三月、浜地は家を出た。外の空気は僅かに湿っぽい。住まいは二十三区内にある戸建てで、三十五のときにローンを組んだものだ。静かに玄関を施錠すると、駅に向かって歩きだした。
まだ桜は開花していないが、目を凝らせば蕾は確認できる。しかしそんな花鳥風月に癒される余裕は、浜地にはまったくなかった。折からの鬱っぽさを誤魔化しながら意識的に大股で歩く。朝の五時半なのに通勤途中にある大通りの交通量は多い。
公共工事だろうか、珍しいことに信号のすげ替え工事が行われている。その間の交通整理は誘導員の手で行われ、そんな早朝の横断歩道で待機するのは、浜地ただ一人だった。思いがけず誘導員と目が合う。同年代らしき中年の男だ。誘導員は少し意外そうに浜地を見返し、浜地はそんなリアクションから、相手を凝視していた自分に気づいた。
誘導員が、ほら、いま渡れと、おいでおいでのように合図をする。浜地はぎこちなく前進しながら、動悸が早まるのを感じた。誘導員が横断歩道の向こう側ではなく、そちら側に自分を誘っているように見えた。
浜地はつい三か月前まで三岸地所の積算部長だった。三岸地所は説明不要と言っていい有名企業で、大規模な都市開発その他を手がける国内随一のデベロッパーだ。当然ながら東証一部上場企業であって、おっと、いまは東証プライムというのだが、旧財閥の大企業なので知らない人のほうが少ないだろう。
駅のトイレに入ると、せっせとスーツのジャケットを脱いだ。脱いだ傍からできるだけ皺にならないように専用の鞄に収める。このネーム入りのオーダースーツは、去年の夏に香港で注文したものだ。取引先に紹介された老舗テイラーで、忘れたころに空輸で届いた。
努めて何も考えないようにしながら、指定の作業着を取り出す。上はベージュの作業ジャケットで、下もベージュの作業ズボンだ。どうして上下ともにベージュなのだろう? わざわざ自分たちのユニフォームがダサいことを世にアピールしてどうする。
ジャケットの左胸には「台島建設」と緑の糸で縫い取られている。格式ばった明朝体なのが見るたびにやるせない。囚人服を着せられているような気分になりながら、紳士靴も安全靴に履き替える。
トイレから出ると、子連れの母親と対峙した。多目的トイレを使っていた浜地は「あ……」と立ち止まった。ずいぶん待たせてしまったかもしれない。この時間帯ならまあいいだろうと、一週間前からそうしていた。
半ば逃げるように擦れ違った浜地は、ピシャリと後ろ手に戸を閉めたその人に、こう言い捨てられた。
「何でお前が使ってんだよ!」
子供がワーンと泣き出した。
その後、浜地は下り電車に乗った。
車内は空席だらけだったが、立ったまま窓の外を眺める。何でお前が使ってんだよ! あの人の憤慨は手に取るようにわかる。こんな早朝から活動してる元気なオッサン、通常のトイレを使うべきだよな。
今朝も眼下の荒川がキラキラと輝いている。あまりに無邪気な太陽の反射っぷりに目を背けたくなるが、そうする僅かなエネルギーすら引き出せない感じだ。どうして自分は下総くんだりの現場勤めになってしまったのだろう? 何でお前が使ってんだよ! と言われても、申し訳ない、それは俺が聞きたいくらいだ。
一時間後、下総某所の里山駅に着くと、地元のバスに乗り換えた。バスには浜地の他に老婆が一人と、廃線が懸念されてならない。窓から嫌でも目に入る光景は、農村、と言ったら怒られるだろうが、少し走ると左右は田んぼ、幹線道路、遠目にラブホ、倉庫、工場、ゴルフの打ちっ放しと、浜地は人生で政令指定都市にしか住んだことのないシティボーイなので、こうした土地では余所者感を覚える。
九つ目の停留所でバスを降りると、そこから三十分ほど歩く。毎朝のように不思議になるが、この停留所は誰のために設けられたのだろう? 田畑はいまはそういう時期なのか、茶色い地面のほうが目立つ。そんな場所に自分がぽつねんと立っているのは、明らかに風景として浮いていた。
なすすべもなく歩を進めながら、今朝こそは誰かと擦れ違わないだろうかと思う。こうも単独行だといよいよ鬱っぽさに拍車がかかってしまいそうだ。しかし案の定と言うべきか、見事なほどに誰とも擦れ違わない。ちらほらと民家は散見されるものの、犬の散歩とかランニングとか、そうした生活者の姿はどこにも見られない。たぶんここって人の歩く道じゃないのだ。物理的には人も歩けるが、文化的に車しか通らない道なのだろう。
まだヘッドライトをつけたままの白い軽トラが、正面から走ってくる。ヘッドライトが浜地を淡く照らし出し、地元の人間と思しきドライバーが、予期せぬ歩行者との遭遇に目を丸くする。浜地は何食わぬ顔で前進しながら、さあ、どうする、と自問した。ここはどう考えても車通勤すべきなのに、こうしてのこのこ歩いているのは、自分はいまも丸の内のオフィスビルで働いていることになっているからだ。
七時半、浜地は「出社」した。地上二階のプレハブ事務所だ。よく工事現場の隅っこなどに見られるコンテナのような容れ物だが、まさか自分がここに詰めることになるとは夢にも思わなかった。
ギシギシと音を立てる外階段を上りながら、新たな蜘蛛の巣に辟易する。事務所の裏手は神社を擁する小山で、そのせいなのか、ペットのごとく蜘蛛の一族が棲みついている。足許には大きな蛾のファミリーもおり、ここは博物館か。
そもそもこれは「出社」なのだろうか……? どうにも違和感が拭えない。「出社」というのは仕事のためにビルなどの恒久的な建物に入ることだ。が、この事務所の土台は二段にしたコンクリートブロックで、二階の外廊下の柵は足場の単管パイプで、どこにも「出社」感がない。
「あ、浜地さん、おはよう」
そうだ、これは「出勤」だろうと、浜地が小さな納得感を得たとき、元請の職員用出入口の前には、小さな影がいた。自分と同じベージュの作業着に身を包んだ七十絡みの爺だ。
「あれ、入らないんですか?」
浜地はALSOKのカードを取り出した。これをピッとやって入室するのだ。
「車にカードを忘れちゃってさ」
浜地はピッと引き戸を開錠すると「どうぞ」と先に相手を通した。事務所から駐車場はやや距離があり、と言っても片道一分に過ぎないが、引き返すのが面倒だったのだろう。
「上田さん、いつも早いですね」
「年寄りは早起きなのよ」
上田はこの現場の「工事責任者」だ。すなわち「里山レイクタウン建設工事プロジェクト」における現場組織のナンバー2だ。薄い白髪をそれでも七三に分け、チャーリー・ブラウンを彷彿とさせる丸顔の上田「工責」は「あー、今日は天気がいいや。よかったよかったよかった……」と唱えながら自分の席に向かった。
「里山レイクタウン」は郊外型の大型ショッピングモールで、この建設工事を受注したのが台島建設である。浜地自身まだ三岸地所にいたころは、アウトレットだのリゾートだのホテルだのマンションだのテーマパークだの、小さな国家ができるかってくらい手掛けてきたが、浜地のやっていたのは積算と呼ばれる仕事、すなわち建設工事にかかる費用をあらかじめ算出する仕事で、このように実際の工事現場に身を投じたことは一度としてなかった。
「あれ、浜地さん、この紐さ、どうやるんだっけ?」
したがって工責にも実際に会ったことはない。が、工責ってもっと厳格というか、いかついオッサンのやるイメージがあったため、言い方は失礼であるが、このマスコットのようなご老体が受け持つのかと初日は驚いた。「プロジェクトX」の観すぎだろうか。
「紐が一杯あってわかんないよ」
事務所内は土足厳禁である。浜地が安全靴を靴箱に収め、スリッパを履いたときには既に、ノースリッパの上田はブラインドの前で自分を呼ばわっていた。浜地は「いま行きます」と応じながらロッカーに荷物を押し込み、パタパタとスリッパの踵を鳴らしつつ上田の許に向かった。
上田の机は事務所の奥のほうにある。いまのところ事務所には二つの島があり、ひとつは工事チームの島、もうひとつは安全チームの島だ。工事の最盛期にはここに二十人近くの人間が詰めることになるらしいが、いまはまだ四人しかいない。
「これですよ、この紐とこの紐」
上田が「これ?」と言いながら「この紐」を引っ張ると、ブラインドの片方が痙攣したように持ち上がり、浜地を嘆息させた。このブラインドは二本の紐をバランスよく引っ張ることで上まで全開になるが、上田はブラインドとの相性が最悪らしく、これを壊しかねない。
「いや、これとこれを交互に……」
確か三日前もこれとまったく同じシーンを同じ爺と熱演したはずだが、ALSOKのカードを忘れた件と言い、この人、大丈夫だろうか? いや、上田本人の心配というより、このような人を工責に据えて、台島はそれでいいのだろうか?
「あー、もうカーテンがいいなあ」
結局、浜地が持ち上げた。
「緑十字のエース」は全2回で連日公開予定