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優唯の家がある駅で電車を降りたら、わたしの目の前を制服姿の優唯が歩いていた。同じ電車だったのか、と思いながら声をかける。
「優唯! 今、帰り? まだ学校にいたの?」
穂高先生は、優唯がいたことに気づかなかったのだろうか。
「ああ、彩芽。寄り道してた。どうしたの?」
「どうしたもなにも、LINE! 通話も! 何度もしたんだよ」
思いだしたような表情をして、優唯が通学鞄を探っている。
「ごめん。切ったままだった。映画を観にいってて」
優唯は、暗い液晶画面のスマホを見せてきた。電源を入れている。
「映画? こんな日に? 学校から持ってきた荷物もあるのに」
卒業式を控えて、学校に置いていたものをみんな持ち帰っていた。優唯も、通学鞄のほかにサブバッグを持っている。
「高校生料金で観られるのは今日までだと思ったんだ。でもシネコンの人に確認したら、三月三十一日までいいんだって」
きょとんとしている優唯の顔を見ていたら、膝から崩れ落ちそうになった。でも映画を観ていたことと、明日、心美ちゃんに仕返しをするつもりかもしれないこととは関係がない。
「話があるの」
「誘わなかったこと? ごめん。彩芽の好きなタイプの映画じゃないと思って」
「そうじゃないけど、優唯はひとりで映画を観られるんだね。いつから?」
「いつって言われても……」
「秋ごろからじゃない? わたしが優唯と心美ちゃんのことから逃げたから。わたしのこと信用しきれなくなったんでしょ」
「それと映画となにが」
「ごめんね、わたし、自分が次にシカトされたらと思ってしまった。怖かった。だから……、だから優唯のこと、守ってあげられなくて」
優唯がちらりと、わたしのほうに目を向けた。
「なにを興奮しているのかわからないんだけど。……あ、起ちあがった」
優唯が手元のスマホを見つめ、LINEのアプリを開いている。
──ある噂について穂高先生から電話があった。卒業式にうちのクラスで、誰かが誰かに仕返しをしようとしている、そんな噂。誰を指すのかわからないけど、穂高先生は優唯を疑ってる。わたしに知らないかって訊ねてきた。
「仕返しか。で、誰がやるかはわからない、と。なるほど」
なるほどなるほど、と何度も言って、優唯は続ける。
「……彩芽も私のこと、疑ったんだ」
夕暮れの道で、優唯が皮肉めいた笑いを見せてきた。
わたしは首を横に振る。
「優唯はそんなことしないって、穂高先生に言った。先生が疑ったのは、一番大きなトラブルだったからって言ってた。ってことは、多くの人も同じ疑いを持つ。優唯になにか言ってくる人がいるかもしれない。だから知らせようと思った。わたしは疑っていないって、言おうとも思った」
「それはありがとう。でもあれだけのことがあったんだし、疑うのが自然だよ。別に誰になにを言われても気にしない。明日でサヨナラなんだしね」
「優唯」
それは、わたしともサヨナラという意味なんだろうか。
訊けないでいる間に、優唯の家に着いてしまった。
「暗くなってくるけど、ひとりでだいじょうぶ? 一時間も待てばお母さんが帰ってくるから、車で送ってもらおうか」
優唯に訊ねられ、うなずいた。このまま帰りたくない。
何回か来たことのある家だ。優唯の部屋もリビングの場所も知っている。コートを脱いで手にかけ、優唯に続いて中に入ると、先にリビングに入った優唯が「これって」と呆れた声を上げた。
「留守電が入ってる。三件も。穂高先生かな」
優唯は嫌そうな表情で、電話機を指さしていた。
「たぶんそうだと思う」
「めんどうくさいな。そんな用件に電話代払うの、ムカつく。私自身が払うわけじゃないけど」
たしかに、とうなずいた。
「このまま無視してたらどうなるかな」
「お母さんに気づかれるまえに返事したほうがいいんじゃない?」
仕方がないなあ、と言わんばかりの表情で優唯が電話機に手を伸ばした瞬間、それは鳴った。
「はい、井上です。……はい、私です」
優唯が目配せを送ってくる。穂高先生だろう。
「違いますよ。…………ええ、違いますって。なんの計画もしていません。…………疑わないでください。…………わかりません。じゃあ、失礼します」
優唯が早々に電話を切った。留守電機能を解除している。
「穂高先生?」
「うん」
「先生、なんて?」
「彩芽がLINEに書いてきたとおりだよ。私が、心美ちゃんになにか仕返しをするんじゃないかって。違うって言ったら、じゃあ誰だと思うとかなんとか、うっとうしいこと言ってきたから、さくっと切った」
話をしながら優唯は、インスタントコーヒーの瓶と紅茶のティーバッグの缶をそれぞれの手に持って見せてきた。わたしは紅茶を指さす。ヤカンに水が入れられてレンジ台に置かれ、食器棚からはマグカップが出された。
「切ったって。先生なのに? すごいね、優唯」
「だから明日でサヨナラだし。もう先生じゃなくなるし」
吐き捨てるような言い方に、優唯の静かな怒りを感じた。やっぱり優唯は、心美ちゃんとのときの穂高先生の対応に納得していないのだ。
「なんか優唯……、あれからクールになったと思ってたけど、強くもなったというか」
湯が沸いた。優唯がマグカップに注いでいる。
「そうなのかな。そうなのかもね。私は秋に、高校を卒業したの」
「どういうこと?」
マグカップが手渡される。部屋に行こうと、優唯が手で示してくる。
「高校生活から卒業した、が正しいかな。残りは受験勉強。どうせみんな、バラバラになるし、そのあとは連絡を取ることもなくなるからね」
「同窓会とか、あるじゃない」
優唯がまじまじとわたしの顔を見てくる。
「私が行くと思う?」
「……思わないけどさあ」
優唯の部屋で、ラグマットを敷いた床にぺたんとふたりで座る。お邪魔したときはたいてい片付いているけれど、今日は急に来たにもかかわらず、いつも以上にきれいだった。勉強机の脇に並んでいた教科書や参考書が全部消えている。
優唯は、すっかり区切りをつけるつもりなんだなと、実感した。
「誰なんだろうね」
と、優唯が突然言う。
「え?」
「その仕返しを考えている人。いったい誰なんだろう。彩芽は、誰だったら面白いと思う?」
「面白いって。……そんな怖いことを」
「そう? 最後に面白い見世物が見られるんだよ。楽しみじゃない?」
優唯がわたしの目を見ながら、にっこりと笑う。
はじめて見る優唯の表情だった。すごみがあるというか、怖いというか。
本当に、仕返しを考えているのは優唯じゃないんだろうか……
電話の音がした。
優唯の脇に置かれているスマホの液晶画面は暗いままだ。
「あ、これって、わたしか。お母さんかな」
わたしはどこか焦りながら、床に直置きしたコートのポケットからスマホを出す。液晶画面に表示された名前は、
「どうしよう、心美ちゃんだ。どうすればいい?」
「どうって」
優唯が首をひねっている。
「きっとこのことだよ。穂高先生が心美ちゃんに知らせたんじゃないかな」
「そういえば心美ちゃんのLINE、あのころブロックしたんだった。だから彩芽あてにかけてきたのかも」
着信音は止まらない。
「なんて答えればいいと思う?」
「とりあえず用件を聞いてみたらいいんじゃない?」
仕方なく、LINEの通話を受ける。一瞬迷ってから、スピーカーをオンにしてハンズフリーにした。声が流れてくる。
「唐沢です。心美です。ごめんね、急に。優唯ちゃんと連絡が取りたいの。申し訳ないけれど、つないでくれないかな」
心美ちゃんはわたしがどこにいるか知らない。ブロックを解除するか新たな連絡ツールを教えてくれるかしてと、わたしを介して優唯に頼みたいようだ。
優唯が自分のスマホのメモアプリに、なぜ、と表示して見せてくる。そのまま訊ねた。
「話があるから」
「……あの、例の件だよね。仕返しの噂の。……違うから。優唯が心美ちゃんに対してとかそういうの、ないよ。優唯とも話した。優唯はなにも計画していないよ」
そうだよね、と確認するつもりで優唯を見る。優唯がうなずくかと思った。
けれど優唯は、険しい目をしてスマホを凝視している。
だいじょうぶだよね。穂高先生に違うって言ったよね、嘘じゃないよね。
信じるつもりだったのに、だんだんと不安になってくる。なんとか言ってよ、優唯。
わたしは優唯の手に自分の手を重ねた。優唯がわたしを見てくる。なんて問いかければいいんだろう。
「違うの」
心美ちゃんの声が、切実さを帯びた。
「話があるんだってば。大事な話が」
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