夕方だった。白いつぼみを束ねた小さなブーケを持ってくると、彼は無言でそれを差し出した。年齢は三〇代半ばぐらいだろうか、随分たくましい体つきをしていた。盛り上がった胸板。ガッチリと膨らんだ上腕。それに口の周りには、うっすらとヒゲ跡が残っていた。
「私に?」
彼は微笑しただけで、何も言わずに去っていった。受け取ったブーケからは、ジャスミンの甘い香りが漂っていた。
次の日の夕方、昨日と同じベンチに座って続きのページを繰っていると、またあの彼がやってきた。今度は小さな紙箱を持っていた。
「ありがとう」
私は小箱を受け取り、差し出された彼の手を握り返した。ごわごわした大きな手だった。彼はまた微かな笑みを残しただけで、中庭の奥に消えてしまった。箱の蓋をそっと開くと、なかにはケーキが入っていた。
そのあといったん島を離れて、また数日後に宿へと戻ってくると、またあの彼が現れた。今度はもう、何も持たずに来たようだった。私は本を閉じ、やや充血した彼の両目を見上げた。彼はとても小さな声で、私を食事に誘ってくれた。とは言っても、たぶん誘ってくれているのだろうと私が勝手に思っただけで、はっきりとしたことは分からなかった。フランス語とアラビア語を話す彼とは、正確な意思を伝え合うことができなかったのだ。私は「行く」とは言わなかった。食事についていくには、あまりにも詳細が分からなさすぎた。いつ、どこで、何を、何のために? そもそも私は、彼のことを何も知らなかった。名前さえも。
翌朝、たまたま居合わせたトルコ人の男性と中庭でフランスパンを食べている時に、またあの彼が現れた。向こうが手を振ったので、こっちも小さく振り返すと、テーブルの向かいにいたトルコ人が驚いたような声を出した。
「あの男と知り合いなのか」
私は、それほどでもないが、ケーキやお花をもらったと言った。
「まさか、食べたのか」
「食べた」
「どうして」
私は答えようがなくて、うーん、と唸って空を見上げた。どうしてもこうしてもなく、もらったから食べたという感じだった。ホワイトチョコでコーティングされた、丸くてかわいいケーキだった。使い捨てのフォークも付いていたから、あのままベンチに座って食べた。
「普通においしそうだったし……」
「ああ、知ってる。俺にもそのケーキを持ってきたよ。でも要らないって断った。変なヤツだ。いきなり家に来いって食事に誘ってきたりして」
「怪しい人なの?」
「知らないよそんなこと。なんでもリビアで戦火に巻き込まれて、こっちに逃げ帰ってきたらしい。だから悲しそうな目をしてるんだ。知らない人からケーキをもらって食べるなんて、君はどうかしてるよ」
チュニジアで革命が起きてから半年が経っていた。隣国のリビアでは、カダフィ大佐がいよいよ窮地に立たされて、戦闘は日に日に激しくなっていた。私は、少し充血した彼の目と、あのごわっとした手の感触を思い出しながら言った。
「ねえ、彼の家に一緒に行かない?」
「そんな危ないこと、俺はイヤだね。そもそも君の安全を保障できない」
「じゃあ、私があなたの安全を保障すると言ったら?」
「根拠は?」
これといって根拠はなかった。ただ、トルコ人のおかげで、例の彼が伝えたかったことははっきりした。彼はやっぱり食事に誘ってくれていたのだ。それも、家に招いての食事会に。
「女の勘ってところかな」
私は笑ってごまかそうとしたが、トルコ人が全く笑わないので慌てた。
「あと、経験もあるし。こういう経験を割とあちこちでしてきたから。だから一緒に行ってみない? あなたが一緒に来てくれて、アラビア語で会話を助けてくれたら、きっと楽しい食事会になると思う」
トルコ人はしぶしぶ承知した。
昼過ぎに彼がタクシーで迎えに来て、私たちは砂漠の中に建つ彼の家に向かった。正確には彼のお姉さん一家が暮らす家で、お姉さんと大学生の姪っ子が迎え入れてくれた。
「うちに食べにきませんか」は全2回で連日公開予定