タケ爺とそんな話をじっくりできたのは、新型コロナウィルスのパンデミックのせいだった。二〇一九年十二月初旬に、中国の武漢市ってとこで最初の感染者が出て、年が明けた二〇二〇年一月にはフランスでも流行しはじめた。三月半ばには学校が閉鎖され、さらにレストランやカフェが閉鎖された。
『日の丸食堂』も当然休まなきゃいけなかったし、閉鎖が解けたところで和食の食材が入ってこないしで、離れて暮らすのは心配だからって、ロックダウンの間、僕らはタケ爺の家で一緒に暮らしてた。やることがなくて、サブスクで映画やドキュメンタリーばっかり観てたっけ。
海外旅行に行けなくなってから、タケ爺は自室にこもるようになった。僕はécole primaire(小学校)の授業はリモートで受けてたから、それ以外の時間はタケ爺の部屋で過ごすことが多く、一緒に日本の古い時代劇を観たりして、たくさん話をする時間があったんだ。
海外旅行が解禁になってからも、タケ爺は旅に出ようとしなかった。しばらく店の立て直しでそれどころじゃなかったし、やっと落ち着いたと思った時にあんなことがあったんだから、誰もそんな気になれなかっただろうけど。
旅に出るようになったのは、さらに六、七年経ってからかなぁ。足腰が弱ってたから、マミーとクルーズ船の旅を楽しんでたよ。宅配を利用して家から船に送れば、荷物は運ばなくていいし(船室まで届けておいてくれる)、空港の面倒な入国審査も手荷物チェックもいらないし、買い物の量も気にしなくていい。帰国後、船から自宅に荷物が送れるからだ。何より、船室に荷物を置いたままにしておけるので、どこに行っても身軽でいられるのがいいんだって。空路ではいけない島にも、船だと横付けしてくれるって、喜んでた。
船内では三食+おやつや夜食が用意されていて、アルコール以外は全てフリー。プールにジムに図書館にダンスに映画にコンサートにカジノにイベントにと、なんでも揃ってる。「クルーズ船は究極の旅の形」なんだってさ。
歩くのに杖が必要になると、今度はVRの旅を始めた。
「空からの眺めなんて、現地に行ったって見られないぞ!」
タケ爺が興奮してるから、
「現地に行くよりすごいなら、もう出かける必要ないんじゃない?」
って茶化すと、
「馬鹿。メタバースとは違うんだ。いきなりこれを見たってダメなんだ。行ったことがあるからこそ、現地の情景や出来事、空気の匂いまで、五感で蘇えらせることができるんだ」
哀れむような目で僕を見た。何もそんな顔しなくったっていいじゃないか。
……で、話は現在に戻って、今から数日前。
タケ爺は僕を連れて日本に帰国した。あと何十年も生きられないだろうから、これが日本の地を踏む、最後の旅になるだろうって、知り合いに会ったり、思い出の場所を巡ったり。杖をつきながらだけど、毎日七、八千歩は歩いたんじゃないかなぁ。
とうとう一昨日、疲れがどっと出たのかホテルのベッドで起き上がれなくなり、飯田橋の総合病院に緊急入院した。
昨日は一日がかりで検査を受けて、今朝、先生から検査結果を聞き、明日には退院っていう日の夜──。
タケ爺はわざわざパリの自宅から持ってきた古い着物に着替えて、釣り人が着るような、ポケットがたくさんついたベストを着込み、そこに何やら小物を次々と詰め込んで、おまけに年甲斐もなく、ボディバッグを身体に斜めに巻きつけた。
──なんだ、このcoolなファッションは?
メモを見ながら忘れ物がないかをチェックすると、最後にダブダブの黒のレインコートを羽織った。これじゃあ中に何を着ているかわからない。まるで黒いてるてる坊主だ。杖をついてコンビニ袋を提げ、「ちょっとそこまで」という雰囲気で、何食わぬ顔で病院を抜け出し、タクシーに乗ったんだ。
「タケ爺、どこ行くの?」
僕が聞いてもタケ爺は答えない。黙ってシートに体を預けて、車窓を流れる夜景を眺め続けている。
二十分ほど走ると、道路の正面の真ん中に、いきなりスカイツリーが見えたと思ったら、タケ爺はタクシーを止めた。
そこには、周囲からかけ離れたイメージの、古い建物が二軒並んで建っていた。タケ爺は杖をつきながら『桜肉鍋』という巨大な看板と、赤い桜のマークの中心に『肉』と赤い字で書かれ、左下に『中江』と白字で書かれた紺色の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
着物姿の、女将さんらしき人が出迎えた。
「予約した武村です」
「はい、承っております。どうぞ奥へ」
タケ爺は靴を脱いで棚に入れ、細長く仕切られた奥の部屋に向かった。途中、馬の絵が四枚飾ってあったんでピンと来たんだけど、桜肉って馬肉のことだ。
フランスでも、馬肉をよく食べる地域があるので、僕も子供の頃、一度だけ食べたことがある。レアステーキで、真っ赤な身が子供心に少し気味が悪かったんだけど、「馬肉は体温が高いので、生でも食べられるから平気だよ」ってパパが教えてくれた。ガーリックが効き過ぎてて、肉の味はよく覚えていない。たぶん牛や豚のように癖がなく、あっさりした味だったんで、記憶に残らなかったんだと思う。
座席は全て、テーブルは低いけれど、床がくり抜いてあって足が下ろせるようになっている。「掘りごたつ式」っていうやつだ。子供の頃、パリの日本料理屋で見たことがある。
タケ爺は奥に座ると、「ふう~」っと息をついて壁に背をもたせかけた。まだ身体が辛いんじゃないのかなぁ。
オーダーを取りに来たのは、丸顔でメガネをかけた、優しそうなおじさんだった。きっとご主人なのだろう。タケ爺は懐かしそうに目を細めてそのおじさんの顔を眺めると、メニューも見ずに、桜なべのバラ肉とザクと、ユッケと焼酎のお湯割りを注文した。
「お酒はまだ止めておいた方がいいんじゃないの?」
先に運ばれて来た、湯気の立つグラスを見て僕は言った。
「構わんだろう」
タケ爺はつぶやいて、グラスに口をつけた。
「お孫さんですか?」
ご主人がにこやかに僕を見た。
「ええ、一人旅が寂しくて、連れて来てしまいました」
タケ爺が言い、ご主人は、
「それは心強いですね。ごゆっくりどうぞ」
次の皿を取りに行った。
「当店名物、タロタロユッケでございます」
運ばれてきたのは、卵の黄身が乗せられた生肉のたたきだった。
「これって、タルタルステーキのこと?」
僕はご主人に聞いた。
「タルタルステーキも韓国のユッケも、ルーツは同じらしいですが、日本でステーキというと、どうしても焼いた分厚い肉を思い浮かべてしまいます。生肉を叩いた料理といえば、ユッケの方が馴染みがあるんです。昔、岡本太郎という有名な芸術家が、留学先で食べたタルタルステーキが忘れられず、当店で作るよう先代の時代にオーダーされたメニューですので、タルタルと太郎をかけて、タロタロユッケ、と名付けました」
「Je vois(なるほど)」
そのあと、浅くて底が平らな一人用の小さな鉄鍋と、赤と白がくっきりと色分けされた桜肉、鍋の具の盛り合わせが運ばれてきた。
桜なべのバラ肉は、肉の半分が脂身で、
「年寄りがこんなの食べて大丈夫?」
思わず注意した。
「平気平気」
タケ爺は味噌ダレで脂身を煮ている間、ユッケをつまんでは焼酎を飲んでいた。脂身が飴色になると、一口食べてはお湯割りを含み、とろけるような笑顔を見せてはじっくりと時間をかけて咀嚼し、最後は残った汁で溶き卵を半熟程度に煮て、ご飯にかけて平らげた。焼酎の空きグラスは四つになっていた。
「さて、行くか」
タケ爺が立ち上がった。
──あれ手帳は?
予約してあったからって、わざわざ病院を抜け出して来るぐらいだから、きっとこの店の桜なべが『死ぬ前に食べたいものリスト』に入ってたんだろうと思いきや、いつも肌身離さず持ち歩いている手帳を持って来ている気配もない。
ふらつきながらお勘定を済ませて店を出ると、タケ爺はスカイツリーを見ながら大きく息を吸い込んだ。そういえば最近、トイレが近くなったとぼやいていたわりに、焼酎のお湯割りを四杯も飲んで、そのまま店を出て来ちゃったけど、平気なのかな?
──Bizarre(奇妙だ)。タケ爺の考えていることがわからない。
待っていた信号が青になった。横断歩道を二つ渡って、反対車線でタクシーを拾うのかと思いきや、タケ爺はふらふらと奥に生えている柳の木に近づき、幹を撫でた。
「立派になったなぁ」
よく見ると木の下の方に『見返り柳』と書かれたプレートがあり、解説が書いてあった。旧吉原遊廓で遊んだ客が、遊女との別れを惜しんで後ろを振り返ったからついた名前なのだそうだ。ただしこの木は江戸時代からあるものではなく、地震や空襲で何度か焼けて、植え直されたものらしい。
吉原遊廓のことは知っている。タケ爺が昭和の頃に制作された時代劇をしょっちゅう観ているので、爺ちゃんっ子の僕は自然と時代劇オタクになった。
だからと言って、その知識を周囲にひけらかすことはなかったんだけど、日本の大人気アニメ『鬼滅の刃 遊郭編』がフランスで放送された時は大騒ぎだった。友達がみんな、遊廓のことを聞きたがったからだ。
着飾った花魁が男性客を接待したり、少女の頃に売られて来て身体を売ったりする場所で、江戸時代に国が認めた“quartier rouge(歓楽街)”、だと説明すると、みんなはカルチャーショックを受けたようだった。
タケ爺は質問に答えず、黙ってくの字に曲がった道を、杖を頼りにゆっくりと進み始めた。右手前方に交番が見えたところでタケ爺は立ち止まり、左側を向いて深々とお辞儀をした。パーキングと、ただ二階建ての民家が建っているだけなのに。
次に『よし原大門 OHMON』と書かれた、木目調の四角い鉄柱を撫で、道の向こう側にも同じように建っている鉄柱の、てっぺんとてっぺんを結ぶ真ん中あたりの夜空を見上げて、うっとりと目を細めた。
ほんと、何やってんだろう?
さらに道を進むと、タケ爺が不意に立ち止まった。杖がタケ爺の手から離れ、地面に転がった。
「ない……そんなバカな……!」
タケ爺は前のめりになりながら、ヨタヨタと歩き始めた。明らかに気が動転していた。左右に広がる通りに足を踏み入れては、
「ないっ、ここも違う!」
ブツブツと小声で吐き捨てている。
「タケ爺! 落ち着きなよ!」
よく見るとタケ爺の左手は、真っ黒なレインコートの上から自分の股ぐらをつかんでいた。トイレも限界に違いない。なんでお店で済ませて来なかったのか。
「ダメだよ、そんな滅茶苦茶に歩き回っちゃ! 危ないって!」
タケ爺は僕が止めるのも聞かず、車道に飛び出した。その時だ。僕たちは目も眩むような閃光に包まれた。
キキーッッ!!!
急ブレーキの音が闇をつんざいた。
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