ママンに言わせると、フランス人にはドケチが多いらしい。いくら収入が良くても住宅貯蓄(地道に長く続けるほど、住宅融資の際に有利になる)か、バカンス貯金に回し、普段は慎ましく生きている。食料自給率一〇〇%オーバーを誇るフランスでは、食材は安く、外食費はバカ高い。故に自炊率は高い。夏に少なくとも二週間はあるバカンスだって、決して豪遊するわけじゃなく、郊外にログハウスを建てたり、友人の別荘を借りたりして、地味にのんびり過ごすことがほとんどだ。
僕はタケ爺にくっついてって、同年代の友達に比べると外食率が高く、贅沢させてもらっている方だけれど、食事がついてるのにわざわざお金を払って別のものを食べる境地には至れない。
「これだけ食べることが好きで、なんで定年近くまで東京でビジネスマンなんてやってたの? 窮屈だったんじゃない?」
不思議に思って聞くと、
「ところがさにあらず。東京ほど世界中の料理が揃っている街はない。しかもどの店も、現地の味の水準を超えている。何十年東京で働いていたって、飽きることはない」
自慢げに言った。
「ただし、東京で確実に美味いものを食べようとすると金がかかる。何せ土地が高いからな。その点、爺ちゃんがいたのは接待が多い広告代理店で、働き盛りの三十代にバブル時代を迎えた。バブルはわかるか?」
「うん、マミーから聞いた。一万円札ビラビラ振ってタクシーの争奪戦をしたり、ラーメン食べるために、わざわざ飛行機に乗って札幌や博多にまで行ったりしてた、おバカな時代でしょ?」
「……まあ、ラーメンの方は、突然成金になった不動産屋が、女性を口説くための方便だがな。誰もがそんなことをしていたわけじゃない」
「そうなの?」
「一万円札の方は、確かに爺ちゃんもやった。クライアントに気に入られなきゃと必死だったからな。当時は仕事を取るために、接待費は使い放題、タクシーは乗り放題だったから、いいもん食って、深夜まで店をハシゴして……。近場の温泉旅館で打ち上げ、なんてのもあったぞ。飾られたまんま、食べられずに干からびていく巨大な二十万円以上する舟盛りを、泊まらなくていいからあのまま持ち帰りたいと、何度思ったことか。広告制作費もふんだんにあったから、海外ロケなんてしょっちゅうだ。爺ちゃんは婆ちゃん一筋だったから女遊びはしていないが、食い道楽は十分満たされてたんだ」
「単にモテなかっただけでしょ?」
タケ爺の若い頃の写真を見ても、beau(ハンサム)とは程遠い。
「それを言うなって。……だがな、G。バブルを知らない人間は、あの時代を黒歴史のごとく言うが、日本にとって、いいこともたくさんあったんだぞ」
「例えばどんな?」
「まずはどこにあるかもちゃんと知られていないアジアの小国が、その技術力や文化度の高さを認知されることとなった。世界旅行が当たり前になり、一般の人々が世界を知ることができた。つまりバブルが、あらゆる面で世界進出のきっかけを作ったんだ。敗戦以降、高度成長期を迎えても、日本とアメリカでベストセラーとなった『Japan as Number One』で学習意欲の高さと読書量の多さが評価されるまで、日本人はアメリカ人の真似をする“イエローモンキー”だとか金儲け主義の“エコノミック・アニマル”と馬鹿にされ続けてきたんだからな」
「Je vois(なるほど)」
「もちろん、バブルを迎えたからって、すぐにそのイメージが払拭されたわけじゃない。だが、金を持っているっていうのは権威を持つことでもある。腹ではどう思っていようが、表面上は認めないわけにはいかないからな」
「T’as raison(確かに)」
「それからインターネットが普及し、何十年もかかって、令和に入ってAIによって言語の問題も解消されて、やっと日本の情報が正しく伝えられるようになった。そうして日本が世界一行きたい国NO.1になったんだ」
いつもこうだ。日本のことを語り始めると、タケ爺の勢いは止まらない。
「建造物だけでなく、自然もそうだ。四季があって、流氷からサンゴ礁まで見られる国は他にないからな。観光資源の宝庫ってわけだ。その上、安全で清潔で時間に正確で……電車が数分遅れただけで、車内放送で詫びが入る律儀さだ。爺ちゃんは世界中を旅して、“インフラが整っていることが当たり前ではない”、ということを、改めて思い知らされたんだ」
「財布を無くしても、二分の一以上の確率で出てくるしね」
このことはママンから聞いた。ママンは結構おっちょこちょいで、忘れ物や失くし物が多い。その度「日本だったら出てくるのに?!」と、戻ってこないことを悔しがっている。
「長い間『沈黙は金』が美徳なんて歴史が続いたから、日本人はいまだに自己主張やディベートが下手だし、話しかけるきっかけが詫びから入る、諸外国から見たら理解不能で不利益な国だが……」
「『SUMIMASEN』だね。フランス人はよっっっぽど! のことがない限り、自分に非があるとわかってても謝らないからね」
このことは、パパとママンが喧嘩する一番の原因でもある。
ママンの大事なお皿を割った時も、
「こんなところに置いておくからだよ」
だし、時間に遅れても、
「すごいアイデアがひらめいちゃってさ。すぐに書き留めないと忘れちゃうだろ?」
って堂々としている。
「言い訳の前に『ごめんなさい』でしょ!? その一言がないから怒りが収まらないのよ!」
というのが日常茶飯事だ。
「そのことはいいんだ。郷に入っては郷に従うしかないからな」
「じゃあさ、そんなに日本が好きなのに、タケ爺はなんでフランスに移住して、食堂を始めようなんて思ったの?」
そもそも『日の丸食堂』っていうネーミングは、長野県諏訪市にあるタケ爺の実家の店名だ。今はタケ爺のお兄さん一家が継いで、タケ爺も援助している。みんなで一度、帰国して訪ねて行った時、僕はまだ二歳児だったんで何も覚えていないのだけれど。
以前、タケ爺にそのことを聞いた時は、
「会社をリストラされて、日本で新しく仕事を探すより、Gや亜里沙の近くで暮らしたかったんだ。何より佐和子は、Gの出産に立ち会うためにパリに行ったまま、爺ちゃんをほったらかして何ヶ月も帰ってこなかったんだからな。移住には大賛成だったよ」
って言ってたんだけど、なんか腑に落ちない。料理人でもなかったタケ爺が、いきなりフランスの、それもセーブルなんて都会でもない街で、和食のビストロを始めようなんて思うかなぁ?
「実はな、ある人に教えられて“あがり”を決めたんだ」
タケ爺は、重大な告白をするかのように、声のトーンを落とした。
「あがり?」
「人生の目標を決めるってことだ。爺ちゃんが広告代理店から、早期退職か地方転勤かを迫られた時、『日本の伝統的な食文化を海外に伝え、料理を食べてくれる人に喜んでもらえ、健康でいてもらいたい』という“あがり”を決めて、それを叶えたから、こうして趣味の食道楽を追求しながら、新メニューの開発に取り組んでいられるんだ」
確かに、『日の丸食堂』の常連客は皆、「体調が良くなった」「肌や髪に艶が出た」「肥満解消になる」と定食の虜だ。特に、手前味噌で作った味噌汁にハマる人が多い。
さらに、各国の料理を和食にアレンジした期間限定メニューは人気の的で、度々メディアに取り上げられ、レシピを譲ってほしいとレストランから頼まれたり、食品メーカーの商品開発に携わったりもしている。
経営からは身を引いたとはいえ、タケ爺は今もご意見番として、しっかり店に貢献しているんだ。
「日本人の、ものづくりにかける情熱と探究心と技術力は世界一だ。爺ちゃんは昔から超絶技巧を持つ職人に憧れがあった。残念ながらそれほど手先が器用ではなかったので、心を込めて料理を作ることにしたんだ」
「自分に向いた仕事を見つけられたんだね」
「ああ。だからと言って、ビジネスマンが遠回りだったってことはないぞ。親の跡を継いでいきなり食堂を始めたって、せいぜい店を存続させるのが関の山だっただろう。広告代理店にいたからこそ、店を発展させることができた。『何事も経験』ってのは本当のことで、人生に無駄なことなんて一つもないぞ。無駄だと思ったとしたら、それは経験を生かさず、無駄にしちまった自分が悪いんだ。様々な経験を積んだ上で、自分の天分を見極めて、それを仕事にして社会に貢献する。それがこの世に生を享けた意味ってもんだということを、爺ちゃんはその人の教えを受けて実感したんだ」
だんだん話が難しくなってきた。
「“天分”って何?」
「天、つまり神様がくれた才能、ってことだよ」
「神様って三位一体の神のこと?」
今や無神論者が過半数のフランスだけど、パパはクリスチャンであり続け、家では食事の前にお祈りを捧げている(みんな、パパがいない時はサボってるけど)。
「うーん、創造主ということでは近いけれど、似て非なるものかなぁ。日本の場合は山にも木にも、米粒一つにも神様が宿っているという考え方だから。この場合の天は、太陽に宿る神、というイメージが近いかも知れない」
「ギリシャ神話のアポロンみたいな?」
「日本では女神だよ。天照大神。神道の神棚には、必ず真ん中に奉られているけれど、必ずしも日本国民が、天と聞いて天照大神を具体的に思い浮かべるわけじゃない。光の下で万物を見通している何か、という感じだな。親や先生が見ていなくても、お天道様が見ているから、悪いことをすればバチが当たる。そう教えられて育つから、悪事への抑制力となって、日本は犯罪率が低いのかも知れない」
「それって、常に監視され、マインドコントロールされてるってことじゃないの?」
「爺ちゃんも昔は、バチなんて思い込みだろうと思っていたよ。ところが、だ……」
タケ爺は唇に人差し指を当て、声を潜めて言った。
「神様を怒らせたら、バチは本当に当たるんだ」
「うっそだぁ?」
「信じんのならそれでいい。……しかし宗教は違えども、Gといい沙羅といい、とても信心深いジャンの子供とは思えんな。亜里沙のしつけが悪いのか……」
ブツブツと愚痴を言い始めたので、僕は話を戻した。
「で、タケ爺の天分が食堂のオーナーだったってわけ?」
「ああ。もっとも、爺ちゃんが天分を意識したのは、会社から二択を迫られた後、ある人との出会いがあったからだ。その人が爺ちゃんの天分を見つけて、育ててくれた。『自分の好きなことを仕事にして、人に喜ばれることほど幸せなことはない』ってな」
「さっきから思わせぶりに言ってる、“ある人”ってのは誰なのさ?」
「爺ちゃんの命の恩人で、師匠だった人だ」
「もう亡くなってるの?」
「ああ。二百年以上も前にな」
「何それ? 歴史上の人物で、心の師匠ってこと?」
「いや、実際に会ってるよ。まあ、歴史上の人物ではあるが……」
「二百年以上前の人物に会ってるなんて、ありえないよ。もしかしてタケ爺、ボケが始まった?」
タケ爺はニヤニヤと笑った。
「Gがもう少し大きくなったら、爺ちゃんの秘密を教えてやるよ」
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