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 相手の子はせきかなみちゃんといい、大我よりずっと背も大きく大人びた雰囲気の、明らかにリーダータイプの女の子だった。高級な桃のように滑らかな頬に、白いガーゼが痛々しい。大我がこの子に怪我をさせたという現実が、否応なく突きつけられる。
「子供の喧嘩ですから、どうか気にしないでください。ただのかすり傷ですし、うちの子も物言いが結構キツいところがあるので」
 やはり仕事帰りか、ベージュのジャケットを着たお母さんがサバサバと言ってくれたので、強張っていた肩から少し力が抜けた。
「痛かったのに、なんでそういうこと言うの!」
 かなみちゃんが母親の背中をバシンと叩き、その目はみるみる真っ赤になってうるんでいく。教室で彼女が泣いたのを見て、他の女の子たちが一斉に大我を責めたと聞いた。
「本当にごめんなさい」
 私が頭を下げると、少女は戸惑った顔で視線を逸らした。
「もし傷の経過が思わしくないなどあれば……」
 この子の父親までご連絡を、というのは他人事にすぎると思う。でも大我にとっての、私の立ち位置がまだよくわからない。
「……どうか改めてご連絡ください。本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、そちらのご家庭も大変だと思いますので。あ、でも爪とか伸びてると本当に危ないので、時々気にかけてあげてください」
 同級生の保護者だから、大我の母の死も知っているのだろう。お母さんの眼差しには同情の色が浮かんでいた。大我の爪なんて、よくよく見たこともなかった。
「東原くんも、また明日からかなみと仲良くしてね?」
 大我はまた亀のように頭を引っ込めて、小さく頷いた。かなみちゃんはまだどこか納得のいかない顔で、そんな大我をじっと見ていた。
 今日はサッカーの練習日で、本来は練習後に江藤さんの家でご飯・お風呂までお世話になる予定だったらしいが、大我は遅れて練習へ行くことを拒否した。
「じゃあ少し早いけど、ファミレスでも行こうか……」
 アスファルトに淡く浮かぶ、自分たち二人の付かず離れずの影を踏みながら、とりあえず駅まで向かう。他人から見たら、私たちは学校帰りの子供とその母に見えるのだろう。
 そういえば大我がサンタクロースを信じているのか否定派なのか、担任にも兄にも聞きそびれてしまった。今日のことを話すうえで、前提を間違えれば後々に影響する、とても大事な問題なのに。今日は大我に会う予定ではなかったので、インタビューの質問も考えてきていなかった。
「……なんで、あやまったの?」
 聞き違いかと思い、大我の方を見下ろすと、今度はもう少しはっきりとした声で、同じ質問をされた。
「喧嘩の発端がなんであれ、やっぱり手を出したらダメだよ。大我くんも、怪我をさせて、泣かせちゃったのは悪いと思ったから謝ったんでしょう?」
「そういうんじゃないっ」
 以前に機嫌を損ねたときと同じトーンだった。
「……そういうんじゃないなら、どういうの?」
 大我はまた黙り込んでしまう。ごくわずかなシッター経験から言うと、このまましばらくは亀になってしまう。でも予想に反し、大我は再び口を開いた。
「……泣くのは我慢するものじゃん。泣いたら勝ちみたいなの、ずるいよ!」
(ああそっち?)
 なぜ私が、、謝ったのか。そういう質問だったらどうしようと内心焦っていたから、力が抜ける。私はつい「はは」と笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「ああごめん。私も昔、まったく同じように思ったことあるなって。絶対に泣かない、強がりの子供だったから。向こうが先に手を出してきたのに、反撃したら泣かせちゃって、周りに私がいじめたみたいに思われたことがある」
「それでどうしたの?」
「頑張って先生や母親に何があったか説明したよ。母は『お兄ちゃんもまったく同じ状況になったことある』ってちゃんと信じてくれた」
 ガタイがよくて喧嘩も強い、母由来のDNAは兄と私に遺伝している。
「――なんであの子をぶっちゃったか、説明できる? サンタさんの話をしてたんだよね?」
「……関が、サンタさんなんかいないって。僕が絶対いるって言ったら、『いまだに信じてるなんて子供っぽい、馬鹿じゃないの』って……」
 大我はサンタを信じている派だったのか。
 大人からしたら微笑ましい諍いだが、大我にしてみれば、ずっと信じていたものを否定されたことはショックだっただろう。そしてかなみちゃんの言い方がキツいのは本当のようだ。
「サンタさんのモデルになったセント・ニコラウスはものすごい昔に実在したし、サンタクロース協会というのが世界最北のグリーンランドという島にあって」
 サンタに関する知識を総動員してこの場を宥めようとした私の言葉を、大我が震える声で、遮った。絞り出すような声だった。
「お父さんが、お母さんはサンタさんと同じ場所にいるって言ったのに! 去年のプレゼントだって、サンタさんとお母さんが相談して決めたんだって……サンタさんは、お母さんは、いないの? どこにも? お父さんは嘘をついたの?」
 大我の丸い顔がみるみるトマトのように赤く染まる。かと思うと、次の瞬間に彼は顔をしかめ、瞬きもせず宙を睨む。
 この子はこんな小さいのに、喪失の痛みを知っている。それはなんて酷なことだろう。世界をまだほとんど知らないうちから、世界で最も深い悲しみの一つに直面してしまうなんて。
 私は咄嗟に胸を突かれ、かといってどう慰めていいのかもわからない。本人が泣くまいとしているのに、「泣かないで」はおかしい。頭を撫でて良いものか躊躇していると、中途半端に上げた手で、傍の車道を走るタクシーを停めそうになった。
「サンタさんやお母さんがどこにもいないとは、誰にも言い切れないんだよ。信じてる人の心の中にいるって、嘘じゃない……」
 べんとはわかっていても、何か言わねばならないと思う。大我のために、嘘でない何かを。
 私は小三の頃の記憶を辿ろうとして、ふと気付く。もう少し新しい記憶の中に、私たち二人の大きな共通点があった。
「むかし私と義徳兄さんのお母さん――大我くんのおばあちゃんにあたる人が死んだとき、友達が教えてくれたんだけどね、細胞っていう、体のもとみたいな、目に見えないくらいすごく小さな体の一部を、お母さんと子供は交換してるんだって」
「……さいぼう」
「そう。私たちはみんな細胞でできてる。それで、大我くんの体の何百万の、何千万分の一くらいは、お母さんの細胞。お腹の中にいたときに交換したものが、子供の中にほんの少しだけど残ってるんだよ」
 大我は自分のお腹を不思議そうに見下ろす。葬式で会ったときは顔ばかりかお腹まで丸く出た幼児体型だったが、ずいぶん子供らしい姿になった。成長しているのだな、と思う。
「だから、お母さんの一部が大我くんの中にいるのは間違いない」
 当時二十代の半ばに差し掛かっていた私には腑に落ちたが、大我は眉間に皺を寄せ、納得のいかない顔をしている。細胞よりサンタクロース村の話をすればよかったのか。
「……よく、わかんない……!」
 突然、大我はせきを切ったようにぽろぽろと涙をこぼし始めた。
 私はその熱のこもった丸い頭に恐る恐る触れる。掌の中のあたたかい丸みから、何かがじんわりとこみ上げて胸に達する。嫌がられている様子はなかった。
「泣いちゃ……ダメ、なのに」
「泣いていいんだよ。泣きたいときはいっぱい泣くの。そういうもんなの」
「由美子さん、今日のこと、お父さんに、言う?」
「何があったかは言わないとだけど、泣いたことを言ってほしくないなら、言わないよ」
「言わないで……お父さんが我慢してるのに……僕も我慢しないとダメなのに……」
 大我はいよいよしゃくりあげて、顔中を濡らし、切れぎれの声で言う。
「お父さんが、泣くのを我慢してるの?」
「……僕が寝てる間に、泣いてた……でも僕の前では……ぜったい、泣かな……な、泣いてない、フリしてる……」
 初めて二人で過ごしたとき、この子が途方に暮れていると思った。私も人生に再び“家族”が現れて、困惑していた。でも誰よりも一番、兄が途方に暮れていたのかもしれない。
 ファミレスで瞼を腫らしたままチキンカレーを完食した大我は、なんとか家までは持ち堪えたものの、風呂を沸かしている間に寝てしまった。兄が帰宅したのはそれからまもなくだった。
 大我を起こさないように、二人で電気を落とした共用リビングへ移動する。
「本当に、申し訳なかったです。学校にはココ・アパートメントのこととか、江藤さんと我が家の関係とか、根気よく説明していくんで、二度とこんなことがないようにします」
 久しぶりに顔を合わせた兄は、元柔道選手の体格はそのままに、一気に老けて見えた。謝罪で下げた頭の天辺てつぺんが薄く、白髪も増えたようだ。土気色の顔は明らかに不摂生で、疲労が溜まっていると思われた。
「私の方は大丈夫。関さんのお母さんも気にしないようにって言ってくれたし、先生も大我くんが反省しているのを理解してくれてて……それより」
 色々と遠回しな言い方を考えるには、私はそこそこ疲れていた。
「兄さんは、我慢しすぎだと思う」
 兄はぽかんとして、私を見返した。
「……え? いや、由美子さんとか、敦子さんたちとか、頼りすぎるくらい頼らせてもらって、本当はもっと僕が頑張らないと」
「それ以上頑張らなくていい。でないと死にますよ? それより、兄さんがいろいろ我慢することは、大我くんも我慢しなきゃいけないってメッセージになるんだよ、きっと」
 兄は眉間に皺を寄せ、納得のいっていない顔をする。大我は母親似だと思っていたけど、こんな表情は兄によく似ている。
「兄さん、あの子の前では我慢して、隠れて泣いてますよね?」
「え……なんで? 泣いてませんよ」
「子供の目はごまかせないみたいですよ。大我くんは気が付いてます」
 兄はそのまま絶句する。やはり隠れて泣いているのだ。
「……いや大我の前で、そんな姿を見せるのは……不安にさせるし……」
「不安はいつか解消できます。大我くんが安心して暮らせるように、江藤さんたちがきっとこれからも手を貸してくれるし、私だって手伝いますよ。でも悲しみはそういうものじゃないでしょう――そういえば私たち、お母さんが死んだあとも、ちゃんと一緒に悲しんでなかったよね」
「家族で葬式をあげたじゃないですか」
「あの一日で悲しみがなくなるわけじゃない。それとも兄さんはなくなったんですか? あのあとお母さんのこと思い出して、涙が込み上げたこと一度もなかった?」
「う……」
「そういうのを、本当はみんなで一緒に経ていくものだったんだと思う。でも物理的にも心理的にも、私たちには難しかった」
 話しながら、なんだか下瞼がうずうずしてくる。きっとこの場所のせいだ。私にとって敷居の外なのに、ゆるやかに内側みたいな、家庭よりも薄いけど、その分大きな膜に守られているような、この場所の。
「大我くんは一緒に住んでるんだし、まだ小三だよ。いいじゃない、泣きたくなったら一緒に泣けば。泣かなくても、楽しい思い出で笑ったっていい、一緒にいためばいいじゃないですか」
 家族でなくたって、江藤一家もきっと一緒にしのんでくれるだろう。義姉を知っている皆で彼女を思い、笑って、泣けばいいのだ。
 そして時々は、母たちの話をするのもいいかもしれない。私たちの中にある何百万分の一の細胞が、どんな人のものだったのか、兄と大我と私で、互いにインタビューしあうのだ。そうやって大我を見守る膜を少し厚くするくらいなら、私にもたぶんできる。
 私は兄にも、大我と義姉が交換した細胞の話をした。
「だから大我くんはある意味で、お義姉さんと一緒にいるわけです。彼女とサンタが一緒にいるなら、三段論法で彼はサンタとも一緒にいる。次のクリスマスのとき、あの子にそう話してあげたらどうでしょう」
「……そうか、彼女と一緒に……心強いなぁ……」
 兄は静かに涙を流していた。静かすぎて、電灯の明かりに雫が光らなければ、すぐには気付かなかった。なるほど、これなら泣いていないフリも簡単だ、と思った。
 誰かが共用リビングのドアを開け、私たちがいることに気付き、そしてたぶん泣いていることにも気付き、「失礼」とそっとドアを閉めた。

 十二月、ココ・アパートメントではクリスマス会が開かれるという。
 そのことを私は兄からではなく、大我からの招待状で知った。兄がアプリのメッセージで補足することには、小学校で折々の行事のときに招待状の書き方を学んでいたらしく、それを応用して書いてくれたらしい。
「でも僕には住所だけ書かせて、中身を絶対に読ませてくれなくて。誤字や失礼があったらごめんなさい」

 由美子さんへ
 寒い冬が来ましたね。お元気ですか?
 十二月十日にココ・アパートメントのクリスマス会があります。みんなで食べ物を持ってきます。ゲーム大会やえいがかんしょうの時間もあります。ぼくはお父さんと果物を持っていきます。由美子さんにも来てほしいです。
 本当はりょう理をしたいです。お父さんがいそがしくてコハンを作れないので、ぼくが代わりに作ろうと思った。でもぼくはまだ三年だし、ほうちょうは指を切るのでこわいです。こんどりょう理を教えてください。おねがいします。がんばりまっす!
 ぜひクリスマス会に来てください。 東原大我 

 拙い文面に、思わず顔がほころんだ。
 独身子無し、家族のしがらみもなく、少数精鋭の友人がいればいい、隣人付き合いなんてあり得ない。そんな気楽な生活が気に入っていたけれど、たまには面倒くささを味わうのもいいか、なんて。あの不器用な兄という人と、なんだかんだで可愛く思えてきた甥っ子と、彼らの隣人たちによって、私が自分の周囲に作り上げた高く快適な壁には、いつの間にか大きな窓が開いている。
 そしていよいよ大我にボルシチを振る舞うときが来た。材料と入手先を頭の中で整理する。ビーツは近所のスーパーにはたぶん無い。ああでも、もしも聡美さんがポタージュ、チェンシーさんが酸辣湯を作ってきたら、スープだらけになってしまう。まずは大我に料理の基礎を教えてから、いつか一緒にコハンで作ることにしようか。
 聡美さんといえば、クリスマスのあとに「泣ける映画ナイト」というイベントをアパートメント内で企画している、と敦子さんから聞いた。大人は泣きたくなったら思い切り泣くこと。子供はそんな大人を見ても茶化したり笑ったりしないこと、がルールらしい。
「私たちは家族じゃないし、それぞれの哀しみを共有することはできないけど、せめて、泣いてる時間くらい、たまには共有してもいいかなって」
 という又聞きした聡美さんの談に、私はあの夜、誰がリビングの扉を開けたのかを確信した。

 

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