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 封印されていた父との記憶を辿りながら、聡子の箸は止まり、涙が溢れ出た。気づけばいつの間にか天国が戻ってきていた。聡子は正面に座っている天国に涙声で話し始めた。
「結婚してから二十年近く、一度も父を安心させられなかったんです。それは父の反対を押し切って、破天荒な夫を選んでしまった私の責任なんです。やっと安心させられると思ったら、父は死んでしまった。父との最後の会話が争いごとで終わってしまったことが、ずっと私の中でわだかまりとして残っていたんですね。苦しいと思うほどの思い出ではないと、自分に言い聞かせていただけかもしれません」
 天国は何も返してこない。聡子は続けた。
「父が亡くなって五年。その間に夫とは別れました。事業に成功した夫は、人が変わったように贅沢を好むようになって、女性関係も派手になっていったんです。結婚してからずっと、まともに生活費も稼げない夫を支えて、私はお金の心配ばかりしていました。だから両親の前でもお金の話しかしていなかったのだと思います。そして、やっと成功したら私には関心を示さなくなり、稼いだお金は外の女性に……。私にとって許しがたい裏切りでした。私は一体、夫の何を信じていたのかと悔しくてたまりませんでした。
 父には最初から見えていたのかもしれません。成功した後の夫の姿が……。だから一度も夫を認めたことがなかったんです。でも私は、そんな父を疎ましく思っていました。父が感じていた夫への不信感を私がきちんと受け止めていれば、私ももう少し早く、夫の本当の姿に気づいていたかもしれません。結局、お金に翻弄されていた自分の愚かさが分かっていなかったことが悔しくて……。最後の夜に父が私に言わんとしていたことは、理解できていました。なのに、意地になってしまった自分が情けなくて、謝りたくても謝れなくて……」
 聡子は一気に話し終えると、今度は声を上げて泣いた。それから数分ほど経っただろうか。まだ日暮れでもないのに、天国越しに見えていた窓の景色が薄暗くなり始めた。そして窓の外の木々が左右に倒れるようなしなりを見せ、真ん中から温かなオレンジ色の光が差し込んできた。聡子は、その光景に目を奪われている。
 その光とともに、聡子の父親が姿を現した。ゆっくりとその体は聡子に近づいてきて、天国の隣で立ち止まった。そして、天国に軽く会釈をしている。聡子はただただ目を見張り、その光景を凝視していた。聡子の膝は小刻みに震えていたが、体は椅子に縛り付けられたような金縛り状態で、自分の意志で動かすことができない状況なのが何となく理解できた。それでも不思議と恐怖心は感じていなかった。温かな光が心地よく、にわかに信じがたい現実離れした現象を目の当たりにしても、まだ夢の中の出来事だと思っていた。しかし、そんな聡子の考えを現実に引き戻すように天国が優しい声で話しかけた。
「野上様、あまり時間がありません。お父様に今の気持ちをお話しください。お父様に触れていただくことはできませんが、野上様の声はお父様に聞こえていますから、会話はできます」
 これは現実なのかと混乱しそうだったが、何故か聡子の心は穏やかだった。そして軽く頷くと、改めて父の顔を懐かしく思いながら見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「お父さん、ごめんなさい。三百円の“ニラ豚”が私にとって一番美味しいものだってこと、ずっとわかってたから……。お金よりも大切なもの、ちゃんとわかったから……」
「そうか。父さんも悪かったよ。まわりくどいことをしないで、ちゃんとお前に話せば良かったんだよ。お前が気にすることじゃないんだ。お前が選んだ男を好きになるよう、努力できなかったのは悪かった」
「もういいの。お父さん。あの人は、お父さんが思っていた通りの人だった……。私は本当に男を見る目がなかった。お金持ちになっても、ちっとも幸せじゃなかったのよ。むしろお金がなかった時の方が幸せだったと思う」
 聡子は、父と母が亡くなった後に離婚をしてしまったことを父に告げた。
「結局そんなことになったのか。残念だったが、良かったのかもしれん。信頼関係がなくなってしまって夫婦でいるのは、お互いが不幸なだけだ」
「子供もいなかったから、早く決断できたのかもしれない」
「でもな、あいつも根っからの悪人じゃない。それはお前もわかってるんだろう? 縁がなかっただけなんだよ。人を恨むな。恨めば、その恨みが自分に返ってきてしまう」
「うん。わかってる」
 父親が優しい笑顔で頷いている。
「それで、今はどうしてる? 寂しくないのか?」
「……一人になるのが怖かったけど、寂しいけど……幸せだから」
 聡子の目から涙が止まらない。父の目にも涙が光っていた。
「聡子。辛かったなぁ。頑張ったなぁ。でも、自分で決めたんだからいいんだよ。あの男が死ぬまでに何が間違っていたのかを気づくかどうかはわからんが、神様はさほど不公平でもないからな。もう後ろを振り返るな。過去に縛られずに、前だけを見て歩けばいい。お前は一人じゃない。父さんも母さんもお前を見てるから。父さんは聡子のことが大好きだ。お前がこうやって父さんを覚えてくれている。それだけで充分だ」
「お父さん!」
「会えて良かったよ。今日からは、毎日“ニラ豚”を食べろ! 金なんてものに振り回されるんじゃない」
 満面の笑みでそう言うと、父の体は金色の光に変わり、細かな粒子となって聡子の前から姿を消した。そしてその光の粒は、窓をすり抜け、目の前の森の中へと消えていってしまった。
 聡子は茫然と光の行く先を見つめた。光が消えると自然に金縛りは解かれて体が軽くなり、心の中にあった重苦しいわだかまりもなくなっていた。聡子は再び残りの料理に箸を伸ばし、その味を噛みしめるように完食した。天国は、聡子が食べ終わるまでじっとその様子を見守った。
「ごちそうさまでした」
 聡子は箸を置き、天国に頭を下げた。
「お父様との素敵な時間を過ごせたでしょうか?」
「ええ。久々にニラ豚を食べて、色んなことを思い出して、何だか心が軽くなりました。父はこれからの私を見守ってくれると思います。今日から父に会いたくなったら、この料理を食べます」
 聡子には、父親と再会した光景も交わした会話の記憶も残っていなかった。それがこのごはん屋のルールの一つ。料理を食べ終わると故人と再会したという現実離れした出来事の記憶は一切残らないかわりに、故人との思い出の中で後悔していたことが消え去る。そして美しい思い出だけが訪れた客の脳裏に刻まれる。思い出の料理の味とともに。
 聡子は、店を訪れるまで心の中に抱いていた天国への好奇心のことなどすっかり忘れ、深々と頭を下げると、爽快な気分で家路を急いだ。
 
 次の日の朝、聡子の身に更に不思議な現象が起きた。目覚めた時、ニラ豚を食べたことと天国シェフに会ったことは覚えていたが、どこに行って食べたのかがどうしても思い出せなかった。昨日使っていたバッグの中にレンタカー屋の領収書を見つけ、電話を入れてみた。確かにレンタカーを使用したようだったが、車のナビには履歴が何も残っていなかった。更に、天国の店から届いた予約メールもPCから消えてなくなっていた。
 
 今日もまた、一人の“おもてなし”が終わり、
 天国にとって十人目の客の記憶が浄化された。

 

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