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 大内家という言葉に、空気が張り詰めた。

 豊前ぶ ぜん(現在の福岡県北東部)を巡り、長年にわたって大友家と敵対してきた西国最大の大名家だ。蒲池家も大友軍の与力として干戈かん かを交えてきた。

「当主大内義隆よし たか卿が、筆頭家老である陶隆房すえ たか ふさに滅ぼされた」

 大書院がざわめき、たちまち鎮堯の言葉が聞こえないほどになった。目の前では、兄が呆然と口を広げ、天地が逆さになったと肩を震わす者もいる。

「龍造寺は、いかに動きますか」

 収まらぬ喧騒を遮ったのは、傍らの統光だった。

 肥前龍造寺。少弐家宿老から、肥前の盟主となった名族だ。だが、数年来、家中か ちゆう村中城むら なか じよう水ヶ江城みず が え じようの二つに割れ、お家騒動が続いている。柳川の北に接する龍造寺家の動きは、柳川の乱れに直結する。我が子の冷静な言葉に、鎮堯が小さく首肯した。

「大内の騒動によって、龍造寺は大きく動くであろうな」

「村中の龍造寺本家が、水ヶ江の分家を討ちますか」

「うむ。水ヶ江の分家には、滅ぼされた義隆卿の庇護があればこそ、本家も手出しはできなかった。義隆卿亡きいま、村中の本家は戦備えを始めておる」

「戦となれば、我らはいかに」

 家中の者に理解させるため、大木父子は問答しているようだ。この親子には、独特の呼吸がある。だが、話を断ち切って膝を乗り出したのは、それまで黙っていた兄鎮久だった。

「よい機ではないか」

 手を叩いた鎮久に、大書院の視線が集まった。

「両者が争えば、我らは村中の本家に加勢して、水ヶ江を攻め取るのも一興。肥前の水ヶ江を取れば、筑後において我らをおびやかす者はいなくなるであろう」

 興奮する鎮久に、鎮堯が困ったような表情をした。

「若、不用意なことを申されるな。大殿は軍兵を引き連れて肥後へ出征している最中。我らのみで攻め落とせるほど水ヶ江は容易たやすくありませぬ」

「何を悠長なことを。戦は迅雷が第一。敵が備える前に一揉みにしてやればよいではないか。鎮堯。父にはかることが留守役の務めではないぞ」

 鎮久のあざけりに、鎮堯の顔が怒りで歪んだ。

 にわかに家中の空気がたぎり始めるのを感じた。背を押すような空気を感じ取ってか、鎮久の頬がさらに赤く染まった。

「義隆卿の死を見てみよ。殺すべき機を逸したがゆえ、義隆卿は家臣に討たれて滅んだのだ。今、我らの目の前には手を伸ばせば取れる水ヶ江がある」

 兄の初陣は半年前、勝利の決まった戦での掃討戦だった。兄は三つの首級しゆ きゆうを挙げており、以来その言葉も勇気に満ちたものになっている。それを無謀と止める者もいなかった。

 騒めく一座を見回し、鎮堯がちらりと鎮漣の方を見た。

「十郎様、さきほどからもくされておりますが」

 大書院の視線が自分に集中するのを感じた。一気に頬が熱くなる。そこに鎮漣の言葉を吟味しようという気配はなく、世継ぎにも発言させておくか程度のものだ。

 いつの間にか、手が小刻みに震えていた。

「さすれば」

 取り繕うように白扇を広げ、口元を隠す。緊張から扇の親骨おや ぼねが震えていた。

「水ヶ江の龍造寺隆信殿を攻めることは、やめた方がよいのではないでしょうか。柳川の兵は、先年来戦続き。戦となれば死人も出ます。民が憐れです」

 呆気にとられたような空気が満ちた。何を腰の抜けたことをというような視線の中で、統光だけは安堵したような表情をしていた。

 不意に畳が激しく打たれる音がし、一座が肩を震わせて驚いた。

「それでもそなたは武門の子か」

 正面を見上げると、刀のこじりを畳に打ち付け、立ち上がった兄がいた。思わず知らず、目尻に涙がたまる。

「あの忌々しい隆信めを討ち取る好機なのだぞ。討てば、水ヶ江どころか、勝ちに乗じて村中までもがそっくり手に入るやもしれぬ」

「隆信殿はたけき武士にございます」

 鎮漣の脳裏にあるのは、伝え聞く龍造寺主従の姿だった。

 六年前のことだ。主君少弐家の騙し討ちに遭い、龍造寺一門のほとんどが殺戮され、わずかに生き延びた者が柳川に落ちてきた。当主の首は、少弐家臣によって蹴鞠け まりのように扱われたという。

 当時の龍造寺家は、大友家の敵。だが、父宗雪は、年来の仇敵きゆう てきであった龍造寺家兼いえ かねを捕らえることなく、柳川の一木ひとつ き村に手厚く迎え入れた。

 さて、落ち延びて、襤褸ぼろのような直垂ひた たれを着た一団の中に、その青年はいた。漆黒の僧衣。名は、円月えん げつ。家兼の曾孫である若い僧の風貌は、齢十七にして見る者をかしずかせる威容に満ちていた。

 宝琳院ほう りん いんで修行していた円月は、書を取れば一を知って十を解する名僧だったという。武芸の腕前も、際立っていた。一木村に来た円月と立ち合った鎮久はついに一太刀も入れられず、居候の身に遠慮した円月が、自ら木刀を取り落として場を収めたと言われている。

 その一年後、当時肥前一の名将と謳われた龍造寺家兼は円月に還俗げん ぞくを命じる遺言を残し、水ヶ江龍造寺を継がせた。異例の抜擢だったが、九十歳を超えて戦乱を生き延びた家兼の目は、正しかったのだろう。

 家督を継いだ円月は、わずかな兵力で少弐家の本城である勢福寺せい ふく じじようを陥落させ、っていた少弐冬尚ふゆ ひさを追放してしまったのだ。父祖の仇である馬場頼周ば ば より ちかをも、一戦で討ち取り、晒し首にしている。あまりにも鮮やかな戦ぶりに、筑後中が円月という鬼才の登場に恐れおののいた。

 その円月こそ、龍造寺隆信という若武者だった。

「私は、隆信殿に勝てるとは思いませぬ」

「うつけめ。誰がお主に勝てるなどと言った」

 兄の舌打ちが響き、鎮堯がとりなすように手を広げた。

「大内家の変事を受け、近く大殿が帰還される。それまでおのおのがた、かたく領内の守りを固めていただくよう」

 鎮堯によって評定の終了が告げられると、統光と鎮漣を残して大書院から家臣たちがいなくなった。

 いまだ鎮漣の膝の上で震える白扇を見て、統光が口を開いた。

「十郎様のお考えは間違ってはおりませぬ。戦続き。柳川では、米の収穫も減っております。今は領内をしかと固めるべき時でございましょう」

「家中の者からは、懦夫と思われたであろうな」

「今に始まったことではありますまい。それに、あの場にあって柳川の民のことを考えていたのは、十郎様だけでございました。よくぞ言葉にされたと存じます。そろそろ、震えをお収めください。敵が来れば、この統光が守りますゆえ」

 そう言うと、統光が微笑んだ。

 

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