「ママ、いたいよ」
「あ、ごめん」
無意識に萌の手を強く握っていた。
角を曲がり、商店街を少し行ったところで玲奈は足を止めた。
「萌、アイスクリーム買ってあげるから、おうちに帰ろ」
「びょういんは?」
萌はあごを上げて玲奈の顔をじっと見た。
「どうせ病院に行っても、湿布を出してくれるくらいだろうし、行かなくてもいいかなって」
「こうえんは?」
「暑いし。また今度にしよ」
「もえ、あつくない」
頬に汗が流れた。
「暑くないわけないでしょ」
「ブランコのりたい」
「アイスクリーム買ってあげるから」
「ブランコは?」
「だから、今度ね」
「こんどって?」
「ママの足が治ってから」
萌はうーん、と言いながら恨めしそうに玲奈を見た。
「ママ、あしたどうぶつえんにいこうっていった」
そのことばにかっとからだが熱くなった。
「どうしてそんなに思いやりがないの?」
低い押し殺した声で言うと、萌はびくりとした。
「ママ、足が痛いんだよ」
どくどくとマグマのようなものが玲奈の内側からあふれてくる。
「何度も言っているよね。言ったよね」
「ごめんなさいっ」
玲奈は萌の手を乱暴に振り払った。
「萌は自分さえよければいいんだね」
一度決壊すると抑えがきかない。メリメリと音を立ててマグマが血管を破る。
「ママごめんなさいっ!」
萌が謝れば謝るほど、縋ろうとすればするほど怒りがこみあげてくる。
「ママがいないときはドアを開けちゃいけないって言ったのに平気で約束を破るし、意地汚くあんなにチョコを食べるし」
「ごめんなさい、ママごめんなさい」
萌が玲奈にしがみついた瞬間、右足に激痛が走った。「いたっ」と玲奈はしゃがみこみ、力任せに手を振り払うと萌は地面に尻もちをついた。
おびえたような顔で萌が玲奈を見つめている。
「ごめん」
玲奈が手を伸ばすと萌は頭を覆った。その瞬間、冷水を浴びたように熱が冷めた。
「萌……」
やばくない?
いまの見た? こえー。
頭上からの声に視線を上げると、通りすがりの人がちらちら玲奈と萌を見ている。
ちがうの、ちがうんです。
やめて。やめて、見ないで。
お願い、もうやめて。
玲奈は、声にならない声をあげた。
「大丈夫?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、同じアパートの斗羽が立っていた。
「あーあ、こんなとこに座ってたらケツよごれるよ」
そう言って萌を立たせて、玲奈に手を伸ばした。
結構です、と立ち上がろうとしてよろめく玲奈のからだを支えて、斗羽は和菓子屋の店先に出ている縁台に座らせた。「おいで」と萌に向かって手をぱたぱたさせて、玲奈の隣に座らせ、「おかみさーん、お茶もらいまーす」と暖簾をくぐって店の中へ入って行く。ほどなくして盆に湯呑茶碗を三つのせてきた。
「ほい」と、斗羽が湯呑を差し出した。玲奈がうつむいていると、萌に「冷たくておいしいよ」と盆を向けた。
萌がおどおどと玲奈を見上げると、「んっ」と斗羽は萌の手に湯呑を握らせて、「お母さんも」ともう一度差し出した。
店の中から「いらっしゃい」の声が聞こえて、臙脂色の作務衣に三角巾姿の高齢の女性が出てきた。
「やっぱり風汰君だ」
ども、と斗羽は頭をちょんと動かした。玲奈が立ち上がろうとすると、作務衣を着たその人は斗羽から盆を受け取って、玲奈に勧めた。
「麦茶飲んでいってちょうだい。ね」
風鈴の音がどこからか聞こえてくる。店先にある水羊羹と書かれたのぼりが小さくゆれた。
すみません、と唇だけ動かして玲奈は湯呑を手にした。それを見た萌は湯呑に口を当てて、「おいしい」と小声で言った。
「すみません、またご迷惑をおかけして」
「あ、おれ? おれはぜんぜん平気っすよ。でもこいつにはごめんなさいしたほうがいいかも」
な、と萌の顔を見ると、萌は視線を下げた。
「あ、そうだ、おかみさん、麩まんじゅう三つね」
「麩まんじゅうね、はいはい」と、おかみが店の中に入っていくと、斗羽は萌に向かってにっと笑った。
「豆庵の菓子、うちの園長が好きでさ、おれ、おつかい」
「えんちょう?」
萌がぽつりと言うと、「そっ」と斗羽はうなずいた。
「園長先生。ちびの行ってる保育園にも園長先生いるだろ」
「ほいくえんいってないもん」
「えっ、ああ、幼稚園か」
「ちがう」
「萌」と玲奈が萌の腕を引いて立ち上がると、斗羽も腰を上げた。
「保育園も幼稚園も行ってないんすか?」
「……いけませんか」
「いけないってわけじゃないけど……お母さんが仕事行ってるときってだれが? もしかして一人で留守番してるとか?」
「だったらなんなんですか」
声が震えた。みんな勝手なことばかり言って……。
「おれ、昨日も思ったんすけど、お母さんめちゃ頑張ってるよね」
玲奈は手にしている湯呑を強く握った。
「あ、すんません。頑張ってるってほめてるわけじゃなくて」
斗羽は、ははっと笑って親指で額をこすって玲奈を見た。
「頑張るって、我を張るっていうことなんだって。我を張るって、張ってる本人はいいけど、周りの人はやっぱ迷惑っていうかさぁ」
商店街を萌と同じ年恰好の子どもとその母親が、つないだ手を大きく前後に振りながら楽しそうに通り過ぎて行った。
「頑張らないように頑張ることもだいじかなって。ちょっと意味わかんないっすけど」
そう言ってへらっと笑うと、斗羽は麦茶を飲み干した。
「だれかに頼るとか、助けてもらうってぜんぜん当たり前だし」
きれいごとだ。所詮はきれいごとの世界だ。
玲奈はじっと足元を見た。頼りにしていた保育園もそうだった。子どものため、子どものことを最優先に考えろと、以前萌を通わせていた園の保育士に何度も言われた。それは正しい。正論だ。保育士は子どものためを思って言ってくれているのだと玲奈にもわかっていた。それでも、玲奈は幾度となく傷ついた。挙句、玲奈に向けられたのは萌に対する虐待の疑いだった。
萌の背中の真ん中が紫色に変色していることに気づいた保育士が、「ママがぶったの?」「ママ、萌ちゃんに痛いことしない?」と何度も萌に聞いたのだと、萌から聞いた。玲奈も萌の背中を見て驚き、どうしたのか尋ねると、園庭でお友だちとあそんでいて、三輪車がぶつかったのだと言った。「わざとぶつけられたの?」と問うと、萌は頭を左右に振った。
「かなちゃん、わざとじゃないよ」
萌の答えにほっとすると同時に、保育士が自分を疑っていたと思うと許せなかった。
玲奈は萌を連れて保育園へ行き、なぜ萌にそんな聞き方をしたのかと問い詰めた。園長と担任保育士は顔を見合わせながら、玲奈の話を黙って最後まで聞き、「誤解をさせてしまって申し訳ありません」と謝罪を口にした。誤解なのだろうか? 気持ちが晴れることのないまま、「帰るよ」とつい萌の腕を強く引いた。そのとき、ぼそりと担任保育士が言った。
「萌ちゃん、かわいそう」
この一言が決定打になった。玲奈はなにも言わず、萌の手を引いて保育園を出て、その日のうちに区の保育課へ退園する旨を連絡した。
頼れる人なんていない。助けてくれる場所もない。萌との暮らしを続けていくためには自分がなんとかするしかない。
「だれに頼るんですか」
玲奈は低い声でつぶやいた。
「だれが助けてくれるんですか」
斗羽は黙って玲奈を見つめた。
「わたし、べつに頼りたくないなんて思っていません。だけど、どこにいるんですか。だれが助けてくれるんですかっ」
「ママっ」と萌は玲奈の腹に抱きつき顔を押し付けた。
「留守番させたくてしているわけじゃありません。でも、預けるところなんてないんだからしょうがないじゃないですか」
「えっ、ないってことはないんじゃないっすか? そりゃあ三歳未満児は相変わらず待機児いるけど、えっと、萌ちゃん? くらいの年ならどこかしらあると」
年、いくつ? と斗羽が尋ねると、萌は指を四本立てた。
「四歳か、だよな。よかったら、おれ保育園探すの手伝おっか」
玲奈は眉をひそめた。
「どうしてあなたが? 関係ないですよね」
「なくはない」
「……はっ?」と、玲奈は数度まばたきをした。
「正確に言うと関係はないけど、なくない」
意味がわからない。当惑している玲奈の背中から、くっと笑い声がした。
「ごめんなさいね、でも風汰君っておもしろい子でしょ」
はい、とおかみが斗羽に包みを渡した。
「彼ね、こう見えて保育士さんなのよ」
そっ、と斗羽は人差し指を自分の鼻先に向けた。
「保育士」
玲奈は目を細めた。なおさら信用できない。爪をはじいて斗羽を見た。
「子ども、お好きなんですね」
皮肉を込めて玲奈が言うと、斗羽は難しい顔をして首を傾げた。
「好きってのとは違うかも。あ、でも、子どもってすげーとは思ってるけど。それよか、おれ、マジで保育園探し手伝うし」
「けっこうです」
玲奈はおかみに向かって会釈して湯呑を返すと、駅の方へ足を向けた。
「ママどこいくの。あし、いたくないの?」
痛いし、自分がどこへ向かおうとしているのかもわからない。ただこの場から離れたかっただけだった。右足をかばうようにしてひょこひょこと歩いて行く。それなのに……。
「待ってってば」と、斗羽がついてきた。
「で、どんな保育園が希望っすか。希望通りの園があるかはわかんないんだけど」
「希望通りの保育園なんてあるわけないです」
「そんなことわかんないっしょ」
「わかります」
玲奈は立ち止まるときっぱりと言った。
「わたし、夜に働いているんです」
「あー、なるほど、そうなんすね」
ほらね、と玲奈は薄く笑った。昼に働いている親への支援はいくつも聞いた。保育課でも、昼間の保育園なら入園できるし、送迎が間に合わない場合は、保育園までの送り迎えをしてもらえるサポートやベビーシッターなどのサービスを使う方法もあると教えてもらった。でも、同じように働いていて子育てをしていても、夜に仕事をしているとなると、いい顔をされない。
「夜間保育園って知んないっすか?」
「知ってます」
夜に働くことを考えたとき、玲奈が真っ先に調べたのは夜間保育園だった。いつだったか、テレビで夜間保育園のルポだかドキュメンタリーだかを見た覚えがあったのだ。それで調べて驚いた。東京都にある夜間保育園は数園だけだった。しかも閉園時間は午後十時や十一時で、深夜、明け方問わず二十四時間開園しているのは一園だけ。さすがに入園は無理かもと思いつつもそれらの園に問い合わせたが、予想通りの結果だった。
「定員はいっぱいだし、どっちにしても十時や十一時までに迎えになんて行けないし」
「そりゃあ十時とかじゃむりだよね」
ほら、と玲奈は萌の手を握った。
「でも、それって認可保育園でしょ」
えっ? 玲奈が視線を上げると、斗羽がくしゃっと笑った。その屈託のない、子どものような笑顔に玲奈は戸惑った。
「認可夜間保育園はホントに少ないんだよね。でもさ、認可外の夜間保育園ならあるよ。午前二時までとか、朝までやってるとことか」
「そんなところがあるわけないじゃないですか」
「あるって。『すずめ』がそうだし」
「すずめ?」
「そっ。『すずめ夜間保育園』。おれが働いてるとこ。認可外だからベビーホテルって言われてるけど」
「認可外の、ベビーホテル……」
「あ、 ベビーホテルってイメージよくないかもだけど、職員は全員保育士の資格持ってるし、うちの園長がさ、とにかくいま困っている親子がいるなら動かないと、って始めたんだって」
「いま困ってる親子……」
そっ、と言って斗羽は汗をぬぐった。
困っている子どもじゃなくて、親子。そんなふうに言われたのは初めてだった。子どもの幸せ、子どもの最善の利益、子どもの将来のために。それは当然のことだ。玲奈も萌を産むと決めたときから、この子を幸せにしたい、幸せにしようと思ってきた。でも……。
玲奈は蒸すような暑い空気を吸い込んだ。
「入園、できるんでしょうか」
祈るようにことばにすると、斗羽はポケットからスマホを取り出して指を動かした。
「お疲れっす。えんちょーいますか」
スマホを耳にあてながら、斗羽は玲奈にいたずらそうな笑みを見せた。
「あ、えんちょー、入園希望のお母さんがいるんですけど。――へっ? 四歳の女児っす。あー、そっすよね、すんません。――りょーかいっす」
スマホを耳から離した。
「すんません、おれ順番とか無視しちゃって」
……やっぱり。一瞬でも期待してしまった自分の甘さに玲奈は苦笑した。そんなにうまい話が転がっているわけはない。
「気にしないでください」
小さく頭を下げて「行くよ」と萌の手を引いた玲奈に斗羽は続けた。
「いつ、見学に来れますかって」
「……えっ」
「だから、まずは見学に来てくださいって。ちゃんと見てもらって決めてもらえって、えんちょーが」
「それって、可能性はあるかもってことですか?」
斗羽は、グッと親指を立てた。
雑居ビルが立ち並ぶ駅前を抜けて十分ほど路地を入っていくと右手に古い二階建ての家がある。午前一時を回るところだけれど、門灯が灯り、部屋の窓からは明かりが漏れている。
門の横にかけられている看板に目をやって、カメラ付きのインターフォンを押すと、『いま開けます』の声と同時に、電子錠が開く音がした。
「お帰りなさい」と、玄関のドアからショートカットの女性が顔を出した。保育士の坂寄千温、萌が「ちはるせんせい」と呼んでいる保育士だ。「ただいま」とハイヒールを脱いで中に入ると、クリームシチューの甘く優しい匂いが鼻腔をくすぐり、玲奈はふっと力が抜けていくのを感じた。
一週間前、萌を連れて初めてここを訪れた。保育園というより、田舎のおばあちゃんの家といった印象だった。逢沢という四十代半ばの園長に園内を案内してもらっていると、萌より少し年下くらいの子が二人やってきて「あそぼ」と萌の腕を引いた。萌は一瞬迷った顔をしたけれど、玲奈が笑みを見せると、「あそぶ」と言って、二人とブロックあそびを始めた。
「萌ちゃん、夜ごはんも残さないで全部食べられました。小さい子のお茶碗をさげるのも手伝ってくれたんですよ」
「そうなんですか」
「はい。すごく助かっちゃって。あ、お母さんからもほめてあげてくださいね」
玲奈は小さく笑みを浮かべてうなずいた。
「じゃあ、萌ちゃん連れてきますね」
ここへ通うようになって萌の笑顔が増えた気がする。そんなことを今日登園したときに言うと、斗羽はにっと笑った。
「おかーさんもっすよ」
えっ、と驚いて、玲奈はそうかもしれないと思った。
――子どもの幸せはね、子どもだけを見てもだめなの。子どもを幸せにするには、親も幸せにならないと。
ここへ来て、最初に玲奈が逢沢園長に言われたことばだ。
目をこすり、あくびをしながら、萌が部屋から出てきた。
「萌」小さな声で名前を呼ぶと、萌は玲奈の方を見て、「ママー」とぱっと笑顔になった。
『すずめ夜間保育園』に入園して今日で一週間。
寝ぐせのついた髪のまま、萌が廊下の向こうから駆けてくる。
「ただいま、萌。おうちに帰ろう」
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