母親と暮らすようになったのは萌が生まれる少し前のことだった。二十歳で服飾の専門学校を卒業したあと、玲奈はアパレル系の会社に就職し、同時に家を出た。別段、母親との関係が悪いわけではなかったけれど、就職したら家を出るのは玲奈にとって自然の流れだった。学生時代にバイトで貯めたお金で小さなワンルームマンションの部屋を借り、少ない給料をやりくりして、少しずつ自分好みの家具や食器をそろえた。生活は楽ではなかったけれど、部屋に好きな音楽を流して、ベランダで育てているハーブでお茶を淹れ、休みの前の日には夜更かしをして、アイスクリームを食べながら録画していた映画を観る。贅沢ではないけれど、十分に豊かな暮らしだと感じていた。
一人での生活にも仕事にも慣れてきたころ、職場の先輩に誘われて初めて六本木のクラブへ行った。それまでも数度、渋谷のクラブには行ったことがあったけれど、六本木は年齢層が高いのか、どこか落ち着いた大人の雰囲気が漂っていた。そこに集う彼らの会話には、聞いたことのある著名人の名前がまざり、玲奈にはわからないスケールの大きな仕事の話や桁違いの金の話がごく自然に飛び交っていた。
刺激的だった。こんな世界があるのかと驚き、ざわついた。同時にこれまで大切にしていた自分の生活が色あせて見えてきた。財布の中にスーパーやドラッグストアのポイントカードを入れていることが恥ずかしくなり、気に入っていたはずのワンピースが田舎くさく見えた。ベランダに並べてあるハーブもキッチンにある豆苗も、ただ貧乏くさいものに感じた。
萌の父親と知り合ったのは、その頃だった。
玲奈より八つ年上で、ネットビジネスをしていて羽振りがよく、周りにはいつも人が集まっていた。玲奈は端の方で眺めているだけだったけれど、何度目かに店で会ったとき食事に誘われた。これまで親しく話したこともなく、まさかと驚きながらも、玲奈はうなずいた。連れて行かれたのは、玲奈でも聞いたことのある有名なフレンチレストランだった。料理も窓からの景色もお酒も、そして彼の会話も、どれもパーフェクトだった。なにより、さりげない気遣いや優しさは、彼にとって自分は特別な存在なのだと思わせてくれた。
何度か食事をするうちに自然とキスをし、からだを重ねた。彼に愛されているという実感は玲奈の自信になった。自分は特別な人間になった。人としてのランクがいくつもあがった思いがした。
錯覚だったと気づいたのは、妊娠してすぐのことだった。子どもができたとわかったとき、玲奈は少しの不安をおぼえながらも、幸福感で満たされていた。セックスをするときはたいがい避妊をしていたけれど、何度か避妊をせずに受け入れたことがある。ベッドの中で彼に子どもが欲しいと言われたからだった。そのことばを素直に信じていた。幸せだった。
けれど妊娠を告げたときの彼の反応は、玲奈が想像していたそれとはまるで違った。これまで玲奈に見せていた柔和な表情も、少し皮肉を含んだ自信に満ちたことばのひとつひとつも、玲奈に向けていた熱いまなざしも、そこにはなかった。ひきつった薄い笑みを浮かべながら、視線を泳がせて「まいったな」とつぶやいた。どういう意味? 子ども欲しいって言ってたよね、玲奈が問うと、彼は小さく舌打ちをして面倒そうに玲奈を見た。
「おれ、結婚してんだ。おまえだってわかってただろ」
思ってもみないことばに玲奈はうろたえた。
「だって、子ども欲しいって」
「おまえとの子どもなんて言ってないだろ」
ため息をつき、財布から札束を取り出してテーブルの上に置いた。
「さっさと病院行って片づけてこいよ。勘弁してくれよな、マジで」
そう言って立ち上がると、蔑むような目つきで玲奈を見下ろし部屋を出て行った。
そのあと、玲奈は仕事を休んで部屋にこもった。どうしてもいま起きていることが現実のこととは思えなかったのだ。
数日後、ふと病院に行かなければと気が付いた。子どもは堕ろせと言われたのだ。
財布の中に入れてある産婦人科の診察券を取り出し、スマホをつかんだ。
0、3、番号を押す指が震える。5、3……。
「予約を」
電話に向かって口を開きながら、ふいに猛烈に空腹を感じた。数日の間、食べ物を口にしていない。
『もしもし』ということばを無視して終話マークに指を当て、玲奈はキッチンへ行った。ガス台の上にはビーフシチューの入った鍋がそのままになっている。ふたを開けると、白いカビが生えていた。それをビニール袋に捨てて、ついでに彼が買ってきたケーキとサーモンのマリネもビニール袋につっこんだ。空腹のせいか、あるいは腐敗臭のせいか、何度か嘔吐きそうになった。袋の口を強く縛り、玄関へ持って行き、棚からそうめんを取り出し、二束茹でて食べた。
子どもを産もう。この子はわたしの子だ。
食べ終わったとき、玲奈は決めていた。
お金は返さなかった。彼の職場へ行って投げつけてやろうかとも思ったけれど、金は金だ。汚いお金なんかない。汚いのはそれを汚く扱う人間だ。
臨月になって、母親に子どもが生まれることをLINEした。既読がつくと、すぐに電話がかかってきて玲奈は薄く笑った。電話では話しにくいからLINEしたのにわかっていない。面倒な話はいましたくない。一度切れて、またかかってきた。五度目の着信でしかたなく出た。これ以上無視をしたら母親はマンションまでやってきかねないと思ったからだ。
「玲奈が子どもを産むの?」
それが母親の第一声だった。構えて電話に出た玲奈は思わず笑い、「そうだよ」と答えた。
「わたしが産むの。わたしの子どもだから」
玲奈が言うと、母親は「そう」と言っていったん口をつぐんだ。娘が未婚のまま子どもを産もうとしていることを察したのだろう。それでも玲奈を咎めることも問いただすこともせずこう言った。
「戻ってきたらいいんじゃない?」
一人で子どもを産むことも育てることも、覚悟して選んだことだった。それでも、産院へ行ったとき、夫とともに検診に来ている妊婦を見ると心がざわついた。うらやましい、とは違う。いや、嫉妬もあったのかもしれないけれど、それ以上に不安になった。自分一人も幸せにできない自分に、子どもを幸せにすることなどできるのだろうか、と。
一度芽生えた不安は、臨月になってスイカのように膨らんだ腹と比例するようにむくむくと肥大していった。その不安が、母親の一言ですっとしぼんだ。
萌が生まれたのは、母親の家へ越して一週間後だった。
生まれて一か月の間は、戸惑うことばかりだったけれど、母親がいてくれるというだけで気持ちが楽だった。萌が泣いても、ぐずっても、どこかゆとりがあった。大泣きしている萌を母親と順番に抱きながら「大きな声になった」だの「力が強くなった」だのと話していると、泣きやまないことに焦ることも苛つくこともなかった。
五か月後、玲奈は自宅から近い運送会社に再就職した。出産直前まで勤めていたアパレル系の仕事は残業が当たり前で、子育てをしながら続けるのは無理だと思ったからだ。運送会社の事務の仕事は手取りにすると十五万ほどにしかならなかったけれど、保育園の迎えに間に合うようにあがれることが、玲奈には魅力だった。その頃、ほぼ同時に萌を預ける保育園も決まった。
萌を真ん中に、母親と玲奈。三世代三人での暮らしは穏やかで優しかった。
その母親が亡くなってすぐ、玲奈は母と暮らしていたマンションを出て、近所にある賃料の安いアパートへと越した。マンションの近くにこだわったのは、保育園を移りたくなかったから。これ以上、萌の環境を変えたくなかった。
安価な賃料のアパートに越したとはいえ、運送会社の給料では生活はぎりぎりだった。それでもなんとかやりくりして暮らしていけると思った矢先、勤務先が倒産した。燃料費の高騰とコロナ関連の融資の返済、それに取引先の倒産も大きかったのだと説明を受けた。
新しい仕事を見つけるためにハローワークへ通っていくつか紹介してもらったけれど、どこも勤務時間も給与も以前より厳しい条件ばかりで、子どもと二人で暮らしていけるとは思えなかった。
そんなとき、ハローワークで声をかけてきたのが、高校の同級生だった小山愛未だった。
お茶しようよと誘われて愛未に連れられていったのは、こじゃれた雰囲気のカフェだった。
「こんな所じゃなくてよくない?」
店の入り口で足を止めた玲奈に、愛未は「久しぶりに会ったんだしいいじゃん。おごるからさ」と、中へ入っていった。
財布の中身を心配していることがばれている。そのことに惨めさを覚えながら、おごると言われて半分はほっとしていた。
メニューを見ると、千円以下の飲み物はなかった。「コーヒーを」と言うと、愛未はコーヒーとケーキを二人分注文した。
二人でお茶をするだけで四千円近くかかるなんて、玲奈には信じられなかった。
「大丈夫? 愛未も仕事、探してるんじゃないの?」
思わず立ち入ったことを聞くと、愛未はスマホをスクロールしながら言った。
「探してるよ。でもご心配なく。小金はあるから」
「小金?」
まあね、と愛未はスマホをテーブルの上に置いてくすりと笑った。
愛未の言う小金というのがいくらくらいのことなのかはわからないけれど、腕時計もバッグも高そうなのはわかる。それに、指先のネイルも。
玲奈はグラスの水に口をつけた。
「ホステスしてるんだぁ」
「えっ」水がこぼれた。あわててハンカチを出すと、愛未はおかしそうに笑った。
「そんなに驚く? ふつうだよ」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味なの?」と、愛未に目の奥をのぞかれて、玲奈は口ごもった。水商売に偏見を持っているわけではない。どんな仕事も、……というのは建前だ。どんなに繕ってみたところで、愛未に見透かされているのがわかった。
お待たせしました、とコーヒーと生クリームの添えられたガトーショコラが運ばれてきた。
「おいしそ、いただきまーす」
目の前でフォークをケーキに当てる愛未の指先をじっと見つめながら、いたたまれなくなった。少なくとも愛未は、自分で稼いだお金でコーヒーを飲み、ケーキを食べている。自分はどうなのだ。千円のコーヒー一杯を注文することすら躊躇している。
「食べなよ」
うん、と玲奈はフォークを持った。ケーキを口に入れると、濃厚なチョコレートの上品な甘さが広がる。「おいし」思わずことばがこぼれた。
「よかったら紹介するよ」
えっ、と顔を上げた玲奈に、愛未は口角を上げた。
「仕事、探してるんでしょ。玲奈って童顔だしさ、二十一、二でもいけるんじゃない」
「でも夜の仕事は……わたし、子どもがいるの」
「わたしもいるよ、二人。夫はいないけどね」
愛未はおどけた表情を浮かべて、コーヒーに口をつけ、カップを指で拭った。
「シングルマザーってこと?」
「そっ、母子だけ家庭です」
「お子さんっていくつ?」
「六歳と四歳。上の子が五歳のときからホステスしてるけどね」
玲奈は一度も萌を一人で留守番させたことはない。必要な用事は、萌が保育園に行っている間に済ませているし、母親が亡くなってからは友だちとあそびにいくこともしていない。
「でも、夜はどうしてるの? 愛未が仕事に行ってる間は」
「二人でお留守番。見ててくれる人なんていないし、ベビーシッターは高いでしょ」
「それは、うん」
「でも食事とかはちゃんと用意していってるからね。コンロには触らないように言ってあるし、だれか来ても絶対ドアを開けちゃダメって。『オオカミと七匹の子ヤギ』を何度も読んですりこんだんだ。お母さんですよって言っても開けちゃダメって。開けたら食べられちゃうよ、ってね」
愛未は声をあげて笑った。
「下の子が三歳のときからってことでしょ? 大丈夫なの?」
「平気だよ。まあ、淋しい思いはさせちゃってるけど、そのぶん昼間は一緒にいられるし。だいたい、夜は寝ちゃうんだから親がいようといなかろうと関係ないんじゃない?」
「そうなのかな」
ぼそりとつぶやく玲奈に、愛未はバッグから取り出した名刺をテーブルに置いた。
「うちの店はノルマもないよ。送りもあるし、終電あがりもできるからさ、その気になったらおいでよ。お金の心配だけは確実になくなるよ」
黒地にどこぞの王家の紋章のような飾りの入った名刺を手に取った。
「Bogart」という店名と新宿区歌舞伎町××××という住所のあいだに、高槻リリナと名前が入っている。
だれ、と愛未を見ると、口角を上げた。
「それ、わたしの源氏名」
「あ、そうなんだ」と玲奈がうなずくと、愛未は腕時計に目をやって、「じゃ、行くね。約束があるんだぁ」と立ち上がった。
「ならわたしも」と、立ち上がろうとした玲奈を愛未は制して「いい、いい」と言うと、伝票を手にした。
「ケーキ残ってるじゃん。ゆっくりしていきなよ。ねっ」
「じゃあ、うん」と座り直して、「ごちそうさま」と言うと、愛未は「またね」と右手を小さく上げた。
ホステスって、わたしが? まさかねと薄く笑って冷めたコーヒーを口にした。
――お金の心配だけは確実になくなるよ。
さっきは感じなかった苦みが口の中に広がった。
その一週間後、玲奈は歌舞伎町にいた。
「エリカちゃん、なにかあった?」
着替えをしていると、まいこママがやってきた。エリカは玲奈の源氏名だ。
「いえ、べつに」
そう、と、まいこママは鏡越しに玲奈を見た。
「水嶋さんが心配してたよ。エリカちゃん元気ないんじゃないかって」
水嶋は今日、玲奈が同伴した太客だ。
「……すみません。ちょっと近所の人とトラブっちゃって」
「近所の人?」
「下の階に住んでる人なんですけど、ちょっとうるさい人で」
玲奈が言うと、まいこママはため息をついて、イスに腰かけた。
「前から言おうと思っていたんだけど、あんなアパート早く越しなさいよ。わたしも昔、似たようなアパートに住んでいたけど、暮らしにくいでしょ。壁は薄いし、生活音はだだ漏れだし。エリカちゃんなら、そこそこのマンション借りれるわよ」
数日前、愛未にも同じようなことを言われた。
「知り合いの不動産屋、紹介しようか?」
「あ、いえ、いまはまだ。でもそのときはお願いします」
ママぁーとホールから呼ばれて、まいこママは立ち上がった。
「次からお客様の前ではそういう顔はしないようにね。わたしたちは接客のプロだってことを忘れないで」と、玲奈の背中に手を当てた。
はい、とうなずくと、まいこママは笑みを見せて、「おつかれ」とホールに戻っていった。
接客のプロ、か。玲奈は鏡の中の自分を見つめた。
最近、ホステスの難しさを感じるようになり、同時にどこかやりがいのようなものを感じるようにもなった。それでも、いつまでもこの仕事を続けるつもりはなかった。
いまの仕事をしていると、どうしても朝起きることができないからだ。
保育園にも昼近くになって萌を登園させる日が続き、それがきっかけで保育園とうまくいかなくなった。
同年齢の子どもとあそばせてやれないいまの状況を正当化するつもりはないが、恥じてもいない。ただ、萌に対してだけは母親として罪悪感を覚えている。
それでも、いまはこうするしかない。逆に言うと、いましかこんな生活はできないのだ。小学校は義務教育だけれど、保育園も幼稚園も義務ではない。子どもを保育園に連れて行かないからといって、だれに咎められるでもなく、非難されるいわれもない。「Bogart」は働きやすいし、愛未もいるし、まいこママのことも尊敬している。でも萌が小学校にあがるまでには、昼間の仕事に移りたい。小学生になったら遅刻させるわけにはいかないのだ。それまでにできるだけお金も貯めたいと思っている。
ぽん、とホールからシャンパンの栓が抜ける音がした。玲奈は両手で頬を軽く叩いてバッグを肩にかけた。
西武新宿駅は歌舞伎町の目と鼻の先にある。新宿駅とは離れていて使い勝手が悪いと言われるが、玲奈はコンパクトな作りで、始発駅でもあるこの駅を気に入っている。
終電の一本前の電車に発車間際に飛び乗ると、座席は埋まっていた。揺れる車内を先に進むと、二両目の優先席が空いていた。
壁際の席に座って目を閉じる。電車に揺られている十五分弱のこの時間が一日のうちで一番心地いい。乗客は大勢いるのに、だれも人を気にしていないし、見てもいない。自分もだれのことも気にしなくていい。周囲は他人だらけなのに、不思議と無防備になれる。
高田馬場駅で扉が開くと、どっと人が乗って来た。泥酔しているらしい男子学生が乗車口の隅にぺたんと尻をつけて座りこみ、いびきをかき始めた。このままだと終着駅まで行ってしまうのではないかと思いつつ、自分には関係のないことだと玲奈が目をつぶったとき、「もしもーし」と男の声がした。
「この財布って、おにーさんのじゃない? 落としてるよ」
目を開けると、泥酔男子の前で前髪の長い茶髪男が腰を曲げて、足元にある二つ折りの黒い財布を指さしている。
世の中捨てたものじゃないな、と玲奈が見ていると、茶髪男は「もしもーし」と繰り返して、泥酔男子のまえにしゃがんだ。
「起きないと、おれもらっちゃうよー」
「えっ」
思わず声が漏れると、茶髪男が顔をむけた。視線が合う。と、茶髪男はにへっと笑って、「じょーだんだってば」と、顔の前でばたばた手を振った。
玲奈はなにも言わず口角を上げてみせると視線をそらした。
一瞬でも親切な人間だと思ってしまった自分がちょろすぎる。
「あ、やばっ、ここで吐くなよっ。どこまで行くの? ん? え、どこ? 中井か。じゃあ、あと二駅だから我慢しろよっ。わっ、わわわ」
茶髪男はなにが狙いなのか、まだ泥酔男子をかまっている。玲奈は席を立って、前の車両へ移動した。
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