マンションの入り口まであと二十メートルほどのところで、三階の男が郵便受けの前にいることに気付いた。できるだけさり気なく後退りして、角の家のあまり手入れされていない生垣の陰に身を隠す。一度消えた塀の上の人感センサーが再び反応し、私という不審者を煌々と照らした。
以前にやはり入り口であの男に行き合ったとき、社交辞令で一応挨拶をしたら、無言のままやたら人の顔をジロジロと見てきて気持ち悪かった。以来、顔を合わせるたびに同じことをされるので、できるだけ避けている。五十絡みの、これといって特徴のない顔と服装で、外ですれ違っても警戒どころか注意も払わないような平凡な外見だけに、尚さらあの奇妙な振る舞いが怖い。マンション住人の間で『会いたくないランキング』を付けるとしたら、彼はダントツの一位だ。
二位は間違いなく最上階の六階に住む、ひ弱な外見の割にひたすら攻撃的なおじいさん。この世のあらゆる人間が鬱陶しいという風情で、初めて挨拶をしたときにはじろりと睨まれ、数時間ほど気分が暗くなるダメージを負った。彼が先に乗っていたエレベーターに慌てて駆け込んで、思い切り舌打ちされたこともある。毎回何かうまい反撃ができたらと思うのだが、慣れないことは咄嗟にできるものではない。自慢じゃないがこれまで四十一年間、他人に迷惑をかけない・不快にさせないという常識に従って生きてきたのだ。自分の小市民的善良さにやるせなくなりながら、ダメージだけが溜まっていく。
そして三位を挙げるなら、隣の部屋の若い女性になるだろうか。二ヶ月に一度くらいの周期で、真夜中に何か重いものを壁伝いに動かし、その後は奇妙なメロディの歌を歌うという習慣がある人だ。三十分以上続くことはないため、やり過ごせなくはないのだが、気になりだすと止まらない。何より不気味だ。一度管理会社に注意してもらってからは、音量は少し抑え気味になった一方で、私を見る彼女の目に怯えが浮かぶようになった。互いをヤバい人認定した私たちは、マンションの敷地内で行き合えば会釈はするが、敷地外だと完全な他人ムーブになる。だからこそ、駅やスーパーで偶然居合わせ、目が合ってしまったときはとことん気まずい。
壁で仕切られているとはいえ、なんならある意味で同じ屋根の下に暮らしているのに、こんなにも会いたくない。まともな私ばかりが割りを食っている気がする。男は敷居を跨げば七人の敵あり、と言うけれど、マンションの敷居を跨がなくても私には三人の敵がいる。近くに住んでいるからこそ、厄介な敵になったとも言える。遠くの他人であったなら、名前も知らない彼らをこんなに厭うこともなかったのだから。
視線の先で、三階の男はポスティングされたチラシをぐしゃりと丸め、大家が設置した専用のゴミ箱へ乱暴に放り込んだ。オートロックの内ドアが閉まる音に耳を澄まし、私は恐る恐るマンションの入り口まで歩を進めた。どこからか微かに金木犀の香りがすることに、ようやく気付いた。
冷凍しておいたご飯にキムチ納豆、インスタントの味噌汁に豆腐だけ切って入れたもの、という修行僧のような夕飯を済ますと、スマートフォンに兄の義徳からのSOSメッセージが入っていた。いつもながら他人行儀な、まるで仕事先に送るような文面だ。
〈お忙しいところたいへん恐縮ですが、急な出張のため、金曜の夜から一泊して土曜まで大我と過ごしていただけませんでしょうか。龍介くんと喧嘩をしたらしく、江藤さんの家は大我が拒んでおります(もしもそちらが難しいようでしたら、言い聞かせます)。土曜の夕方頃には帰れる予定なので、由美子さんのご都合が許す限り滞在いただけたら大変助かります(留守番にも慣れてきましたので、ご予定などありましたらどうかご遠慮なく)。食事についてはあとで精算しますので、外食でもデリバリーでも、大我と一緒に好きなものを食べていただければ。土曜の夜はコハンがあるので、もしよかったら〉
短文メッセージ向けアプリにあるまじき長文と括弧書きの多さに、思慮深い兄の性格が表れている。兄が「由美子さん」呼びなので、いつからか私も義徳「兄ちゃん」ではなく、「兄さん」呼びになった。
脳裏には、二ヶ月前に会った甥の大我の丸顔が浮かぶ。なにかのキャラクターみたいに、すべてのパーツが円でデザインされたような顔をしている子だ。
〈承知しました なるべく早く向かえるようにしますが今日明日の仕事の状況にもよるので時間などは追って連絡します 当日何か不測の事態が起きた場合はいただいている番号に連絡します 夕食は本人の希望を聞いておいてもらえれば〉
兄に負けず劣らず四角四面なメッセージを打ちながら、座椅子に疲れた体を預けると、知らずため息が出た。体は明らかに、面倒くさがっている。
都内にある兄たちの住むマンションは、私の会社からもマンションからも、電車を乗り継いで片道一時間近くかかる。その移動距離も、兄の家の慣れない寝具も、体力の衰えを日々感じる身では、なかなかキツい。週末は二度寝したうえで、パジャマのまま一日中ごろごろしてようやくエナジー・チャージが叶うのだが、大我と寝起きするときは、平日同様、七時には起きる。彼の今後の教育のためにも、大人のだらけた姿を見せてはならぬ、と自分の中の“世間様”に言われている気がしてしまうのだ。
メッセージを送信したあと、ついでに「小学三年 男子 仲直り」と検索する。結果は小学生同士の喧嘩についてのサイトばかりで、私たちには当てはまらない。
前回泊まりがけでシッターをした夜は、大我は夏休み中の開放感もあってかよく笑い、口数もいつもより多く、これまでにないほど私に打ち解けているように見えた。案外私は子供に好かれる質なのかもしれない、などという錯覚を抱いたのも束の間、翌朝になって彼が些細なことで殻に閉じこもるように口をきかなくなってしまい、兄が戻るまで微妙な空気のまま別れたのだった。
四十年あまりの人生、友人や恋人や同僚と近付いたり離れたり、ややこしい人間関係はそれなりに経験してきた。人付き合いの断捨離の後に残った少数精鋭の友人たちとの、穏やかで気楽な関係にようやく落ち着いていたところへ、再びこんなふうに悩む日が来るとは。しかも小学生の甥っ子相手に。
そもそも私の中では、血縁というものが希薄になって久しかった。
別に家族仲が悪かったわけではない。反抗期も親の離婚も、DVなどという不幸も経験しなかった。ただ社会人になってまもなく、母が平均寿命よりうんと早く逝き、やもめとなった父が香川の実家を引き払い、学生時代を過ごした北海道へ移住したら、そこで新しいパートナーを見つけた、という話だ。
兄妹仲も悪くはなかったと思う。でも私の物心がついた頃には、兄は将来を嘱望された柔道選手として、関東にある中高一貫校の寮に入っていたから、兄に遊んでもらった記憶はごくわずかだ。親しくなるには年齢的にも物理的にも、距離が遠すぎたのだ。そして私たちは二人とも、たまに会ったときに距離を一気に縮められるような人懐っこさからは程遠かった。
兄は家を出たあと、帰省するのは年に二度ほどで、いつも過密な練習メニューの合間を縫った短い期間だった。そして私が小学校を卒業する前に、兄は大学の強化合宿で大怪我を負い、以来試合に出場することなく卒業と共に引退し、そのまま東京で柔道とはまるで関係のない、工場の管理や流通のシステムを開発する一般企業に就職した。
社会人ともなれば帰省する頻度なんて推して知るべしで、その頃思春期真っ盛りだった私も、兄と再び親睦を深める時間も関心もなかった。両親も「家族が揃う時間を大切にしよう!」というタイプではなく、割とドライだったので、兄が就職して以降、四人揃って家族行事らしい行事をしたことはほとんどない。気付かない間に兄が帰省しており、気付けばすでに東京へ発っていた、という年末年始も何度かあった。
私が大学進学で家を出てからは、母の葬式と兄の結婚式、そして父の引っ越しで実家を引き払うときに顔を合わせたくらいで、兄とは特に交流はなかった。大我が生まれたときも、会いに行かずに贈り物だけ通販で手配し、店側が用意した例文のメッセージをそのままコピー&ペーストしたカードと共に送った。
そんな私が叔母として初めて大我に対面したのは一年半ほど前の冬、義姉が突然の事故で亡くなったときだ。想像の中の彼は内祝いに添えられたカードの、生まれたての写真で留まっていたから、葬儀場の長い廊下の片隅で姿を見かけたときは、(ずいぶん丸っこい子供だな)と、我が甥だとは気付かずに通り過ぎていた。
喪主の兄は一見毅然としていたが、明らかに顔色が悪く、憔悴し切っていた。仕事は激務と聞いていたから、父子二人だけでは遠からず生活が破綻するのは明らかだった。
こういう場合、多くのケースではきっとそれぞれの実家が二人を支えるものなのだろう。でも兄だけでなく、義姉も家族との縁が薄い人だった。両親は彼女の高校入学と同時に離婚、その後それぞれに再婚していて、一人っ子の彼女は夫と子供、両親の他に近い身寄りも実家もない人だったと、私は葬式の席で初めて知った。
「うちの人もぜひ頼ってくれと言ってるし、大ちゃんを数日預かるとかなら、喜んでお世話するから、どうか遠慮せずに」
北は北海道から南は大分県と、東京から遠く離れたそれぞれの地で、新たなパートナーと暮らす祖父母たちが言うものの、そして兄一家は孫を媒介にそれぞれと浅い交流を保ってはいたらしいが、ほぼ他人の、それぞれの伴侶がいる家に頼るのは憚られたのだろう。本音では祖父母たちも気まずいものがあったと思う。具体的な話にならないまま精進落としは終わり、ジジババたちは斎場が手配したマイクロバスに乗って帰って行った。
義姉のママ友の江藤敦子さんと、夫の和正さんに声をかけられたのは、二号目のバスの車内だった。
「このたびは……」
二人揃って真っ赤に泣き腫らした目で挨拶され、自分は義姉とは一度しか会ったことがなく、ほぼ交流はなかった、なんなら実兄ともほぼ交流はない、などとは言えず、東原家の親族らしく、丁重にお悔やみの言葉を受け取った。
「うちの次男と大我くんは保育園も小学校も一緒で、同じサッカーチームにも入ってまして、東原さんのお家とは、ずっと家族ぐるみでお付き合いさせていただいてたんです。それで差し出がましいとは存じますが……」
江藤夫妻の提案は、彼らの住む「少し特殊な」マンションに、父子で引っ越してきたらどうか、というものだった。生前の義姉も興味を持っていたのだと言う。
「放課後や週末にあるサッカー練習の送り迎えは私か夫ができますし、義徳さんの帰りが遅いときなんかは、うちで預かれます。共用スペースには大抵ほかの部屋の子供や大人もおりますから、セキュリティのうえでも安心かと思います。何より、私たちでできることがあれば、二人を支えたいんです」
「義徳さんも今はまだ今後の生活のこととか考える余裕はないと思うのですが、折りを見て、妹さんからもそれとなく勧めていただけたら。何かあればいつでも僕らにご連絡ください」
申し訳なくもほとんど他人事として聞きながら、自分が彼らと同じ立場だったら、こんなふうに手を差し伸べられただろうかと考えた。
結婚式で一度だけ会ったときの印象では、義姉はやはり顔のパーツ一つ一つが丸く、顔も性格も柔らかな雰囲気の、私とは正反対のタイプに見えた。彼女と知り合う機会は永遠になくなったが、いい友達がいる人だったのだな、と思った。
そのまま夫妻とはメッセージアプリのIDを交換して別れた。兄とは互いのIDを知らないのだとは、最後まで言えないままだった。
「少し特殊な」マンションのことは帰宅してすぐに調べた。
ココ・アパートメントという名のその賃貸マンションは、『心地よい暮らしを作るために多世代の住人が協働するコミュニティ型マンション』らしい。企画運営を担うNPOの公式サイトには、共用の広々としたリビング・ダイニングで、小学生や幼児が中年女性と一緒に遊んでいる写真が載っていた。一見、兄妹と母親に見えるが、コンセプトからすると全員が他人同士なのかもしれない。各戸にある水回りとは別に、共用の巨大なキッチンと洗濯ルームがあり、キッチンでは定期的に当番が皆のために食事を作るのだという。この住まい方が北欧で始まったときから、家事の負荷軽減は重要な理念の一つだと書いてある。
サイトにはクリスマスやお花見などの季節イベントの写真もあり、住人たちはとても仲が良さそうだった。他の住人との交流が前提のマンションなんて、私なら考えただけで暗澹たる気持ちになるが、ひとり親家庭となった二人には、確かに理想的な環境に見えた。
葬式で会ってから、私はなし崩し的に江藤夫妻、そして兄と連絡を取るようになり、大我の新学年が始まる前に、父子は無事にココ・アパートメントへ引っ越した。兄は妻を亡くしたショックと新たな生活基盤を築くためにしばらくは休職していたが、無事に復職して激務に戻った。以来一年半、大我は江藤家や他の家族のお世話になりながら、すくすく成長している。私はといえば、ごくたまにではあるが、江藤家の都合がつかないときなど、兄に請われるままに、大我の面倒を見るようになってしまった。
初めて大我と二人で過ごすことになった日は、柄にもなく緊張した。兄が日帰り出張先の荒天で足止めをくい、帰れなくなってしまったときだった。江藤家は家族の半分がヘルパンギーナなる感染症に罹患してしまい、頼れなかった。
私は大人として子供と遊んだ経験がほとんどなく、職場からアパートメントへ向かう電車で必死に「小学二年生 遊び」と検索した。牛乳パックで作る夏休みの自由工作のアイデアやら、公園遊びが如何に子供の発達にいいかを説くものやら、まるで役に立たない情報ばかりで、当時も検索エンジンが恨めしくなった。会社帰りの身で、飲み終えた牛乳パックなどあるわけもなく、夜の公園で追いかけっこなどしたら近所迷惑だ。
何より、私は子供が苦手だった。結婚願望が薄かったのもそれが大きい。十代や二十代の若い頃は特に、乳幼児以外の子供をどうしても可愛いと思えなかった。なまじ自我が芽生えた子供は、理屈が通らないわりに自己主張は全開で、その傍若無人っぷりに辟易するのだ。最も苦手だったのは、ドタバタと暴れることに無上の喜びを感じ、周りの迷惑を一切顧みない小学生男子の集団だった。加齢と共に受け流せるようになったが、今でも子供好きとはとても言えない。
心配に反し、当時小二だった大我は暴れもせず、騒ぐこともなく、首を引っ込めた亀のように沈黙していた。彼は小学生の群れではなく、一人の子供だった。
「大我くんの好きなものとかわからなかったから、お弁当を適当に買ったんだけど、唐揚げとハンバーグ、どっちがいい?」
兄の部屋のキッチンで、なんとか箸やヤカンの在処を見つけて尋ねると、大我は長く下を向いて沈黙したあと、蚊の鳴くような声で言った。
「……どっちでもいい」
「じゃあとりあえず温めるから、中身を見てから選んで。あとスープは、キノコとかワカメとかシジミとか色々買ってみたんだけど、どれがいい?」
「……どれでもいい」
デザートに買ってきたアイスも、おそらく同じような返事だろうと予想すると、頭を抱えたくなった。こっちも仕事帰りで疲れているところに、家とは真逆の方向の見知らぬ街へ、わざわざ電車を乗り継いで駆けつけたのだ。しかも血が薄く繋がっているだけの、ほとんど知らない子供のために。
『隣人のうたはうるさくて、ときどきやさしい』は全4回で連日公開予定