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一 鎮漣

 

 天文てん ぶん二十年(西暦一五五一)──

 灰色の空から、強い風が吹いた。

 龍神の息吹だ――。

 筑後国柳川の町を行きかう者が誰ともなく呟き、水路を行く船頭はかいを強く握りなおした。城下には、無数の水路が縦横じゆう おうに通り、舞鶴とも称される見事な柳川城を十重と え二十重はたえに囲んでいる。溢れんばかりの水路の逆巻きは、天の荒々しさに呼応しているようだった。

 立つこともままならないほどの風は、やがて城下から筑紫ちく し平野へと広がり、黄金色の稲穂を横殴りに倒していく。

 

 ──応仁の乱より始まる戦国という時代が、いつをもって終わるのかには諸説ある。しかし、誰が終わらせたのかといえば、戦国三英傑の一人、豊臣秀吉とよ とみ ひで よしであることは周知の事実だろう。

 天文二十年という年は、織田信長お だ のぶ ながが、織田弾正忠家だん じようの ちゆう けを継ぐ前年。のちに江戸幕府を開き、二百六十年余の天下泰平をもたらす徳川家康とく がわ いえ やすが、数えて九歳の頃であり、いまだ戦乱を終わらせる者の気配を、誰も感じ取ることはできなかった時である。

 天下泰平の兆しは分厚い曇天どん てんに遮られ、遠く西海道に目を向ければ、のちの九州三国時代を彩る大友宗麟おお とも そう りん島津義久しま づ よし ひさ龍造寺隆信りゆう ぞう じ たか のぶらも、二十歳前後の青年時代。西海道の覇を胸に抱き、届かぬ曇天を遠く睨みつけていた頃である。

 筑後柳川は、西海道を縦横に往来する時、必ず通らねばならぬ要衝。大友、龍造寺、島津の若獅子たちが、大望を成すためには、避けては通れぬ地であった。

 城主は、義心ぎ しん、鉄の如しと謳われる名将蒲池宗雪そう せつ。彼のいる間は、何者の手出しもできぬことを、若獅子たちも分かっている。それでも彼らがほくそ笑むのは、宗雪の子が、姫若と名高いうつけ者であったからだろう──。

 

 蝉の声はいつしか消え、八月も半ばを過ぎていた。

 陽は中天に昇った頃であろうか。曇天の下、吹き荒れる風の中で、蒲池十郎鎮漣はしたたかに転び、膝を擦りむいた。薬師小路を越えて、坂本小路まで来たところだった。

 小ぎれいな黒の肩衣かた ぎぬの背には左三巴紋ひだり みつ ともえ もんがあり、整った顔には歳相応の幼さがある。かぞえて十二歳。戦乱の時代の世継ぎとしては、その人相はいささか迫力に欠ける。今年元服を迎えたが、いまだ当人にその自覚はなく、すぐに目を真っ赤にはらすのは、童の頃から変わっていなかった。

 涙を隠そうとうつむいた鎮漣の前に、影が一つ伸びた。

「十郎様、お手を」

 そう言って右手を差し出したのは、大木統光おお き むね みつだ。几帳面を絵に描いたような男で、総髪を椿油で綺麗に撫で固めている。春風を思わせる顔立ちは、町娘からの評判も高いが、本人は気にすることもなく、浮いた話一つない。かぞえて二十歳。柳川城主である蒲池宗雪から鎮漣の傅役もり やくを任された器量は、同輩の中でも抜きんでていた。

「もう歩けぬ」

 またかというように、統光が短く息を吐きだした。

「民が見ております」

「この痛みを抱えて歩けというなど、統光は鬼じゃ」

案山子かかしでも鬼でも天魔でも構いませぬが、立っていただかねば。強い風でした。まだ身体の細い十郎様が転ぶのも無理はありませぬ。恥ずかしがらず、お立ちください」

 苦し紛れの慰めだった。同い年で、風ごときに転ばされる者などいない。頬が熱くなるのを感じながら、鎮漣は地面を叩いた。

「この道が悪いのじゃ。でこぼこで歩きづらい」

「足腰のよい鍛錬になりましょう」

「戦ばかりにかまけて領内を整えぬから、こうして怪我する者が生まれる。見よ。血が出ておるではないか」

 顔を上げると、そこには困った表情をする統光がいた。この顔をする時の統光は、話が長い。地面に胡坐あぐらして、鎮漣は唇を噛んだ。

「十郎様が大きくなれば、領内の備えにも力を入れましょう。それに、かような擦り傷で涙を目に浮かべていては、戦場で困りますぞ」

「う、浮かべておらぬ。戦場にも出ぬ。困りはせぬ」

「などと、無茶を言うものではありませぬ。今もまさに大殿は肥後ひ ご(現在の熊本県)の菊池きく ち征伐の真っ最中にございましょう」

「戦場ならば、兄上が行くといつも言っておるではないか。よいか、統光。何事にも人には向き不向きがある。戦場で輝くのは、兄上でよい」

「鎮久様は兄君なれど、正嫡せい ちやくは十郎様。いずれ、蒲池の老臣たちを率いて戦場に出るのは十郎様なのです」

「あ奴らは、嫌いだ。口を開けば戦のことばかり。それに知らぬのか。斬られれば、人は死ぬのだぞ」

 呟くと、統光が首を左右に振り、羽交い絞めにするようにして鎮漣を立ち上がらせた。

「それも幾度となく聞きました。老臣たちを嫌うのは構いませんが、せめて民に不安を抱かせぬようにしていただきませぬと」

 通りをゆく民は、鎮漣と統光を見て、いつものことだと薄く笑いを浮かべている。

 姫若殿、はようお城へ戻りなされ。

 聞こえてきた野太い声に、統光が丁寧に頭を下げた。心配しているというよりも、揶揄の響きが強い。黒い手拭いを頭に巻いた男児に背を向け、鎮漣は歩き出した。

 城を北に出て、崇久寺そう きゆう じへ向かうと、そこには山のように書が積み上げられていた。六韜三略りく とう さん りやくなど唐国から くに伝来のものから、貞永式目じよう えい しき もく万葉集まん よう しゆうなど日本古来のものもある。刀の修錬よりは好きだが、だからと言って真面目に取り組むほどでもない。

 早朝に来ることを命じられていたが、父が戦で不在の今、毎日のように刻限を破っていた。師を務める僧も呆れ果て、いまや言葉を交わすこともほとんどない。

 広庇ひろ びさしに足を投げ出して三略をめくると、黴臭かび くさい匂いが鼻を衝いた。

 顔をしかめて書を閉じた時、門をくぐるあでやかな姿の女性が目に入った。だいだい色の小袖姿。母、貞心院てい しん いんだ。鎮漣に気づいたのだろう。束の間、ばつの悪そうな表情をした母が、取り繕うように怒りを貼りつけて近づいてきた。

「十郎殿。師の言いつけを守っておらぬと聞きました」

「いえ、今朝は腹の具合が悪く」

「黙りなさい。言い訳など見苦しい」

 甲高かん だかい声で吐き捨てた母が、眉間を指でつまんだ。その目尻にはうっすらと皺が伸び始めている。

「刀や弓では、鎮久殿に及ばぬのです。せめて文の道で人並みとなれば、蒲池の家に頼らずとも生きていく術もありましょう」

 

「戦ぎらいの無敗大名」は全4回で連日公開予定