序 タケの決意 Take no ketsui
再び江戸へ行く──。
その思いは日増しに強く、切実になっていった。
五十五歳の時、江戸にタイムスリップしてちょうど二十年。
その間、恋川春町の『金々先生栄華之夢』ではないけれど、会社を辞めてフランスに渡ってそれなりの成功をし、胸を引き裂かれるほどの辛い目にも遭い……、七十六歳になった今では、全ては一炊の、粟餅が蒸しあがるまでの間に見た夢のように思える。
刻一刻と寿命が近づくのを感じるにつれて、願うことはただ一つ。
「やらない後悔だけはするな」
私が経営者となって、仲間たちに一番伝えてきたのがこのことだ。
やらない後悔よりやった後悔。
やって失敗しても、それは「経験」という財産になる。つまりは「成長」が得られるのだが、やらなかった後悔は何ももたらさないため、一生残る分、ゼロではなくマイナス。人生の負担になるのだ。
アメリカで、九十歳以上の人々を対象にしたアンケートで、
「あなたの人生に悔いはありますか?」
と尋ねたところ、九〇パーセント以上の人が、
「もっと冒険しておけばよかった」
と答えたそうだ。これを読んだときから、
「死ぬまでに、絶対必ず、再び江戸に行く!」
と心に決めていた。
『災い転じて福となす』の譬え通り、お稲荷さんの怒りを買って落とされた江戸であるのに、蔦屋重三郎に助けられ、身近で彼の生き様を見られたおかげで、人生最高の冒険ができ、己の天分を生かして仕事をする喜びを知ることができた。
多くの人々に喜んでもらえ、妻とともにたくさん旅をし、孫にも恵まれ、長い時を一緒に過ごすことができた。
だからといって、「あなたの悔いは?」と聞かれたら、「ありません」とは答えられない。
二度目の江戸行きは、「もっと冒険しておけば」の、「もっと」の部分なのだ。
第一章 爺ちゃんの秘密 G─chan no himitsu
タケ爺ってば、こんな夜更けに病院を抜け出して、一体どこへ行く気だろう?
僕はタケ爺と一緒にタクシーに乗って、飯田橋にある大きな総合病院から、スカイツリーがある方角に向かっていた。
僕の名は「Gérard」。みんなは略して「G」って呼ぶ。フランス語は、Gが「ジェイ」でJが「ジー」で、英語と真逆なんでややこしい。
両親は国際結婚ってやつで、パパはフランス人で名前は「Jean」。ママンはタケ爺の娘で「亜里沙」って名前だけど、フランスでもAlyssaはよくある名前なので、比較的こっちの社会に溶け込みやすかったらしい。パリではポピュラーな、北アフリカ生まれの調味料「HARISSA」と発音が近いので、家でクスクスを食べる時に、僕がわざと「ママン、アリサ取って!」なんて言うと嫌な顔をする。
パパが、日本で大人気のパリのアパレルブランドに勤務していた頃、化学繊維会社に勤めるママンと出会って恋をし、結婚した。新婚の頃、パパは銀座店の副店長を任されていたので、二年ほど日本で暮らしていたそうだ。その後、パリの本社に戻ることになり、ママンは仕事を辞めてパリについていって、僕が生まれた。
だからタケ爺は僕のお爺ちゃんってことになるんだけど、「パピー」と呼ばれるのを恥ずかしがって「タケ爺」に落ち着いた。佐和子お婆ちゃんは逆に「マミー」と呼ばれるのを喜んでいる。なんでも日本に昔からある乳酸菌ドリンクに『マミー』っていう名前の商品があって、子供の頃、好きだったんだって。
ちなみにもう一人、僕には家族がいる。三歳下の妹の「Sarah」で、ママンと同じく、フランスでも日本でも通る名前にしたんだって。漢字だと「沙羅」。
僕の名前は、パパ側のパピーの名前を継ぐのが決まりだからって、問答無用で「ジェラール」になったんだけれど、妹の名前はママンが決めた。「亜里沙」の「沙」の字が使える沙羅双樹の「沙羅」。その意味を知った時、
「パパはクリスチャンなのに、仏教の聖樹の名前なんてつけて良かったの?」
ってマミーに聞いたら、
「いいのよ。『聖 ☆おにいさん』じゃ、イエスとブッダが仲良く同居してるじゃない」
軽くいなされた。確かにあのマンガは面白いけど。
「よくそんな理由でパパが納得したね」
呆れて言うと、
「気づいてないんじゃない?」
って。いいのかなぁ。
妹も「沙羅」が気に入っているらしく、わざと漢字で署名したりしていた。僕の名前は漢字にできないから羨ましい。そもそも日本語読みで「ジェ」に当てはまる漢字なんて存在しないんだから。
話を戻そう。
タケ爺の名前は武村竹男。フランスで『日の丸食堂』って店名の、和食のビストロ・チェーンを経営している。
五十代半ばで日本の会社を辞めて、マミーと一緒に、パリの南西にあるセーブルに移住して始めた小さな食堂が、パパが提案した『おぼろ豆腐』でブレイクした(最初は苦労したらしいけど)。それを機に、パパも会社を辞めて店を本格的に手伝うようになり、今やパリを始め、お店はフランスに八店舗ある。
タケ爺は店が軌道に乗ると、早々と経営をパパに任せて自分は顧問となり、マミーと一緒に五年で世界三十カ国以上を旅して回った。秘境にもずいぶん行ったそうで、食いしん坊のタケ爺は、必ず現地の人たちのソウルフードを食べてみないと気が済まないタチだから、たくさん失敗もしたようだ。
青島でヒトデの蒸し焼きを食べた時は、薬が効かないほど食中毒がひどかったらしく、
「だからやめなさいって言ったのに!」
マミーはずいぶん怒ってた。
「だっておまえ、ヒトデが食べられるなんてそれまでは知らなかったし、みんなうまそうに食ってるし、火が通ってるから大丈夫だと思ったんだよ。実際、ヒトデを開くと、それぞれの足に蒸しウニが詰まってるみたいで、味もウニそっくりだったんだ」
腹を抱えてうずくまりながら、言い訳していたらしい。
一度、タケ爺に、
「今まで食べてきたゲテモノの中で、一番美味しかったものは何?」
って聞いたことがある。するとタケ爺は、
「アザラシの目ン玉かな」
と、予想を超える球を投げてきた。
「そんなもの食べたの? どこで?」
「アラスカ」
「北極圏まで行ったの!?」
「ああ、行ったさ。野菜が穫れない分、栄養をアザラシで補うんだそうだ。血も、腸の中身も、寄生虫なんか気にせず食うんだ。貴重なタンパク源だからな」
「で、目ン玉が美味しかった、と」
「秘境ツアーでエスキモーの集落に連れていってもらったとき、歓迎の意味でアザラシを一頭潰して、村長が素手で両方の目ン玉をえぐり出したんだ。一つは自分用で、もう一つは客用。で、透明で野球のボールぐらいの、神経が垂れて血が滴っている目ン玉の一つを『はいどうぞ』って感じで差し出してきた。みんな怖じ気づいて後退ったんだが、せっかくのもてなしを拒否したら、そこでシャットアウトされちまう。そこで爺ちゃんは、意を決して前に進み出たんだ」
「それでそれで?」
僕は身を乗り出していた。
「精一杯の笑顔を作って目ン玉を受け取ったよ。まだホコホコと温かかった。で、どうやって食べるのかと村長を見ると、村長は眼球に直接唇をつけ、思いっきり中身をズルッと啜ったんだ」
「うげーっ!」
いきなり吐きそうになった。僕に限らず、フランス人はヌルヌルした食べ物が苦手だ。ママンは時々、納豆や山芋やモロヘイヤを「お肌にいいのよ」と言って食べるけど、パパと僕は見ないようにしているし、第一あのズルッて濁音を聞くだけで、寒気がして首がすくむ。
ゲテモノの上にナマモノでヌルヌルなんて、三重苦の、もはや拷問だ。
「で、タケ爺も啜ったの?」
「もちろん啜ったさ。もともと、サザエさん家のワカメちゃんと同じで、魚の目玉と唇は好物だし、似たようなもんかと思ってね」
『サザエさん』は知ってる。『日の丸食堂』一号店に、ほぼ全巻置いてあるから読破した(盗まれてはネットで探して補充、を繰り返してる。よくあんなボロボロの本、持って帰るなと思うけど、マニアはいるもんだ)。
タケ爺曰く「高度成長期の、古き良き昭和の日本」が描かれている四コマ漫画で、タケ爺の少年時代はまさしくカツオのように、よく原っぱで草野球をしていた、と何度も聞かされた。ただし冬場は雪と寒さで地面が凍るから、歯のない下駄の裏に細い鉄板をつけ、田んぼでスケートをしていたそうだ。
「で、目ン玉の味は?」
「美味かったんだよ、これが。上品で、旨味の塊のジュレって感じだな。滞在する間にもう一度食べたいと思ったけど、一頭から二個しか取れない貴重品だから、二度目は回ってこなかった。死ぬまでにもう一度食べたいもんだ」
おもむろにタケ爺は、『死ぬまでに食べたいものリスト』と書かれた手帳をポケットから取り出し(常に持ち歩いている)、そこに「アザラシの目玉」と書き加えた。食べてみたいもの、かつて食べた味が忘れられず、もう一度食べたいものが書かれている。リストは食べ終えると線を引いて消されるのだけれど、新情報はもちろん、こうやって思い出しては書き足すので、食べるのが追いつかず、増える一方だ。
「あれもこれも食べたいのに食べきれない。時間のある若い奴が羨ましい」
といつも言っている。
「英語もフランス語も喋れるんだし、ツアーで団体旅行なんて、ウザいだけでしょ?」
「そんなことはない」
タケ爺は即座に否定し、「やれやれわかってないな」という風に、首を横に振った。
「若くて体力のある頃は、一人で気ままな貧乏旅行で経験を積むのもいいもんだが、歳を取ってからの旅は、安全と快適が一番なんだ。それに一人だと一品しか食えん。爺ちゃんはツアーについている食事を食べずに、仲良くなった人たちを何人か誘って、目をつけていたレストランに行って、みんなでシェアすることがよくある」
「食事がツアー代に含まれているのに、わざわざお金を出して、別の場所で食べるの? もったいない」
「そう考える人間は誘わないよ。考えてもみなさい。その国のその街で食事ができるチャンスなんて、二度とないかもしれないんだぞ。その街で一番美味しそうなものを食べないと、悔いが残るじゃないか。こんな時に金を遣うために、爺ちゃんは働いてきたんだ」
Imcroyable(素晴らしい)な食いしん坊だ。
『蔦重の矜持』は全3回で連日公開予定