プロローグ
人里離れた標高一千メートルほどの場所にある森の中に、ポツンと佇む一軒のログハウス。周辺では鳥が鳴く声と近くを流れる小さな川の水音が響き、人目を遠ざけるかのように家の周りには鬱蒼とした木々が生い茂っている。ログハウスの入り口までは、目の前のかろうじて道と言えるような道から緩やかなスロープを下らなければならない。
そして、そのスロープの入り口には、さりげなく看板が立てられていた。
――あなたに会える、ごはん屋――
ごはん屋の店主は、三十代半ばの男性。都心部の小洒落たレストランが似合いそうな風貌の彼が何故こんな山奥でひっそりとごはん屋なるものを営んでいるのか、その理由を想像することは難しい。
店主の携帯がかすかに鳴る。ネットから予約申し込みが入ったことを知らせてきたのだ。店主は一週間後の予約日を確認すると、予約完了のメールを送信し、今日の午後にやってくる別の客の料理を確認した。この店のホームページには、こんな文章が綴られている。
――当店では一日一名様のご予約を受付けております。
大切な人を亡くしてしまい、とても後悔している思い出はありませんか?
その方との思い出のごはんが、あなたを苦しみから解放します――
店主の名前は、天国繁。ミシュランの三つ星を獲得し、予約の取れない人気店として知られたイタリアンレストランを南青山で営んでいたオーナー兼シェフだ。長身で端整な顔立ちもあり、メディアにも登場するほどの著名人だった。しかし三年前、突然店を閉め、行方不明となっていた。オープンから僅か二年で突然姿を消した人気シェフの話題は、当時メディアにも取り上げられ、SNSもざわつき、行方不明から一カ月も経つと、様々な謎めいた噂が飛び交っていた。しかし、更に一カ月でその話題は風化していった。
そして半年前、突如天国のSNSが動いた。
――ご無沙汰しています。天国です。新しくお店をオープンしました。お心当たりがある方はご予約をお待ちしています。
#あなたに会える、ごはん屋 morinogohanya.jp――
第一話 ニラ豚
PR会社で働く野上聡子がランチタイムを前に何を食べようかと携帯を見ながら悩んでいると、ごはん仲間の友人から携帯にメッセージが飛び込んだ。
〔天国さんが、現れた! また店を始めたみたいなんだけど、ヤバい! 見て!〕
聡子はメッセージに既読をつけると、続いて送られてきたURLをタップする。四年ほど前、四十代に突入すると同時にバツイチになった聡子の気晴らしは、美味しいもの巡りだった。新しい店を見つけては休日にごはん仲間と食べ歩き、なかでも天国シェフの店はお気に入りの一軒だった。天国の店を知ったのは、偶然目にした月刊誌の記事だった。イケメンシェフの写真に心惹かれ、店を訪れたのだ。それ以来、その味と店の雰囲気がたいそう気に入り、月に一回のペースで通い詰めていた。それが三年前に突然閉店となり、メディアを騒がせたシェフもいなくなり、最近ではすっかりその存在すら忘れていた。そんな天国の料理が再び食べられるのなら、チェックしない手はない。少しの興奮を覚えながら、新しい店のサイトを訪れた。
そのサイトには、かつての洒落たイタリアンを思い出させるものは何もなく、「思い出のごはん」という文言と、「苦しみから解放します」という怪しげな一文が目に飛び込んできた。店がどこにあるのかを探してみるが、所在地情報がどこにも記載されていない。好奇心から、予約ボタンをクリックしてみる。予約に必要な情報は、思い出のごはんに付けられた名前と、簡単なレシピ、そして誰との思い出かということだった。そこまでの情報を確認した聡子は、友人にメッセージを返す。
【前の店とは全然違う感じじゃない? しかもどこにあるのか、わかんない】
友人が聡子の返事を待っていたのだろうか。すぐに既読がつき、返信が届いた。
〔謎めきすぎでしょ!?〕
【でも天国さんの料理、食べたいよね?】
〔食べたいけど、わたし、苦しんでないしなぁ、しかも一日一人だけだよ。一緒に行けないってことだよね!?〕
【だね】
貴重な昼休み前の時間にだらだらと会話をする気も起こらず、聡子は最後の二文字でメッセージを終えた。
午後からは通常どおり仕事をこなしたが、退社してから家に帰りつくまで聡子の頭の中から「思い出のごはん」という言葉が消えることはなかった。何故なら聡子には五年前に亡くなってしまった父親との思い出のごはんがあり、生きている間に伝えられなかった言葉があったからだ。苦しむほどの思い出ではないと思っていたが、いつまでも胸の中にわだかまりとして残り、忘れることができなかった。多少動機が不純かもしれないが、自分の苦しみというよりは、行方不明になってからの天国への興味も拭えず、何故こんな怪しげな店を開いたのかが気になって仕方がなかった。更に客に振舞う料理が自慢のイタリアンではなく、指定された思い出の料理だという点も聡子の好奇心を大いに掻き立てた。とりあえず天国の店を予約してみようと、聡子は思った。
一人の夕食を終えると、ノートPCを開き、再びサイトを訪れた。予約申し込みボタンをクリックする。さらに「予約状況はこちら」というボタンが表示されたが、店の住所はまだどこにも見当たらなかった。益々謎めいている。予約が完了するまで場所を教えないということなのだろうか? でも遠方すぎて行けない場所だったらどうするんだろう?
聡子は多少の不信感を抱いていたが、好奇心の方が勝ってしまい、その先へと進んだ。画面に表示されているボタンをクリックすると予約が可能な日程を確認するカレンダーが表示され、毎月一日か二日しか予約できないようになっていた。やはり、かつて人気シェフだった天国の店だ。既に店の評判が知れ渡っているのだろう。聡子は想像を膨らませながら、一番早い予約日を探す。三週間後の週末が空いていた。意外に待たなくてすむことは嬉しかったが、時間は細かな指定ができないようで、十三時、十七時の二択しかなかった。聡子は十三時を選択し、あとは必要な情報を入力する。
思い出の料理名「ニラ豚」
必要な材料「ニラ、豚のバラ肉」
簡単なレシピ「材料を塩胡椒で炒める」
誰との思い出ですか?「父」
そして、自分の名前、年齢、メールなどの個人情報を入力し、最後に予約申し込みボタンをクリックした。
それから数分後、店から予約完了のお知らせメールが届き、初めて店の住所を知った。(山梨県……)。メール内の住所をGoogle Mapにコピーし、場所を確認する。かなり山の中のようだった。最寄りの駅名はメールに記載があったが、駅からタクシーで三十分とある。山道の運転には慣れていないが、帰りを考えるとレンタカーを借りた方が良さそうだと思った。また不安よりも好奇心が勝利し、とりあえず行ってみようと決心した。
予約日当日。天国の店を予約したことは、誰にも言っていなかった。ご飯仲間からは、あの後〔どうした?〕とこちらの様子を窺うメッセージが届いたが、店に行くことを伝えてしまえば、思い出の料理や父とのことを聞かれると思うと面倒だった。
【今回はあきらめるわ。お店の場所もわかんないから、何か怪しすぎる】
そんなメッセージを返し、やり過ごしたのだ。
事前に調べた情報だと、渋滞がなければ到着まで約三時間。しかし、初めて訪れる場所で、不慣れな山道の走行ということもあり、聡子は予約時間の五時間前に家を出発した。車のナビゲーションに住所を入力し、ナビ通りに都心部から高速へと乗り入れていく。神奈川の相模湖周辺を抜けるまで渋滞に巻き込まれたが、二時間ほど余裕を持って出発したため焦ることもなく、中央道に入ってからは晴天の空を眺めながら大いにドライブを楽しんだ。山梨県に入ると富士山と南アルプス連峰が見えてくる。聡子は少しだけ窓を開けて外の空気を感じてみた。初夏と言われる季節だが、都心部は温暖化のせいで日々暑苦しさを感じなければならない。しかし目の前に富士山が見えるこの辺りの空気は、どこかヒンヤリと心地よかった。
ふと車中のディスプレイで到着時刻を確認すると十二時十五分と表示されている。家を出発してから三時間近く走行している。次の双葉SAで時間調整をすることにした。富士山を展望できることで人気のSAは、週末ということもあり、家族連れも多く賑わいをみせていた。事前のネット情報では、このSAで評判のグルメはステーキ重。ワインの搾りかすを混ぜた飼料で飼育された牛モモ肉のステーキとオニオンソースの相性が抜群らしい。折角なので、一口でも味わいたいところだったが、天国の料理の前に他のものを食べるわけにもいかず、食欲を封じ込め車から降りた。澄んだ空気を思いきり吸い込みたくて、大きな深呼吸をしながら全身を軽く伸ばし、トイレだけ済ませると、また車に乗った。
停車中の車中から雲一つない晴天の空を見上げ、天国が用意してくれる父との思い出の料理にふと思いを馳せる。五年前に突然倒れたまま帰らぬ人となった父が作る料理と言えば、ニラ豚だった。酒が好きだった父は美食家と言えるほど食べることも大好きで、美味しいものを見つけては、母を連れて食べ歩いていたようだ。そんな父が必ず自分で作って食べる料理がニラ豚だったのだ。無邪気な子供の頃は聡子の好物だったが、大人になってからはさほど感激することもない平凡な料理の一つだった。そして聡子が二十歳で結婚して家を出てからは、実家に帰るたびに必ず父が用意していた料理でもあった。二十年近く、毎回食べさせられるニラ豚に父の思いが込められていたことを、聡子は父が亡くなる日まで全く気付いていなかった。
『あなたに会える杜のごはん屋』は全4回で連日公開予定