序
謡曲「烏帽子折」
鼓の音が一つ、二つ、響いた。
東の空は、まだ昏い。鼓の音は少しずつ速くなり、静かな空気を砕いてゆく。胴張りの柱の傍ら、瞼を落とした翁の鼓を打つ手は激しく、低い声が四方の篝火を揺らした。
汚れた扇を身体の正面にまっすぐに突き出す。震える扇の先には、海神を祀る與賀社の鳥居。
「届かぬか」
鳥居の陰に現れた夥しい兵の姿に、蒲池十郎鎮漣は静かに呟いた。涼しげなその目元には、篝火の朱が差している。
増え続ける兵は千を超え、尽きる気配はない。
狙いは、この命、ただひとつ。
境内の舞台に立つ鎮漣を、柳川から付いてきた二百人の家臣たちが見上げている。彼らの耳にも、玉砂利を踏みしだき、近づいてくる敵兵の足音が届いている。裏切りに歯噛みする者、静かに太刀の柄に手を添える者がいたが、ただの一人も怯えた表情はしていない。
「皆、勇ましいな」
もしかすると、自分がもっとも怯えているのかもしれない。
そう思うと、苦笑がこみ上げてきた。
鼓を打つ翁は、いまだ目を閉じている。早鐘のような乱れ打ちに応じて、鎮漣は身体を大きく回した。笛の音が、鎮漣の扇がおこした風によって霧散する。
殺意のこもった足音は、今や四方から迫っていた。目に見えるだけでも、すでに二千ほどに増えている。敵の周到さを考えれば、さらなる大兵が遠巻きに包囲していることは間違いなかった。こちらの手兵は、舞台を囲む二百のみ。
目を閉じ、檜の床を踏み抜いた。
弾けるような音が境内に響き、麾下の視線が、鎮漣に集中する。鼓の音がやがて静かになり、笛の音が糸を引くように消えた。静寂の中で、目を開けた。
「公は、私をひどく恐れているらしい」
遠く、迫ってくる敵の足音が止まった。正面に並ぶ弓兵が、次々に火矢を構え、一条の炎が闇の中に現れた。
腹違いの兄鎮久が、舞台のすぐ下で立ち上がっていた。黒々とした虎髭の下では、微笑んでいるのだろう。ひっさげた金剛兵衛の太刀は、篝火を受けて小沸が綺羅星のごとく輝いている。鎮久の左右に座る者たちが、一人立ち、また一人立つ。全てが立ち上がった時、柱の傍らの翁が、鼓を置いた。
皺だらけの顔の真ん中に二つ、皺と見紛うような細い目が鋭く光った。
「願いは、必ず届きましょう」
慰めの言葉は無用。そう口にしかけたが、翁のあまりに強い瞳の光に、鎮漣は言葉を呑み込んだ。
「お主が届けてくれるのか」
「老骨に無理を言うものではございませぬ」
からからと笑った翁の言葉に、家臣たちの頬が綻んだ。
「弱き者を救い、決して裏切らず。殿の貫かれた蒲池の義は、殿によって天下に知れ渡りましょう。蒲池の義が天下を蓋う時、戦乱が已む時にございます」
「天下を蓋う、か」
そう口ずさみ、鎮漣は扇を閉じた。いつの頃からか、己を欺くために持ち出した扇は、擦り切れ、ところどころ千切れている。新たなものを勧められたが、その気にならなかった。扇が壊れた時、願いが叶うという淡い祈りもあったかもしれない。
今が、その時なのだろう。
蒲池鎮漣の義を、あまねく天下に知らしめる時だ。
西海道(現在の九州)の多くの武士が、鎮漣のことを、懦夫と蔑んできた。姫若と揶揄し、父を見殺しにした卑怯者と罵倒し、主君を裏切った不覚者と憎しみに満ちた瞳を向けてきた。だが、ここまで付き従ってきた者たちは知っている。鎮漣が、民の平穏をひたすらに願い続けてきたことを。後ろ指をさされようとも、その生き方を変えなかったことを知ってくれているのだ。
筑後(現在の福岡県南部)中が敵となっても、彼らは鎮漣を見捨てなかった。大友、龍造寺、島津の天下となった西海道にあって、独立独歩を宣言した鎮漣を、多くの者が、気が触れたのだと言った。一人、また一人と去っていく中で、鎮漣に付き従ってきた。
この者たちもまた、蒲池の義を、世に現す者たちだ。
不意に、四方から太鼓の音が響いた。
天地を震わし、木々を騒めかせる。お前たちは、逃げられぬ。そう言っているようだった。数千の喊声が広がり、舞台の柱が軋みをあげた。
参道を塞ぐように、槍を構えた兵が並び、じりじりと近づいてくる。その背後には、弓を引き絞る兵が雲霞のごとく連なっていた。花杏葉紋の小星兜。幾度となく見てきた甲冑だ。武士が一人、馬上から鎮漣を見つめていた。距離は、一町(約一〇九メートル)も離れていない。
「かような時も、笑えぬ。その身も、辛いな」
童の頃から、時に手を取り、時に刃を交えてきた。同じ人を愛し、ともに同じ道を信じて歩んできた。
勝利を確信し、勝利に絶望する友の顔に、鎮漣は首を左右に振った。
「我ら、蒲池の勝ちだ」
直後、敵陣の友が手を振り上げた。
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