大我は風呂のあと、すんなりとベッドに入ってくれた。まだ眠くないなどとぐずられたらどうしていいのかわからないのでホッとする。私はといえば、やはり兄が整えておいてくれたソファベッドではうまく寛げない。花野ちゃんが読んでいた漫画を借りようと共用リビングに来てみれば、先客が三人もいた。
「由美子さんこんばんは。そういえばゲスト宿泊の連絡メールが来てましたね」
「ちょっとだけ一緒に飲みません? 女子会開催中なんです」
ここで彼氏と同棲しているという茜さんと、中国からの研究者らしいチェンシーさん、そして花野ちゃんのお母さんの聡美さんが、部屋着姿にすっぴんでくつろいでいた。サイドテーブルには缶ビールやワインボトルが並んでいる。ココ・アパートメントでは、敷居の内には三人の敵ならぬ、三人の飲み仲間がいる。
「兄が出張で、シッターに来ました。一杯いただいちゃおうかな」
どーぞどーぞと促されるまま、ソファの向かいの椅子に腰を下ろすと、すでにできあがっている聡美さんがタンブラーグラスに白ワインを注いで渡してくれた。いつものキリッとした佇まいが、アルコールでゆるんで柔らかくなっている。
「義徳さん、相変わらず敦子さんたち以外に頼り難いみたいですねー。花野もずいぶんしっかりしてきたし、急なときは家にも来てもらっていいですからねー。大ちゃんにも、遠慮なくおいでと言ってあるんで」
「私が来たとき、ここで花野ちゃんと一緒に漫画を読んでました。おやつにクッキーをもらったみたいで、ありがとうございます。今日は接待だったとか?」
「そーなんですぅ。気を遣うばかりの席で、お料理もお酒も味がしなかったから、一日をいい酒で締めようと思ってー」
姐さんお疲れさまです、とチェンシーさんが聡美さんのグラスに自分の缶ビールを合わせ、流暢な日本語で続けた。
「義徳さんも忙しそうですね。最近ほとんどここで見かけてない気がする」
「新規で大口の取引先を開拓したばかりなのに、担当がひとり辞めちゃったそうで。皆さんにもご迷惑をかけてないといいんですけど」
「みんな大変なときはあるんだから、持ちつ持たれつですよー」と聡美さん。
「でも実は、義徳さんに限らず、定例会への参加とか、コハン作りとか、しばらくできていない人が多いことにどう対応していこうかって議題が出てるんです。うちの相方もここのところ休日出勤が重なったりで、コミッティーの仕事も疎かになっちゃって」
茜さんが申し訳なさそうに言う。
本来は皆が月一回コハンを担当し、定例会にも参加するルールなのだが、強制ではないところに、感染症の大流行やら共用冷蔵庫の故障やら、各自の仕事や家族の事情やらで、コハンの実施が間遠になったり、定例会参加率が落ちたりしているそうだ。兄が入居まもない頃に初めてコハンを担当したときは招待をもらったが、友人との予定があって行けなかった。あれから彼はどれくらいコハンを作れたのだろう。
「もっとコハンがないと生活が困ると思いつつ、私も当番に入れるのはほとんどが週末の簡単なランチばっかりだからなぁー。康子さんがキノコの炊き込みご飯をおにぎりにして、残業組のために取っておいてくれたときとかホント沁みて、私も自分が作るときは頑張ろうって思ってたのに」
「でもこのあいだ聡美さんが作ってくれたさつまいものポタージュ、最高でしたよ。あんな美味しいの家で作れるんだってびっくりした」
茜さんが言うとチェンシーさんもまいうー、まいうーとお気に入りの日本語で賛同する。
「ハンドミキサー買ってからポタージュ作りにはまっちゃってー。気に入ってもらえてなによりでーす」
ここにも超人のようなワーキングマザーがいる。私は小さく首を垂れた。
「今日、大我に料理ができるか聞かれました。私が来るときはいつも外食やデリバリーだから、疑われちゃったみたい」
「大我、まさか得意料理なんて聞いてこなかったですよね?」
心なしかチェンシーさんの鼻息が荒くなる。
「それは聞かれなかったですけど……?」
「チェンシーちゃんがこのあいだ誘われて合コンへ行ったら、女性みんなが得意料理を言わされたんだそうです。男性陣がいちいちそれにコメントして」
茜さんが宥めるようにチェンシーさんの背中をさすりながら説明してくれた。
「私には『餃子作ったりしないの?』『オレは小籠包が好き』とか言って、『じゃあ、あなたたちの得意料理は?』と聞いたら、『料理が得意な彼女募集中』ってニヤついてんですよ。私はまーまー料理が得意ですが、お前らのために得意なわけじゃない」
思えば私が若い頃は「男を捕まえるには胃袋を掴め」とよく言われたが、歴代の彼氏は偏食家ばかりで、掴むほどの胃ではなかった。
「相手は昭和のおじさんじゃなくて若い人たちなんですよね? 令和の若者にもまだそんな男がいるんだ」
「中国の男はたくさん料理する。うちでは母より父の方が作ってた。父の得意料理は厚揚げの炒め物と私の大好きな酸辣湯で、私もそれくらい作れる人がいいって言ってやりましたよ」
「日本の男もそんなんばっかじゃないからねー……って元夫は似たようなものだったけど」
言いながら、聡美さんは冷たく笑う。
兄も義姉の生前は、おそらく家事はそんなにしていなかったのではないだろうか。兄は今と同じ職場で残業に明け暮れ、義姉は大我が生まれてからは、勤めていた会社を辞め、パートタイマーになったと聞いた。
「日本の親たちが、息子たちをそう育ててきたのでは? 賢斗の親がコハン来たとき、食前も食後もぜんぶ母が皿を運んで、父は座ったままでびっくりした」
賢斗とは、確か春に入居した高校生だ。今度は聡美さんの鼻息が荒くなった。
「昭和ドラマの世界でしたねー。あの辺の年代から上は、エリートほど女に専業主婦を求めがちですし、そりゃあ国も衰退するわー」
「でも賢斗くんはここ何回か、康子さんのコハンを頑張って手伝ってますよね。最初はひねてる印象だったけど、ちょっと変わってきたような」と茜さん。
「ここの男の人たちはコハン作るし、大丈夫だと思う。由美子さん、大我がちゃんとした大人に育つよう、頑張ってください! 応援してます」
「え、わたしは……」
チェンシーさんに強く励まされ、思わず言葉に詰まってしまった。
私は大我の成長に影響を与えるほどの関わり方はこれまでもしていないし、これからもしないだろう。あくまで突発的なときだけのシッターなのだ。
「……敦子さんや和正さんの方がよほどあの子と深く関わってくれてるし、普段の様子なんかも、皆さんの方がご存じだと思いますよ。私はそんなに懐かれていない、ただの親戚なので」
「そうですか? 前にここで二人が卓球してたとき、大我くんすごく楽しそうに見えましたけど」と茜さん。
「うーん、一応楽しそうにはしてるけど、心の奥底は見せてくれないというか」
「親にだって全部は見せてくれませんよー。子供とはいえ一人の人間、全部知るなんて無理無理。私だって花野にすべてをぶっちゃけることなんてできない……」
そう言う聡美さんは、眠気が限界なのか、ほとんど半目になっている。
「子供たちが心を開いてくれてるかはわからないけど、気にかけてるよって伝われば、それでいいんじゃないでしょうか。親とか先生とか、子供を責任持って育てる立場にはぜんぜんないんだけど、見守る気持ちは持ってる大人がたくさんいるのが、ここのいいところですしね」
茜さんがしみじみと言う。同棲中の彼と、そろそろ結婚や子供のことを考えているのかもしれない。
「確かに、子供は好きでも嫌いでもなかったけど、ここに来てから見え方が変わった」
賢斗くんが来るまで、他の住人に比べて飛び抜けて年若かったチェンシーさんは、子供たちにとって大きなお姉さんという存在らしく、とても好かれているようだ。
「ちゃんと信頼できる大人がたくさんいるってだーいじ! 味方は多い方がいいから。大ちゃんは少なくとも、由美子さんといるとき安心してるように見えますよー。うちみたいなシングル親家庭には、そういう人が本当に貴重なんで。義徳さんも同じだと思うなー」
敷居の外の、七人の敵ならぬ味方になら、私もなれるのだろうか。
「そうなら、いいんですけど」
翌日は二日酔い気味の頭を振り切って七時に起き、大我の朝ごはんには駅前のベーカリーで買っておいたパンを食べさせた。江藤家が郊外のショッピングモールへ誘ってくれたので、ありがたく大我を預けることにした。
「うちの車大きいから、由美子さんも来たらいいのに」
和正さんが運転席から顔を覗かせて言った。敦子さんと共に、仕事に家事育児にと大忙しのはずなのに、いつもどこかゆったりとしていて、ここにも同年代ながら超人的ペアレンツがいる、と思う。
「ちょっと早めに済ませないといけない用事があるので、今日は帰ります。ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」
電車で行き難い大型ショッピングモールには確かに少し惹かれるものがあったが、一緒に行けば、必然的に今夜のコハンまで皆と共に過ごすことになるだろう。江藤家の人々と大我、そして兄の顔を思い浮かべるだけで、どっと疲れた。週末くらい、世間様に顔向けできない顔で過ごしたい。
「じゃあまた。二人の喧嘩はじゃれあいみたいなものなんで、今後もぽーんと預けてくれちゃって大丈夫ですから。ホラ大ちゃん、由美子さん帰るって。挨拶しなー!」
既に後部座席に乗り込んで、龍介くんとその兄の晴暢くんとの指相撲に夢中になっていた大我は、敦子さんに促され、「バイバーイ」とひどくあっさりとした挨拶をよこした。
その日は取引先でのミーティング後、リモートで作業する承認を上司から取り付けていて、私は朝から少し浮き立っていた。
長い会議を終えて外に出てみれば、周囲はまだまだ西日で薄明るい。眺めのいいカフェで甘いものをつつきながら仕事をしようか、作業が早めに終わったら久しぶりに映画もいいかも、などと妄想しつつ都心のオフィス街を歩いていると、スマートフォンが震えた。兄からの着信だった。普段はメッセージで連絡が来るから、嫌な予感しかしない。恐々通話ボタンを押すと、案の定、切羽詰まった声で、大我を学校まで迎えに行ってもらえないか、と相談された。同級生と喧嘩をしてしまったらしい。
「本当に申し訳ないですが、担任の先生が『江藤さんじゃなく保護者の方で』と。僕がいま日帰りの出張先なので、最短で着けるのが七時過ぎで……」
「私で保護者の代わりになるのかな? 今日はこれからリモートワークになるんで、時間は大丈夫ですけど」
しかもちょうど最寄駅を通る接続線に乗れば、兄たちの駅まで一本で行ける。でも江藤さんやココ・アパートメントの居住者たちの方が、血縁である私よりよほど、普段の大我の様子にも詳しく、小学校の事情にも明るいのに、とも思う。
「どうしても僕が無理なら他の家族の人でいい、と言われました。今後はちょっとうちの状況について学校側とも協議しようと思いますが、今日だけ保護者代理として行ってもらえたら、本当に助かる」
「了解です。すぐに向かうけど、喧嘩って何があったの?」
聞けば、大我が同じクラスの女の子とサンタがいる・いない、で言い合いになり、手が出てしまったそうだ。相手の頬をぶった拍子に爪が引っかかり、少し出血させてしまったらしい。相手の子のぶたれた箇所はまだ腫れているので、向こうも親が迎えに来るのだと言う。
保護者検定なるものがあるなら、相当上級者向けのシチュエーションだ。たじろぐ私をよそに、兄は小学校の受付手続きと、正門から大我のいる教室までの行き方を、懇切丁寧に説明してくれた。
到着した駅から南へ延びる道を、ココ・アパートメントへ向かういつもの角で曲がらずにそのまま進むと、やがて小学校の高いフェンスが見えた。下校時間は過ぎているはずだが、紅葉を始めた桜並木の向こうで、まだ多くの子供たちが校庭を駆け回っている。
がらんとした教室で担任の先生と二人きりで待っていた大我は、心なしかいつもより小さく見えて、ひどく萎れた様子に、親でなくとも胸が痛んだ。
「東原くん、普段は本当に穏やかで、喧嘩なんて珍しいんですよ。本人もすごく反省して、相手の子にもちゃんと謝ったので、あまり怒らないであげてください」
服装によっては大学生にも見えそうな、私よりずっと若い担任が、「怪我させるつもりはなかったんだもんね?」と優しく大我に確認すると、本人は俯いたまま小さく頷いた。
「相手のお子さんと保護者の方にも直接お詫びしたほうがいいですよね。まだいらっしゃいますか?」
「ええ、保健室で待っていただいてます」
つるつるした静かな廊下を、先生について歩く。大我は私の隣を避けるように、少し離れてついてくる。保護者検定上級者だったなら、並んで肩でも抱いてやるのだろうか。緊張でとてもそんな余裕はなかった。
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