「ちゃんとお話ししてくれないと、叔母さんも困っちゃうな」
私の声音に苛立ちの気配を感じたのだろう。大我は泣きそうな顔で私を見上げた。その表情を見て、ハッと胸を突かれた。
(この子、途方に暮れてるんだ)
大我の立場になって考えてみれば、当然のことだった。
突然母を亡くして間もないのに、数えるほどしか会ったことのない、ほぼ他人の叔母といきなり二人きりでひと晩過ごすなんて、不安以外の何ものでもないだろう。私が兄のようなガタイのいい中年男だったなら、恐怖すら覚えたかもしれない。彼と何をして遊べばいいのか、何を話せばいいのかを考える前に、私たちは知り合わなければならなかった。知り合って、私は安心できる相手だという信頼を得なければならなかった。
糸口を探して自分の小学生の頃を思い出そうにも、記憶はあまりにも朧だった。当時流行っていたアニメや歌謡曲はなんとなく思い出せても、日々何を思い、何を大事にして、何に悩んでいたのか。友達と、そして親と先生以外の大人と話すときはどんなだったか。私の中にいるはずの、かつての八歳の子供は一向に見つからなかった。もしも私に育児経験があったら、簡単に見つかったのだろうか。
毎回互いにインタビューをしてみる、というのは、大我と同じように途方に暮れた私が無理矢理絞り出した提案だった。仕事で消費者調査を担当したこともあったから、インタビューには慣れていた。ただ漫然と尋ね合っても張りあいがないので、お互いについて知ったことを、父であり兄である義徳にそれぞれ報告することにした。
最初は好きな食べ物やら趣味やら、当たり障りのない質問をしあっていた。だんだんと互いに慣れるうちに、そのときどきの興味や、話の流れのままに知りたいことを聞くようになった。合間には共用リビングで他の住人と過ごしたり、卓球をしたり、ネット検索で見つけた、棒消しのような昔懐かしい手軽なゲームなんかをするようにもなった。検索エンジンもまるっきり役に立たないわけじゃない。
そうやって少しずつ、お互いについて知り合ってきたのだが、大我が私をどれほど信頼してくれているのかは、まだまだわからない。あるいはこの先も、彼から全幅の信頼を得ることはないのかもしれない。
同僚と上司に理由を話し、定時ダッシュで準急を捕まえ、やっとの思いでココ・アパートメントに着いたときは、七時を過ぎていた。共用リビングに飛び込むと、大我はソファで上階に住む大江花野という女の子と並んで漫画を読んでいた。
「大我くん、遅くなってごめんね。おなか空いたでしょ」
「だいじょうぶ。花野ちゃんにクッキーもらった」
さりげなく様子を観察したが、前回の気まずい空気はすっかり忘れているようでホッとする。
「こんばんは由美子さん」
「こんばんは。大我と遊んでくれてありがとうね。クッキーもごちそうさまでした」
「どういたしまして。お母さんがお仕事でもらったのが余ってたから」
五年生の花野ちゃんはさすがにしっかりしている。大我は自分も挨拶をすべきだったと思ったのか、一瞬戸惑ったような顔をした。
「じゃあ行こっか。すぐ出られる?」
「お金取ってくる。お父さんがお財布に入れてくれた」
「あとでまとめて精算するからいいよ。それより上着を着た方がいいかも。外、結構涼しいよ」
今日は大我のリクエストで、駅前の人気ラーメン店で夕食の予定だった。四十路の夕食には重すぎるのだが、子供の頃の自分も、ラーメンが好きで好きでたまらなかった記憶があるから仕方ない。
大我が上着を取りに行っている間も、花野ちゃんは、夢中で漫画を読んでいる。花野ちゃんの母親の聡美さんとも、これまで二度ほどこのリビングで顔を合わせたことがある。とても聡明でハキハキした感じの女性で、兄たちと同じくひとり親家庭と聞いた。
「花野ちゃん、聡美さんまだお仕事?」
「今日は接待で遅くなるって言ってました」
「あら、じゃあ一緒にラーメン食べに行く?」
「母がおかずを作り置きしてくれたから大丈夫。康子さんと一緒にデザートを食べる約束をしてるし。でもありがとうございます」
「そっか。ところでその漫画やっぱりおもしろい? もうすぐ映画が公開されるんだっけ」
「新人の初連載だから絵はまだ下手なところもあるけど、キャラクターがいいです。皆が前世の記憶を持った国で、ほとんど記憶を持たない少女が主人公で。殺戮の限りを尽くして退治された大魔女だったという記憶だけわずかに取り戻した彼女が、迫害を恐れながら過去の謎に迫っていくんですけど、残酷な記憶と少女のボケっぷりのギャップがよくて。あと途中から仲間になる前世が騎士の少年にバレたときの」
「待って、それ以上ネタバレしないで。あとで読みたいから」
「あ、ごめんなさい」
花野ちゃんの将来の夢は漫画家と聞いたが、ココ・アパートメントの掲示板で見た彼女の絵は、お世辞にも上手いとは言えなかった。でも「漫画であらゆることを学んできた」と豪語するだけあり、年齢の割に語彙が豊富で、発想もなかなか面白いので、ストーリー作りならいけるかもしれない。こんなふうに、外野の漫画好きな大人が勝手な期待を抱いていることを、彼女はまだ知らない。
ラーメン店では、大我はトッピング全部入りのスペシャル・ラーメンを、私はスタンダードな醤油ラーメンに煮卵だけ付けたものを注文した。
「お父さん相変わらず忙しいみたいだけど留守番は大丈夫? 寂しくない?」
「りゅうたちといっぱい遊べるから寂しくないよ。こないだ一緒に寝たときにね」
大我はふひゃひゃ、と説明をする前に吹き出し、ぷっくりした手に丸い顔を埋める。
大我の要領を得ない話を繋ぐと、江藤家に泊まるときはいつも次男の龍介くんと布団を並べて寝るのだが、この前彼が「マネージャー、ファンが怒鳴ってます」というとても冷静ではっきりとした口調の寝言を言ったそうだ。当の龍介くんはどんな夢だったのか覚えておらず、でも互いに再現しては笑いが止まらなくなり、小学校のクラスでもしばらくの間、その妙なフレーズをできるだけ抑揚を付けずに言うのが流行ったのだという。子供の笑いのツボはつくづく不思議だ。
「龍介くん、夢の中で芸能界入りしてたのかね。喧嘩したって聞いたけど、もう仲直りしたの?」
「うーん、まあなんとなく? サッカーの練習もあるし」
では私が来る必要はなかったのでは。一瞬そう思ったが、口いっぱいにラーメンを頬張る大我を見ていたら、まあいいかと考え直す。会った当時を思えば、こんなふうに無邪気に話をしてくれるようになったのは、ともかく大きな前進だ。
「じゃあインタビューを始めよう。まずは前回のおさらいからね。私が行きたい国はどこでしょうかー?」
「えー? あーっと……ぶ、ぶ、ブラジル!」
「残念、ブだけ合ってます。地域はもっと日本に近い。一緒にグーグルアース見たでしょう」
「そうだっけ? もう覚えてないよ」
ほんの二ヶ月前なのに、覚えてないのか。私は軽くショックを受ける。
「正解はブータンでしたー。理由はお金じゃなく、幸せを大事にしてる国らしいから」
「あ! どれくらいみんなが幸せか、測ってる国だ」
「そうそう。どう測るのかいまいちよくわからないけど、どんな国か見てみたいんだよね。で、大我くんが行きたい国はスペイン。理由はサッカーチームのバルセロナが好きだから」
そういえばあのとき大我はパエリアを食べてみたいと話していたのだった。今夜はラーメンじゃなくスペイン料理にしていたら、好奇心を刺激できて教育上よかったかも、などと考える。
「由美子さんて記憶力いいよね。花野ちゃんみたい」
大我が心底感心したように言った。二人の記憶の差は、きっと互いへの興味関心の高さの差からくるのだろうな、と思う。
自分も子供の頃、親戚の大人になんて興味が湧かなかった。視界の高さが違う世界はほとんど見えていなかった。親のことですら、思い起こせばあまり知らない。父のことは今からでも知ろうと思えば可能かもしれないが、母のことはもうわからない。彼女が行きたかった国は、どこだったのだろう。
大我が大人になったら、私についての記憶どころか、存在そのものが、ああそういえばいたっけね、くらいに薄れてしまうのかもしれない。
「今日聞きたいこと、考えてきた?」
「えっとね……あ、由美子さんは料理、できる?」
「たまーにするよ。時間と気力があるときは簡単な作り置きしたり――」
言いかけて、大我の質問が意味するところに気付く。
「いつもデリバリーや外食ばっかりでごめんね。ちゃんと作ってあげられたらいいんだけど」
会社帰りにここまで来るだけで精一杯で、仕事終わりに食材を買い、使い慣れない台所で料理すると考えただけで、ぐったりしてしまう。食事時間も遅くなってしまうし、かといって育ち盛りの小三に独身・四十路の時短適当飯――納豆キムチご飯とインスタント味噌汁だけでは、私の中の“世間様”のお怒りを買ってしまう。働いて家事育児もこなす、世の親たちに頭が下がる思いだ。
大我は「ラーメン、嬉しいよ?」と丸い澄んだ目で言ってくれる。いつか数少ない得意料理のボルシチを作ってやらねば、と密かに心に決めた。それが意地から来るのか、わずかでも愛情から来るのか、自分でもよくわからなかった。
「あとね、いつ、どうやって、料理できるようになった?」
「家で母の手伝いをすることもあったけど、包丁の使い方とか、ちゃんとゼロから習ったのは、やっぱり小学校の授業だったかな。調理実習があるのは五年生くらいだっけ」
「うん。花野ちゃんは家庭科の教科書を先まで読んじゃって、もう朝ごはんとか作れるんだって。お米炊いたり、ゆで卵とか、お味噌汁も作れるんだよ」
「花野ちゃんならすぐできそう。高学年になれば、ひとりで火を使ったり包丁を使ったりもそんなに心配ないもんね」
「包丁って難しい?」
「慣れちゃえばどうってことないよ。大学生ぐらいまでは、たまに油断して指切ったりもしたけど」
「そうなんだ……」心なしか大我の顔が青ざめて見えた。
「大我くんも料理したいの?」
「……別に」
「料理できると便利だよ。一人暮らしになったら、絶対に作れたほうがいい。凝ったものじゃなくて、野菜炒めとか簡単なものでいいんだよ。栄養も偏らないように自分で管理できるし、お金の節約にもなるし」
大我はほとんど無反応だった。小学三年生に独立後の節約生活を説いても、実感が湧かないのは当たり前かもしれない。
丸い顔はもっと何かもの言いたげなのに、それ以上質問してくる気配はなかった。言葉にする術がまだ拙いからなのか、単純に、私に何でも話すにはまだ警戒があるのか。大我の心の奥は、開きそうで開かない。
その日の私からの質問は、龍介くんから連想して、一番最近見た夢はどんなだったかというものだった。ぜんぜん覚えてないと言う大我に質問を重ねてみると、少し前に隣に住む大家の勲男さんの家の庭に、木の枝の妖怪が現れる夢を見た、と言う。
「手足が枝で出来ててすごく長くて、全部伸ばすとココ・アパートメントも超えちゃうくらい背が大きいの。夜になるとこの辺を歩き回ってるんだけど、見えないふりをしないといけなくて、僕はバレそうになってドキドキした」
東西の有名フィクションが混ざり合った造形の元ネタは、どうも花野ちゃんの創作話らしく、内緒で教えてもらえる「庭の七つの秘密」なるものがあるそうだ。
私はまだ勲男さんに会ったことはないが、共用リビングに飾られたいくつかの記念写真を見る限り、大柄でとても威厳のあるおじいさんだ。少し前に大病を患って車椅子生活だと聞いたが、そういった現実が大我の夢にも影響しているのかもしれない。それでなくとも春の花見や夏の流しそうめんと、行事のときに招待してもらえるらしい特別な庭は、きっと子供たちの想像力を大いに刺激するのだろう。
「花野ちゃん、そのお話を早く漫画にしてくれないかな。大家さんの庭もいつか見てみたいな」
大我は嬉しそうに同意してくれる。まだ七つの秘密のうち三つしか知らないそうで、早く残りを知りたいのだと言う。
「勲男さんの庭は、由美子さんもお花見に来ればきっと見られるよ」
「じゃあ来年は大我くんが招待してね。楽しみにしてる」
『隣人のうたはうるさくて、ときどきやさしい』は全4回で連日公開予定