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 最寄り駅はホームが一つの小さな駅だけれど、そこそこ降りる人がいる。改札のまえでSuicaを探していると、玲奈の横をさっきの茶髪男が通り過ぎて行った。

 同じ駅だったのか、とうしろ姿を一度目で追って、バッグの中からSuicaを取り出した。

 もう店の閉まった静かな商店街を抜けてアパートの前まで行くと、部屋に煌々こう こうと電気がついているのが見えた。中に干してある洗濯物も丸見えだ。

「やだ、もうっ」

 思わず玲奈は顔をしかめた。

 萌には夜寝るとき、怖かったらお布団の部屋の電気はつけておいていいと言ってある。そのかわり、ちゃんとカーテンを閉めるよう約束したはずだ。

 玲奈はつま先で階段を上がって、玄関のドアを開けた。奥の部屋からテレビの音が聞こえる。

「萌、何時だと思って」

 ふすまを開けた瞬間、息を呑んだ。萌が倒れている。

「萌っ!」と抱き起こすと、口のまわりが茶色くよごれて、かすかにアルコールの匂いがした。

 床にチョコレートや包み紙がいくつも転がっている。え、どうして……。

 萌を抱いたままチョコレートの箱を手に取って心臓が縮んだ。原材料名のところにウイスキーの記載がある。

 お酒の入ったチョコレートだ。

「萌、萌、萌起きて」

 萌の頬を軽く叩きながら名前を呼んだ。

「萌、萌っ」

 ぐにゃりとした萌のからだを抱きかかえながら、玲奈は外に出た。カツンカツンカツンと外階段をヒールの音を立てながら下りていく。最後の一段に足をかけたとき、ずるりとヒールがすべり、玲奈は地面でしこたま尻を打った。

「わっ、大丈夫っすか」

 男の声がしてだれか駆け寄ってきたけれど、痛みで動けなかった。すると「何時だと思ってるの!」と、聞き覚えのある女の声がした。

 いま一番会いたくない相手、一階の住人、田岡の声だ。

「マジ、平気っすか」と、男は玲奈の前にしゃがんだ。

「よくこの子、落とさなかったっすね。さっすがおかーさんっ」

 やけにポジティブでなれなれしいこの物言い。どこかで……と玲奈は顔を上げて、あっと口を動かした。

 さっき電車の中にいたあの茶髪男だ。手に食べかけのアイスキャンディーを持っている。

「どうして」

 萌をぎゅっと抱きしめた。

「へ?」

「どうしてここに」

 ストーカーという単語が脳裏をよぎった。

「どうしてって、おれ、ここに住んでるから」

 そう言ってアイスキャンディーの棒をレジ袋に入れて、二階の端の部屋を指さした。

「うそ」

「ホント」

 と、茶髪男が言っていると、田岡のサンダルの音が近づいてきた。

「いったい何時だと思ってるのっ! もう一時過ぎて」

「あ、おばさん、おれのこと知ってるよね。いつも階段うるさいっておれのこと怒るじゃん」

 田岡は顔をしかめた。

「ほらねっ。二〇三号の斗羽と ばっす。斗羽風汰ふう た

 一階三戸、二階三戸、総戸数は六戸という小さなアパートだけれど、玲奈は田岡以外の住人と話をしたことなどなかった。田岡にしても、友好的な関わりではなく、苦情を言う側と言われる側という関係だ。

 近所づきあいなど、面倒なだけだ。

「夜中なのよ。あなたたちとはちがって、常識的に生きている人は眠っている時間なの。そのことをちゃんと認識してちょうだい」

 田岡が言うと、斗羽は「ういっす」と言いながら、「でもいまのは不可抗力っすよ」と玲奈を指さした。

「この人、いま階段踏み外して大ゴケしちゃったんだから」

 ね、と斗羽は玲奈に向かって満面の笑みを向けた。

 ここは笑うところではない。玲奈は田岡に「すみません」と頭を下げ、立ち上がろうとして声を漏らした。右の足首に激痛が走る。

「あ、やっぱ足ひねった? だよね、ぐぎってなってたもん」

 マンガみたいなコケ方だったよ、と斗羽という男はへらへら笑っている。

「階段上れる? おれ、抱っこしてあげるよ」

 いいです! 思わず声をあげた玲奈に斗羽は吹き出した。

「ちがうってばぁ、おれが抱っこすんのはお母さんじゃなくてこっち」と、斗羽は萌を抱き上げた。

「だ、大丈夫です!」

 玲奈は階段の手すりをつかんで立ち上がった。

「ぜんぜん大丈夫そうじゃないけど」と、斗羽は「ん?」と萌の額に手を当てた。

「返して!」と、萌に腕を伸ばしたもののよろめく玲奈を、田岡が支えた。

「意地を張るのはおやめなさい。この子を抱いて歩けるの?」

「余計なことをしないで」

 玲奈は声をとがらせて田岡をにらんだ。

「あらそう。あなた、その子をこの人に返してやんなさい」

「けど、なんかこの子、顔火照ほてってるみたいだけど……。もしかして病院に連れて行こうとしてたとか?」

 斗羽が言うと、田岡はつっと玲奈の頭から足元まで視線を流して顔をしかめた。

「子どもが具合悪いのにまた一人にしておいたの!?」

「違います!」

「なにが違うの? どうせ大したことじゃないだろうって放っておいたんでしょ。いい? 子どもはね、急に体調が悪くなったりするの。母親ならそれくらいのことは」

「だから病気なんかじゃ……あなたには関係ありません」

 玲奈が視線をそらすと、田岡は斗羽が抱えている萌を覗き込んだ。

「斗羽さんでしたっけ。いいからこの子をこの人の部屋まで運んであげてちょうだい。二〇一号室よ」

「りょーかいっす」

 と、階段に足を乗せた斗羽に「だめ!」と玲奈が声を荒らげた。

 へっ? と振り返る斗羽に、「病院へ、連れて行かないと」と玲奈は唇を噛んだ。

「お酒を……ウイスキーボンボンを食べちゃったんです」

 まっ、と田岡はあわてて萌の顔に手をあて、手首をとって息をついた。

「呼吸はしっかりしているし、脈拍も問題なし。家で寝かせて様子をみてもいいと思うけど」

「おれもおばさんにさんせー」という斗羽を無視して、玲奈は田岡をにらんだ。

「そんなこと、どうしてあなたにわかるんですか」

「看護師だったのよ」

 そう言って田岡は斗羽に向かって、早く連れて行って、とばかりに手を動かした。

 玲奈は田岡に小さく頭を下げて、階段の手すりにしがみついた。

「本当に迷惑なんだから」

 田岡は大きく息を吐いて、玲奈の腕を肩に回した。

「だ、大丈夫です、わたし」

「これ以上面倒なことを言わないでちょうだい。わたしだってしたくてしてるわけじゃありませんからね」

 そう言うと、田岡は玲奈を支えながら階段に足を乗せた。

 

「これかぁ」

 斗羽は萌を布団に寝かせると、床にあるチョコレートの箱を見た。

「あの、ありがとうございました」

 玲奈の声に斗羽はにっと笑った。

「おかあさんも、足首、早く冷やしたほうがいいよ。氷ある?」

 いえ、と答えると、斗羽は玄関先に立っている田岡に笑顔を向けた。

「おばさんちに氷ってある?」

「ありますよ」

「ラッキー、なら持ってきてくんないかな」

「わたしが?」

「い、いいです、そんなことまで」

 玲奈があわてて首を横に振ると、斗羽は田岡に向かって、ぱちんと両手を合わせた。

「あなたのうちから持ってくればいいじゃない」

「だって、おれんちの製氷機ぶっこわれてるし。あ、湿布ならあるよ。持ってこようか」

 斗羽が玄関まで出ていくと、「湿布も持ってくればいいのね」と、田岡はふてくされたように階段を下りて行った。その後ろ姿を見送りながら、「あのおばさん、なんやかや言ってめんどーみいいよね」と、おかしそうに斗羽は言い、玲奈は薄く笑った。

 

 ――次にこういうことがあったら、児童相談所に通報しますよ。

 

「おーい、おかあさーん!?」

 はっとして玲奈が顔を上げると、斗羽と目が合った。

「大丈夫?」

「……大丈夫です」

「ならいいけど」と、斗羽は床に散らばっているチョコレートと包み紙を拾い、箱に入れて玲奈に渡した。

「こんなに」

 箱の中を見て玲奈がつぶやくと、斗羽は肩を上げた。

「八個食べてんね」

 食べ過ぎないように言ったのに。いつもの萌なら、こんな食べ方はしないはずだ。なんで……と布団に寝ている萌を見て、へその奥がきゅっとした。空腹だったからだ。

「……のほうがいいっすよ」

「え、あ、ごめんなさい。いまなんて?」

「だから、足、れがひかなかったら病院行ったほうがいいっすよ。足首のねん挫ってちゃんと治さないと癖になるし」

 はい、と玲奈は笑みを作って、ちらと斗羽を見た。

「あの人、通報とかしないですよね」

「児相に?」

 斗羽のことばに玲奈はぎょっとした。通報と言っただけで、「児相」などということばが出るものだろうか。ましてやこの若い男の子の口から。

「児相って」

「児童相談所のことだけど」

「ええ、はい、それはわかりますけど……」

 てっきり斗羽から返ってくることばは、「なんで?」だと思っていた。だからこそ玲奈は尋ねたのだ。こんなことはたいしたことではないと安堵したかったから。

「まだお若いのによく知ってるなって」

 動揺を隠すように玲奈が営業向けの声音で言うと、斗羽はにっと笑って親指を立てた。

 どういう意味だろう……玲奈が戸惑っていると、「持って来たわよ」とドアが開いた。

「サンキュっす」

「氷嚢もあったからついでに」

「うわっ、おばさんめっちゃ気がきいてんじゃん!」

「しっ、いま何時だと思ってるの。もう一時過ぎているのよ」

「あ、そっか」と、斗羽はへらへらしながら、受け取ったものをダイニングテーブルの上に置いた。

「しばらく氷で冷やして、寝るときには湿布ね」

 玲奈はこくりとうなずいて、「ありがとうございます」と頭を下げた。

「んじゃ」

「あ、はい。いろいろありがとうございました。田岡さんも」

 そう言ったあと、田岡に対して付け足しのような言い方になってしまったことに気が付いたけれど、いまさらどうしようもない。

 じゃ、とスニーカーに足を入れながら斗羽は振り返って、ダイニングテーブルの上のチョコレートを指さした。

「箱ごと渡しちゃダメだよ」

「……食べ過ぎないようには言ったんです」

 つぶやくように玲奈が言うと、「あなたね」と田岡が斗羽を押しやった。

「子どもっていうのは際限がないの。おかしを箱ごと渡すなんて常識外れもいいところですよ。母親なのにそんなこともわからないなんてね」

 玲奈は唇を噛んだ。言っていることは間違ってはいない。面倒もかけた。それでも、赤の他人に常識外れだの、母親としての資質を問われるようなことを言われる筋合いはない。

「でも」

「子どもだけじゃねーしっ」

 玲奈のことばに斗羽の声がかぶった。斗羽は小学生の子どものように唇を尖らせて田岡を見た。

「箱ごと食ったらアウトなのって、子どもだけじゃねーから」

 田岡はあんぐりと口を開いて斗羽を見ている。

「おれもポテチとか袋ごと食ってると、半分にしよう! って思ってても気づいたら空だかんね。この間なんてさ、レディーボーデン、気づいたら完食してたし。おばさんもあんでしょ? 人間の意志なんてそんなもんなんだって。おれとか、マジで大谷にはなれないと思う」

 大谷って……メジャーリーガーの? ふざけているのかとまじまじと斗羽の顔を見たけれど、斗羽はいたって真剣に話している。電車の中ではおせっかいな子なのかと思えば、置き引きかと疑われるようなことを口走るし、かと思えば、萌の状態に気づいたり、児相なんてことも知っている。

「なにをしても、あなたは大谷さんにはなれませんよ」

 鼻を鳴らす田岡に、斗羽は肩を上げた。

「べつにいーけど、おれ、野球よりサッカーのほうが得意だし。あ、おかーさんさ、チョコの箱は子どもの手の届かないところに置いとかないとだめだよ」

 ぐるっと回って玲奈に話が戻って来た。

「あのチョコは処分します」

「えっ、捨てんの? もったいないじゃん」

「でも、もう見たくないし」

 と、斗羽がじっとテーブルの上の箱を見つめている。

「……よかったら持っていかれます?」

「いかれます!」

 勢いよく答えて斗羽は箱を手に取ると田岡に向かってにっと笑った。

「もらっちった」

「あら」と田岡は玲奈を見た。

「ここのチョコレート有名よね。一粒五百円くらいするんじゃなかったかしら」

 と玲奈に視線を動かした。

「たかっ! マジっすか」

「相場よ」

 田岡が言うと、斗羽は手にした箱をまじまじと見つめてから、上目遣いに田岡を見た。

「もしかしてこのチョコ、おばさんも欲しい?」

「いりません」

 即答した田岡に斗羽は「よっしゃ」と小さくこぶしを握った。

 

「ママ、ママ」

 萌の声で目を覚ました。起き上がろうとからだを動かした瞬間、足首に痛みが走ってうめき声が漏れた。

「ママ?」と萌が心配そうな顔をして玲奈の顔をのぞきこんだ。

「おはよう。ママね、昨日転んじゃったの。ドジだよね」

 足首をかばいながら起き上がり、萌の顔を見る。

「萌、気持ち悪いとか、頭痛いとかない?」

「おなかすいた」

 よかった、と玲奈はほっとして萌の髪をなでた。

「なにか食べたいものある?」

「ハンバーグ!」

「ハンバーグ? じゃあ今日の夜ごはんはハンバーグにしよう。目玉焼きものせちゃおうか」

 やったーと立ちあがり、飛び跳ねる萌の手を玲奈はあわてて握った。

「お部屋のなかでぴょんぴょんはダメでしょ」

「そうだった」と玲奈の顔を見て、おどけたような顔をしながらピンク色の舌をのぞかせた。母親が本気で怒っているわけではないと感じたのだ。

 最近、萌は玲奈の顔色を窺うようになった。顔色を見て、いまどう反応すべきか反射的に判断する。ここはおどけるべきか、神妙な顔をしたほうがいいか。いつ頃からそんなことをするようになったのか定かではないけれど、母親と三人で暮らしていたころは、気になったことなどなかった。

「ママ?」

「あぁ、ごめんごめん。じゃあまずは朝ごはんにしようね」

 右足をかばうようにして立ち上がり、布団をたたんだ。仕事のある日は、部屋の隅に二つ折りにして出しっぱなしにしているけれど、休みの日は押入れに片づける。休みの日だけでも部屋の中を整えることで、まっとうに暮らしていると思えるのだ。

 カーテンをあけると、正面の木から、カラスがひと声あげて飛び立った。

「まだ六月なのに今日も暑くなりそう」

 朝食を終えると、萌はいつも通りテレビの前に座ってアニメ映画のDVDを観はじめた。玲奈はスマホで近所にある整形外科を探した。朝からなにもしなくてもうずくように痛み、腫れもひどくなっている。これではヒールなど履けない。休みなのに萌を公園にも連れて行ってやれないのは心苦しいけれど、とりあえず仕事が休みでよかったと玲奈は足首に手を当てて顔をしかめた。

 バレッタで髪をまとめ、「病院行ってくるね」と言うと、テレビの前で萌が振り返った。

「びょういん?」

「そう、ママの足、腫れてるでしょ」

「ちゅうしゃする?」

 自分のことでもないのに不安そうに言う萌がかわいくて、玲奈は笑った。

「どうかな、たぶんしない」

「よかったね」

「そうだね」

 ひょこひょこと右足をかばいながら玄関へ行くと、「もえもいく」とテレビを消してとんできた。

「病院なんか行ってもおもしろくないよ」

「いっしょにいく」

「じゃあお洋服着替えて、歯磨きをしておいで」

 わかった! と声を弾ませて萌は洗面所へ行った。

 病院の帰りにアイスクリームでも買って、公園で少しあそばせてあげようかな、と冷房を切った。

 階段の手すりにすがりつくようにしてゆっくり下りていく。「がんばーれ、ママがんばーれ」と階段の下で萌がキーの高い声をあげている。

 階段を下りるだけで背中に汗が流れた。萌もすでに頬が赤くなっている。

「萌、やっぱりお留守番していたほうがいいんじゃない? すごく暑いし」

 ううん、と萌はかぶりを振って、玲奈の手を握った。

 ゆっくり、ひょこひょこと足を引きずりながら歩いていると、角にある公園から黄色い帽子をかぶった子どもたちが出てきた。どこかの保育園の子どもたちなのだろう、大きなリュックを背負った保育士を先頭に、二列に並んで楽しそうに歌いながらこっちへ歩いてくる。

 萌が玲奈のうしろにしがみつくようにかくれた。

「こんにちは」

 すれ違い際、保育士が笑顔で言うと、黄色い帽子をかぶった子どもたちも保育士の真似をして、「こんにちはー」「こんにちは」「こんにちはっ」と声を張り上げる。

 萌は玲奈のうしろでかたまっている。玲奈は保育士に笑顔で会釈した。

「どうしたの? 恥ずかしかった?」

 すれ違ったあと聞いてみると、萌はこくりとうなずいて玲奈のスカートを離して手を握った。

 保育園に通っているときも、砂場で一人黙々と泥団子を作ったり、部屋の中でぬりえをしている姿が多いと保育士に言われたことがある。「大勢の子とあそぶのはあまり得意じゃないみたいですね」と言われたときはショックだった。活発な子、意見をはっきり言える子、みんなと仲良くなれる子もいれば、おとなしい子、口数の少ない子、集団より一人を好む子もいる。みんな同じではつまらない、いろいろな子どもがいていい、どれも個性だなどといわれてはいるけれど、やはり前向きな評価をされるのは、活発で友だちが多い子どもだ。子どもだけではない、大人もだ。だからこそ、保育士のことばに心が曇った。萌にダメな子の烙印を押されたような気がした。

 このまま小学校に上がって大丈夫だろうか。ちゃんとついていけるだろうか。仲間はずれにされたりいじめられたりしないだろうか……。テレビの前に座って、ひとりアニメ映画を観ている萌の背中を思い浮かべて心が重くなった。

 

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