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卒業式の予行演習が無事に終わった。
なぜ二日続けて同じようなことをするんだと思うのだろう、だるそうにしている生徒も多かった。特に男子にその傾向が強く、当時は僕もそうだったと十数年前を懐かしむ。しかし教師になってわかったのだが、照明やマイクなどの機器の調整、段取りや時間の割り振りの確認もろもろと、やることはいっぱいあるのだ。一年に一度の、けれど生徒にとっては一生に一度のセレモニーに向けて、準備を万全にしなくてはいけない。
生徒の進路は、まだすべて決まったわけではない。国公立大学の前期試験は終わったが、結果が出ていないのだ。
だがそのほうがいい。以前勤めていた高校の卒業式は、前期試験の結果が出たあとの日程になっていた。大半が解放感に包まれているなかで、努力叶わず落ちてしまった生徒は、後期試験に賭けることになる。浪人決定とおどけるもの、すっかり落ち込んでいるもの、周囲に気を遣うものもいて、見ていられないのだ。それならばいっときの解放感を味わわせてあげたい。
この先、人生にはつらいことがあるだろうから。
予行演習後のホームルームを終え、自分もどこか高揚した気分で職員室に戻ってきたところ、教頭から妙な話を聞かされた。
「穂高先生、三年二組のことで噂があるんですよ。卒業式で、誰かが誰かに仕返しをするつもりだと」
「仕返しって、なんですかそれ」
「わからないんですよ。私は保健室の関先生から聞いたんです。関先生は、生徒同士の話を小耳に挟んだと。驚いてその生徒に訊ねたら、そんな噂があるといった程度ではっきりしないようですが、三年二組パニックと言っていたそうです」
「三年二組パニック?」
「先生のクラスでなにか、尾を引いたままになっているトラブルはありますか」
僕は記憶を探ってみる。
「そうですね……。すみません、僕、十月までは副担任だったこともあって、すぐには……」
「ああそうだった。主担任は小林先生のほうでしたね。彼女、だいじょうぶですかねえ」
教頭が、意味深長な表情をする。
僕が現在受け持っている三年二組は、もともとは小林里奈先生が主担任だった。昨年度まで副担を任っていた彼女は、二十五歳……いや春の段階では二十四歳で、はじめてクラスの主担任をすることとなった。前向きで張り切っていたのだが、現在休職中だ。
一組と二組の副担任と全体の進路指導を受け持っていた僕は、スライドして二組の主担任となった。一組の副担は外してもらったが進路の担当はそのまま、うちのクラスに副担はつかなかった。まあ仕方がない。人員不足なのだ。
「小林先生に訊いてみますか? 訊くなら僕から連絡しますが、体調もあるでしょうから最後の手段にしませんか。問題があれば、これに記されていますので」
僕は業務日誌をめくっていく。ああ、とつい声が上がった。
「六月に森野伸と木場陸斗がトラブってますね。一組の女子を巡ってのようです。ちょっと長引いてしまったようですね」
「その後どうなったか、ご存じですか」
知っているだけに苦笑してしまった。
「問題の女子ですが、同じ一組の男子と仲良さそうに下校するのを目撃しちゃったんですよね。見たのはいつだろう……、一組の副担から外れるか外れないかぐらいだから、十月の下旬ですね」
「ふたりともふられたわけだね。じゃあ除外できますね」
教頭がほっとした表情を見せる。
「遺恨が残っているかもしれないので、一応チェック対象にしましょうか。……それから」
ページを大きく飛ばした。
「井上優唯、十月はじめから二週間ほど不登校になっています。原因はクラスの、主に女子のなかで疎外感を抱いたから、いわゆるシカトをされたためですね。きっかけになったのが唐沢心美との諍いですが、双方の言い分が食い違っています。今となってはどちらが正しいかわからないままです」
「解決しなかったんですか」
「私の呼びかけで互いに謝って、それ以降は井上も普通に登校しています。ただ、ふたりが話をしているところを見たことがなく、避けあっているようすですね」
うーん、と教頭が首をかしげて唸っている。
「平和裏にすごすため距離を置いたと解釈しています。十月ともなれば受験が目の前に迫っていて、シカトやいじめといった非生産的なことにかかわっている時間はないと、分別のある人間ならわかるでしょう。うちの生徒は、それぐらいの判断はつくはずですから」
僕は続けた。東大や京大への合格者が続出とまではいかないが、毎年ひとりふたりは入学する進学校だ。勉強ができるから素行もいい、と言いきることはできないものの、打算はできる。
「そうですよね。なにしろ半年、いえ五ヵ月まえのことですしね」
教頭が安心を求めたい気持ちはわかる。
だが打算ができるからこそ、ひとまず手打ちをしておいて卒業式まで待つ、そういう考えもあるはずだ。
「ただ教頭、井上はこのときの不登校のせいで欠席日数が規定を超えたため、志望していた大学に推薦できなかったんです。一方で、唐沢は一般入試でその大学に合格している。井上としてはおもしろくないでしょう」
「井上の進学先は?」
教頭の声が、不安げに揺れる。
「その後成績を伸ばしたことにより、第一志望をひとレベル上の国立にしています。私立も合格してますが、当初の志望大学は受験していません。理由を訊いたら、腹が立ったからと言っていました。大学側が不合格にしたわけではなく、うちが推薦しなかったのですが」
「良いほうに考えれば負けん気が強い、けれど悪く考えると恨みを募らせるタイプ……そういう生徒なんでしょうか」
「割とおとなしい子なんですがね」
声が小さく、色白で小柄だからそう見えていただけだろうか。顔立ちもかわいい子だ。対する唐沢は派手な印象の美人で、発言力があり女子のリーダー的存在だ。
「穂高先生、その子に注意をしてくれませんか」
「はい。ですがもう少し状況をたしかめてからのほうがよいと思います。逆効果になってはいけませんので」
ほかにも小さな諍いはあっただろう。SNSなどを介したトラブルなら把握するのがむずかしいかもしれない。本当にそんな噂が立っているのか、まずそこから確認したほうがよさそうだ。
うちの学校は就職する生徒より進学する生徒のほうがはるかに多いため、三年生の授業は大学入学共通テストまでに終わらせて、その後は自由登校となる。決められた登校日のほかは、教室や学校の図書館で勉強したほうが家よりはかどると考える、近場の生徒が来るぐらいだ。噂など、どうやって広まるのだろう。SNSやLINEだろうか。だとすれば、それらを見せてもらうのが早いかもしれない。
僕は急いで二組の教室に戻った。今日は予行演習とホームルームだけだったため昼過ぎの下校だったが、まだ残っている生徒がいるかもしれないと期待した。
思っていたとおり、何人かの生徒がいた。しかも、六月に問題を起こした森野が残っている。これでわかればありがたい、とばかりに声をかけた。
「ちょっと来てくれるかな、話があるんだが」
男子三人が机を囲んで歓談しているなか、森野に声をかけた。森野が噂の件に関係しているなら立場をなくしかねないので、ほかの生徒から離したほうがいいだろう。
「なに穂高先生、俺を疑ってるの?」
森野の発言に、あとのふたりが弾けるように笑った。
「なんのことかな」
「とぼけなくていいよ。噂だろ、うちのクラスで仕返しがあるって噂。俺もさっきこいつらから聞いたところだよ。俺じゃないからね。木場とは失恋仲間」
あけすけな言い方にほっとする。と同時に、あまりにしれっとした顔を見て、嘘をついていないかと疑う気持ちも湧いた。
人は、嘘をつく生き物なのだ。
「すまなかった。僕も噂を知ったばかりでね。正直困っているんだ。せっかくの卒業式にトラブルは避けたいだろ。その噂はどこから聞いたのかな。LINEかなにか?」
僕は軽く頭を下げ、三人を見回す。
「一組の女子から聞きました。だからてっきり森野が、木場か元カノの新しい男に、なんかするのかと」
「二組でなにかが起こるって話じゃなかったっけ。元カノの新しい男、関係なくね?」
噂を持ってきたふたりにも、詳細はわかっていないようだ。
「だからそういう終わってる話、するなよ。俺は大学で新たな出会いをするんだから。木場ともそう言いあってるよ。どっちが先にカノジョを作れるかってさ」
森野が笑い、ふたりが肩を叩きながらがんばれよと励ましている。三人とも春からの生活に思いを馳せていて、見ていて清々しい。これなら、森野は違うのではと思った。彼らから噂を持ってきた一組の女子の名前を聞きだし、早速、隣の教室に向かう。
一組の教室に、その子はいなかった。いったん職員室に戻って名簿を確認しよう。基本、生徒の電話番号は、自宅のものしか載せられていない。そろそろ帰宅しているころだろうか。
廊下に足を踏みだしたとたん、目の前を二組の斎藤奈緒子が立ちふさがった。
「おー、驚いた。ぶつかるかと思ったぞ」
「先生、さっき森野くんに訊いてた話、……その、噂の話だけど」
「ああ、聞こえていたか。なんか変な噂があってな」
そう言うと、斎藤はうつむき、両のてのひらを合わせて頭より高く上げた。
「その噂たぶん、私が発端だと思う。一組まで届いて、また戻ってきたんだね。二組は二組で噂が回っていたんだろうけど」
「誰が誰に仕返しをするか、知ってるのか? 教えてくれ」
「それは知らない」
発端のくせにそれはどういうことだ、とずっこけそうになる。
「順を追って、詳しく話してくれないか」
「うん。私、一年に妹がいるのね、剣道部なんだけど。その妹が、武道場の裏から『卒業式で仕返しをするんだ』『三年二組パニックって名前で語り継がれるかもね』って話してる声が聞こえてきたって言うの。それを私がLINEで華ちゃんに伝えて、そこから広がったんだと思う」
華というのも二組の生徒だ。斎藤と仲良くしている。
「妹さんは、話をしていた生徒の顔を見ていないのか?」
「見てたらそれも一緒に言ってくれているよ。女子の声だってことしか聞いていない」
うちのクラスには剣道部だった生徒はいない。たまたまそこで話をしていただけなのだろうか。
そして、女子ということはやはり井上なのか?
2
家に帰ったら、留守番電話のマークがチカチカ光っていた。わたしの家は最初に帰宅した人が確認をして、必要があればその家族にLINEで知らせるルールだ。家電なんてほとんどが親への用件だから、正直めんどうなだけだけど、今日のは穂高先生からの留守録だった。しかも折り返してくれという。受験の関係でなにかあったのかと不安を覚えながら電話をしたら、突拍子もないことを言われた。
「優唯が心美ちゃんに仕返し? なんですか、それ。知りませんよ」
「文月じゃないのか? 井上が武道場の裏で話していた相手は。きみは井上とは一番の仲良しだろう。だからまずは確認しようと思ったんだよ」
困惑するわたしに、穂高先生は流れている噂と、その発端になったという奈緒子ちゃんの妹が聞いた話を説明してくれた。
「ちょっと待ってください。わたしはその噂そのものを知らないんですが」
「当事者の耳に入らないようにしてたんじゃないかな」
「でも先生、その仕返しって話をしていた人が誰なのか、そこからわからないんでしょ。どうしてそれで、わたしが当事者なんですか」
「たしかにそうだが、井上のほかに、女子のトラブルを思いつかないんだよ。十月までは副担任だったから、細かいことに気づけていないのかもしれないけれど、あるなら教えてほしい。仕返しだなんて発想がでるほど、禍根を残すトラブルだぞ?」
副担でもクラスのトラブルは共有しようよ。なにより、優唯がその噂の人だって決めつけないでほしい。
「思いつきません。一、二年のころの話かもしれないし」
「さすがに古すぎるだろ」
「優唯の件だって古いですよ。半年? 五ヵ月?」
「だけど推薦が流れたよな」
そういえばと思いだす。けれど優唯はその後、より偏差値の高い大学を目指すことになった。当時は恨んでいたかもしれないけど、いまさら仕返しなんて考えるだろうか。
「そんなに疑うなら、直接本人に訊けばいいじゃないですか。卒業式は明日なんだし」
「疑われていると知ったら、余計に腹を立てるかもしれないだろ。だから文月に訊いたんだよ。井上が計画を打ち明けるとしたら文月しか考えられない。親友じゃないか」
その言葉は、いよいよ高校卒業だと浮かれていた気持ちを冷え込ませた。
仲はよかった。今もクラスのなかで一番仲がいいし、それなりにおしゃべりもしている。
だけどそれは、ほかの子と比較した場合での仲のよさだ。あのころ味方になってあげられなかったわたしを、優唯はきっと見限っている。この先もう一生、それまでのわたしたちには戻れない。
「とにかくわたし、優唯とはそんな話をしていませんので」
じゃあ、と電話を切ろうとしたところを「だったら」と穂高先生が止めた。
「こんな噂を耳にしたんだけど、なんて軽く井上に訊いてみてくれないか」
「わたしがですか? そんなことしたら、わたしが優唯を疑ってるってことになるじゃない。いやですよ。先生が訊けばいいじゃないですか」
「もちろん先生だって訊くよ。注意しなきゃいけないからな。だけどいきなりだとびっくりするかもしれないから、まずはジャブを打ってみてさあ」
そんなこと言われても、と頭を抱えてしまう。だいたい、優唯はもう心美ちゃんのことなんて眼中にないと思う。優唯はあのことをきっかけに、わたしも含めて周囲の子たちとの間に一線を引いた。そんな気がしてならないのだ。
「……わかりました。でも本当に、ちょっと訊くだけですよ」
「ありがとう。助かるよ。やっぱり文月は友人思いだ」
しぶしぶイエスと答えたわたしに、穂高先生はまた残酷な矢を放ってくる。
本当に友人思いだったら、あのとき逃げなかった。
わたしは、自分思いだったのだ。だから今回こそ優唯の味方になって、穂高先生は勘違いしてるって言いたい。だけどもしももしも、優唯が心美ちゃんに仕返しをしようと思ってるのなら、説得して止めたい。
そのあと穂高先生は優唯の反応を教えてくれと言い、すぐに連絡がつくようにとスマートフォンの番号を教えてくれた。生徒と教師の間でスマホの番号やLINEを教えあうことは、よほどのことがない限りしていない。穂高先生も、それだけ困っているのだろう。
わたしのほうはスマホの番号を教えなかった。これ以上なにかを頼まれたくなかったからだ。
はあ、とため息とともに自分のスマホを手に取る。
優唯になんて訊ねよう。LINEのメッセージでいいだろうか。通話にしたほうがいいんだろうか。はあ、とまたため息が出た。
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