優唯がクラスで孤立したきっかけの真相は、いまもはっきりしない。
心美ちゃんを傷つけることを言ったから、とされているけれど、優唯は何度も否定していた。わたしも優唯がそんなことを言うとは思えない。
──心美ちゃんは家族がいないから自分で好きに進路も将来も決められていいな、だなんて。
言った言わないの話になっているから、一字一句同じじゃないだろう。でもそういう内容らしいのだ。
心美ちゃんはひとりっ子。お母さんは早くに死んでいて、五月にお父さんが交通事故で亡くなった。お父さんのお姉さん、伯母さんが保護者となったけど、四月生まれの心美ちゃんはすでに十八歳、成人になっていた。つまり保護者といっても形だけで、自分でなんでもできるのだ。そしてお父さんの事故も相手が一〇〇パーセント悪い形だったため、慰謝料や生命保険金などもあって、大学の学費も奨学金を借りずにすむという。ちなみに伯母さんたちもいい人らしく、自分の子供も好きなように生きてきたから心美ちゃんも自由に生きなさい、応援するよと言ってくれているらしい。好きに生きた子供たちの結果は公務員と薬剤師だそうで、誰も生活に困っていないから、心美ちゃんに遺されたお金が狙われるなんてサスペンスドラマは、起きそうにない。
と、生きるためのカードは持っている心美ちゃんだけど、両親がいないハードモードと引き換えだなんてさすがにキツすぎる話だ。みんなも、気を遣って触れないようにしている。
優唯は真面目でおとなしい子だ。そんな優唯が、たとえ愚痴代わりでも冗談にしても、そんなことを口にするはずがない。
なのに心美ちゃんは優唯にそういう内容のことを言われたという。心美ちゃん以上に、いつも彼女と一緒にいるニッシーと麻子ちゃんが激怒していた。優唯の否定の声は届かず、違うと言えば言うほど非難された。優唯の進路だって、別段、親の反対になんて遭っていない。だから言うはずがないと訴えていたけど、本当のことはわからないと、誰も聞く耳を持たなかった。
先生も頼りにならない。主担任の小林先生は指導力がなく、六月に男子同士が揉めたときも問題を放置していたと聞いている。副担任の穂高先生だって最初はまごまごしていたし、最終的には解決させたけれど、それもどうだかな、という終わり方だった。
心美ちゃんは気が強いタイプだし、ニッシーと麻子ちゃんもそっち系、いわゆる陽キャというやつだ。対して優唯とわたしは陰キャ。どちらの声がクラスで通るか、誰でもわかる。女子の諍いからは距離を置いている男子でさえ、おまえヤバいことを言ったんだぞ、と非難の目で優唯を見ていた。
──だから言ってないって。
ある日、優唯はそう叫んで、学校に来なくなった。一週間目くらいまでは自業自得というようすで見ていたその他大勢も、だんだんと優唯を心配しはじめた。尻馬に乗って騒いだことを反省したのか、三年生の秋という時期に、シカトなんていうめんどうなことに関わるのが嫌になったのか、当事者同士の問題だよね、ちょっと言葉が滑っただけでは、なんて言いだす始末だ。そして穂高先生がふたりに呼びかけて、どちらも水に流そうと、つまりはもうこれ以上掘り下げないという形で仲直りをさせた。
わたしはそれが、腹立たしかった。掘り下げないということは、言った、ということでこの先確定してしまう。不公平なのだ。だから穂高先生の解決方法に、納得していない。
でもわたしには、なにかを言う資格がない。
わたしは逃げた。優唯がそんなことを言うはずがない、言ってないって言っている。そう反論はしたけれど、証拠があるのかとニッシーにつっこまれて固まってしまった。よく考えれば言ったという証拠だってないのに、そこで終わってしまった。いざこざに巻きこまれるのが怖くて、なにもできなかったのだ。情けない友人だ。
優唯が学校に戻ってきたのは、受験が目の前に迫っているからだろう。居心地がよかろうが悪かろうが、今は勉強が第一、友情など育む必要はない、そう思ったのだ。
以来、真面目でおとなしい優唯に、クールという一面が加わった。余計な話をしようとせず、ひっそりと教室にいて、コツコツと勉強を進めていた。
わたしに「味方をしてくれてありがとう」と言ってくれたけれど、あれは本心なのか、うわべだけの言葉なのか、それとも皮肉なのか。わからないし問い質すこともできない。
味方なんて、全然できていなかったのだから。
──ある噂について穂高先生から電話があった。卒業式にうちのクラスで、誰かが誰かに仕返しをしようとしている、そんな噂。誰を指すのかわからないけど、穂高先生は優唯を疑ってる。わたしに知らないかって訊ねてきた。
結局、LINEのメッセージを送ることにした。
返信がきたらそこで通話に切り替えよう。そう思ったのだ。
けれど既読にならない。十分、二十分経ってもだ。話の持っていき方がまずかったのかもしれない。LINEはアプリを起ちあげなくても、設定すればメッセージの冒頭部分をスマホのホーム画面で読むことができるから、警戒されたんじゃないだろうか。もっと無難な話からはじめればよかった。だけど読んでもらえたとしても、返事がなければ同じことだ。
自分のメッセージを眺めたまま、電話のマークをタップして通話にしてみる。出てくれない。
どうしよう、と思い続けて四十分。穂高先生を放っておくわけにもいかないと電話をかけた。けれど先生も出てくれない。なんなんだよもう、と思ったけれど、こちらは留守番電話に切り替わった。メッセージも音声通話も返事がありません、そもそも既読になりません、と入れておく。
優唯が仕返しなんてするわけがない。穂高先生の誤解だ。そう思いながら明日の準備をする。制服に、滅多にかけないエチケットブラシをかけてみる。爪にやすりをかける。そうやっているのに、頭の隅にいろんな考えが浮かんでくる。止まらない。
気になる、とわたしは立ち上がった。コートを手に取る。
玄関を出ようとしたところで帰ってきたばかりのお母さんと鉢合わせした。
「どうしたの、彩芽。出かけるの? コンビニ?」
「ううん……、ちょっと、その、優唯ちゃんのところ」
「今から? どうして」
優唯の家は電車で三駅先だ。
「んーと、なんていうか、明日のために」
眉をひそめているお母さんに、ごめん、と頭を下げた。
「スマホ、こまめにチェックするからなにかあったら連絡して。すぐ帰るから。じゃあ!」
返事も聞かずに駆けだした。
3
僕がトイレに入っていたタイミングで文月から電話があり、出られなかった。かけ直そうと思ったけれど、井上と連絡がつかないのなら、話をしてもしようがない。諦めて、自分で井上の家に電話をした。文月にかけたときと同じように、留守番電話のアナウンスになった。連絡がほしいとだけ入れておく。
続けて唐沢心美に電話をした。最初は出なかったが、再度かけると「はい」と不機嫌そうな声が返ってきた。
「なんか用ですか、センセー。あたし明日のために、パック中なんですよ。頬っぺた動かせないからじょうずに話せなくて」
ふざけているような、へらへらした返事だ。ハンズフリーにしているのだろう、テレビの音が聞こえている。
「噂、聞いていないのか」
呆れる気持ちで訊ねた。
「なんのこと?」
平静な声が戻る。心美は一年生のころから、いつもクラスの中心的な位置にいて目立っていた。そんな彼女のもとに情報が集まらないなんてことがあるだろうか。たしかにこの時期、登校する生徒が少ないため噂の拡散力は低いだろうが。
「うちのクラスで、誰かが誰かに卒業式で仕返しをするという噂だ」
僕は、斎藤の妹が武道場の裏から聞いたという話を伝えた。
「へえ。……三年二組パニックか。なるほどというか、うまい命名だね」
「なにを感心してるんだ。ほかに言うことはないのか」
「暇だねえ」
「受験が終わったから、暇といえば暇なんだろう。だからこそ、数ヵ月棚上げにしてきたことに目が向けられたとも言える」
「あたしは暇じゃないよ。バイトして稼がなきゃ。これからひとりで生きていくんだー」
悲壮感のあるセリフを、そのかけらもなさそうに言う。父親が亡くなって伯母の家に引き取られたと聞いたときは本当に心配したし、心美自身も精神的に不安定になっていたようだが、夏休みごろから本来の自分を取り戻していた。元々タフで明るい性格だったが、より挫けなくなっていた。
「察しの悪いフリはやめなさい。井上優唯のことだよ。彼女がきみに仕返しをしようとしているんじゃないかと、そう心配してるんだ」
「さっきの話だと、誰が、ってのはわかってないんじゃないの。本人が自分だって言ったの?」
「まだ連絡がついていない。文月にも訊いてみたが、彼女も連絡がつかないようだ」
「彩芽ちゃんはなんて?」
「井上を疑いたくないと言っている」
「でしょうね」
あたりまえでしょうとでも言いたいのか、鼻で嗤うような音が聞こえた。
「笑いごとじゃない。仕返しの内容もわかっていないんだ。暴力をふるわれるかもしれないんだよ」
「優唯ちゃんとは仲直りしたよ。もう解決済みなんだよ。いまさらなんの仕返しをするの。別の人なんじゃない?」
「仲直りしたと思っているのは、きみだけじゃないのか? クラスでシカトされて二週間も休んだ子が、そう簡単に相手を許せると思うか?」
今度は軽い笑い声まで聞こえた。
「水に流せと言ったのはセンセーだよ」
「たしかに僕が、水に流せと言った。膠着状態を解くにはそれしかなかったからだ」
「でもシカトしたのはクラスの子たち全員だし。あ、彩芽ちゃんを除く、ね。あたしがシカトを先導したみたいに言わないでほしいんだけど」
きみがそういう空気を作ったんじゃないのか。口元まで出かかっていたが、なんとかこらえて表現を変える。
「きっかけはきみなんだから、井上が恨むならきみじゃないのか?」
「そうかなあ。恨むのなら全員だと思うよ。あ、わかった。爆弾作って、卒業式でバーン!」
きゃははは、と心美が弾けるように笑う。
「いいかげんにしなさい。どうしてそんなにふざけていられるんだ」
「センセーの声が暗すぎるからだよ。ねえ、本当にほかに思いつかない? もっと考えてみたら?」
「女子のトラブルで大きなのはそれぐらいだろ。なにか把握できていないものがあったのなら教えてくれ」
「女子限定なの?」
「言い忘れていた。斎藤の妹が聞いたのは女子の声だったそうだ。信じられないなら信じなくてもいいが、警戒はしなさい。わかったね」
はあい、という気のない返事がして電話が切られた。
次は、ワンセットのようにいつも心美の周りにいたふたり、西村ゆかりと浅沼麻子だ。あからさまに井上を攻撃していたのは、むしろこちらのふたりだった。騒ぎたて、火を大きくし、ほかの女子が従わざるを得ないようにもっていった。
彼女らに犬笛を吹いたのは心美だが、拡声器を持ちだしたかのように吠えたてたのはふたりで、周囲の生徒も付き従った。こういう場合、果たして誰を恨むんだろう。本当に全員への仕返しだったらどうしようか。
最初に連絡がついたのは西村だった。
「まじですか? だったら私、今から優唯ちゃんちに行ってシメてきますよ」
しまった。そういう可能性があることを忘れていた。西村はやたらと騒ぐタイプだったのだ。
「いやいやよしてくれ。彼女じゃないかもしれないんだ。ただそういう噂があって、僕の覚えている限りで一番大きなトラブルが井上の件だったから、もしかしたらと心配になったってだけだ。あのあと、井上と唐沢の関係はどうなった? そばで見ていた西村が頼りだ」
持ちあげて訊ねる。
「別の次元に存在する惑星ってかんじですかねー。互いに干渉しないっていう」
「そうか、ありがとう。先生も、ふたりが接触しないようにしている空気は感じていた」
「私、優唯ちゃんの発言は許せないけど、心美はもういいって言うし、あんまり責めて自殺なんてされちゃうと困るし、だから優唯ちゃんのことスルーしてるんですよ」
自殺。その心配もあるのか。だが井上は本命の国立の入試結果こそまだ出ていないが、私立は受かっている。自殺はないだろう。
「うん、先生が今言った話も、スルーで頼むよ。騒ぎになると困るからな。ただ一応、警戒だけはしてくれ。お願いな」
「心美は私が守るから、安心してください」
西村自身もだよと告げて、次の浅沼に連絡を取る。そのまえにもう一度井上にかけてみたが、留守番電話のままだった。
「その噂、聞いたけど、男子の話かと思ってました。だってあるじゃないですか、ヤンキー系のコミックに、お礼参りが」
浅沼は、驚いた声でそう答えた。
「いやお礼参りっていうのはな──」
「知ってます知ってます。本来の意味は、神社にかけた願いが叶ったお礼として、もう一度お参りに行くんですよね。で、転じてムカつく相手に仕返しにいく、と。でもそうか、女子だったんですね。だったら心美、危ないのかも。……やだ、どうしよう、刺されちゃったりしたら」
「そこまではないだろうと思うし、先生が心配しすぎているのかもしれない。別の誰かの話なのかもしれない。だから騒ぐことはしないでくれ。けれど警戒はしてほしい。浅沼もだよ」
はーい、と素直な答えが返った。
「さすがは穂高先生、最後まで生徒思いなんですね」
「なんだよいきなり。今さら内申点は変わらないし、変わったところで受験は終わっただろう」
「本心ですよー。元の主担の小林先生、やる気に充ちてたのはいいけど、森野くんたちのトラブルを収められなかったのをきっかけにどんどん空回りして、心美たちのことで完全に駄目になって病んで、休職しちゃったじゃないですか。穂高先生に代わってよかったな、ってみんなで言ってたんです。まあ、心美なんかは三年に進級したときから、穂高先生派でしたけど。ホント、一年間ありがとうございました」
「その挨拶は明日に取っておきなさい」
僕は面はゆい気持ちになって、電話を終えた。
さらにもう一度、井上にかける。だが留守番電話だ。もしかしたら、居留守を使われているのだろうか。
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