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 しばらくして懐かしい匂いが聡子の鼻先をくすぐりだすと、どこからともなく父の声が聞こえてきた。
「焼酎にはニラ豚が一番美味い」
 父が台所に立って、料理の腕をふるっている。
「久々に娘が帰ってきたのに、いつもニラ豚なんだから。たまには他のものも作ってあげなさいよ」
 母の不満そうな声も聞こえる。
「俺が作るのはニラ豚だけ! 娘への最高のおもてなしなんだよ!」
 父がそう言って豪快に笑っている。聡子は実家に帰った時の両親とのやりとりを思い出していた。それが父との最後の夜の記憶だと知るのはもう少しあとだ。
「シンプルなんだけど美味しいよね。たまに家でも作るけど、お父さんの味と同じにならないのよ。何が違うのかなぁ……」
 毎回のニラ豚に少々飽きている聡子だったが、父の機嫌を損ねないよう、上手く会話を合わせていく。
「手の込んだ高級料理が美味いとは限らないからなぁ。父さんがいつも言ってる隠し味も忘れずに入れてるのか? 母さんにも言ってるんだが、塩胡椒とのバランスがダメなんだ」
 具材が炒められている音に父の答えが重なって聞こえてくる。
「お前も結婚してから苦労が絶えないが、最近のあの男はどうなんだ? まともに生活できるようになったのか?」
「やめてよ、お父さん。私が結婚してもう二十年近いのに、未だに“あの男”って……」
「別に本人を目の前に言ってるわけじゃないからいいだろ」
 父の声色が変わった。きっと仏頂面をして言い返しているんだろう。聡子は小さくため息をついた後、気を取り直し、今日実家に帰ってきた理由を父の背中越しに伝えた。
「お父さんとお母さんに心配をかけて本当に申し訳なかったけれど、やっと彼の仕事が上手くいって、もう生活の心配をしなくて良くなるのよ。お父さんも来年には定年でしょ? 娘のことは心配しないで、お母さんと余生を楽しんでほしいの」
 出来上がったニラ豚が盛り付けられた皿を運んでいた母が、矢継ぎ早に話しかけてきた。
「本当なの、事業が成功したって。生活が安定するの? あなたは仕事を辞められるの?」
「おいおい、そんな一度に訊ねても答えられないだろう。お前も落ち着けよ」
 父が母を追いかけて食卓に移動しながらなだめていたが、椅子に腰を下ろすと待ちきれなかったように父もまた身を乗り出して聞いてきた。
「それで、母さんが聞いたとおりなのか? 大丈夫なのか?」
 父も半信半疑なのだろうが、期待しているように聞こえた。そんな両親の姿を見ながら、聡子は嬉しかった。夫の事業が上手くいかない度に生活費を工面してもらっていた両親にやっと恩返しができるのだ。
「本当に大丈夫だから。今度は凄いの。ひょっとしたら億万長者になるかも!」
 聡子も少しはしゃいでみせた。
「今日はその報告に来たのと、まずはお父さんとお母さんに旅行でもしてほしいから、彼が海外旅行をプレゼントしたいって。だからどこに行きたいか聞いてこいって」
 聡子がはしゃぐ姿を微笑ましく見ていた父だったが、一瞬にして表情が険しくなった。聡子にはその父の変わりようが理解できなかった。
「そういうことなら、何故“あの男”も一緒に来ないんだ! 旅行? そんなものはどうでもいい。これまでお前に苦労をかけたことを詫びたのか? どこまでも浮ついているところが、どうも気に入らん」
 父の憮然とした様子が頭に浮かんだ時、父と交わした最後のやりとりの記憶が蘇った。父が亡くなってから、聡子の心が封印していた出来事だ。

 頭の中に霧がかかったような重たい感覚を振り払おうとしていた矢先、天国が出来上がった料理を運んで来た。
「お待たせしました。ご予約いただいた“ニラ豚”です」
 天国の言葉で聡子は我に返った。聡子の目の前にはニラ豚とふっくらと炊き上がったご飯が並べられた。
「どうぞお召し上がりください。お父様との思い出とともに」
 そう言いながら、天国は聡子の正面に座った。聡子が不思議そうに天国を見つめる。聡子が思い出していた両親との光景が天国にも見えていたのだろうか? いや、そんなことはあり得ない。それでも聡子を優しく見つめる天国の視線が、聡子に「全てを知っていますよ」と言っているように思えてならなかった。
「冷めないうちに、どうぞ」
 天国が聡子を促した。聡子は天国への疑問を頭から振り払い、改めて料理から立ち昇る温かな湯気とその香りを嗅いだ。心が落ち着いていく感覚に浸りながら、懐かしいニラ豚を眺めた。父が作っていたのと同じように、ニラは炒めすぎておらず、緑色の葉が鮮やかに発色し、ピンと背筋を伸ばしているように皿の上に載っている。聡子は豚肉とニラを合わせて箸でつかみ、口の中へと運んだ。塩胡椒のシンプルな味付けが口の中に広がった後、新鮮なニラの香りとシャキシャキとした歯応えに、脂身の強い豚のバラ肉の甘味が程よく絡みついてきた。その食感を楽しんでいた矢先、聡子の口の動きが不意に止まった。父が隠し味だと言っていたカツオ出汁の味が口の中に残るのを感じたからだ。更にその味だけでなく、少し塩味を感じるような塩胡椒のバランスは父が作るものと一ミリの誤差もないことに驚いた。聡子は、正面の天国の顔を凝視したまま、口の中のものをゆっくりと飲み込むと、一度静かに箸を置いた。
「父の味そのものです。父が作ったものと全く変わらない。隠し味にカツオの出汁を使うことをお伝えしていなかったと思いますが、何故お分かりになったのですか?」
 聡子の問いかけには答えず、天国はただ優しく微笑みながら言った。
「どうぞゆっくりお召し上がりください。お父様との記憶が更に蘇ってくるかと思います」
 天国はそう言うと席を立ちあがり、またキッチンの方へと戻っていった。
 聡子は天国が何故質問に答えてくれないのかと、少し不満だったが、追いかけて問いただすこともないと思い、促されるまま箸をすすめニラ豚を口に頬張った。するとまたどこからか、父の声が聞こえてきた。それは、聡子の中で無意識に封印していた父との最後の会話だった。

「彼は浮ついてなんかない! 今日一緒に来なかったのは、大事な打ち合わせがあったから……。何でいつまでも彼を悪く言うの? どうすれば彼を認めてくれるの? お金を稼ぐことが彼の夢なんだから、やっとその夢が叶うのに、なんでもっと喜んでくれないの?」
 聡子は少しだけ声を荒らげてしまった。
「夢か……。夢な。お前もあんな男とくっつくから、金に翻弄される人生を何とも思わなくなったのか!? 金を稼いだら、その後はどうするんだ。金のために子供まであきらめてたんだろう?」
 聡子は実家に帰るたびに両親の口から出てくる子供の話には辟易していた。生活が苦しかったことも子供を作らない理由の一つではあったが、聡子自身母になることへの願望が強い方ではなかった。高齢出産手前まで、夫婦の時間を楽しみたいという思いの方が強かったのだ。孫の誕生を楽しみにしている両親には申し訳なかったが、子作りのために結婚したわけではないと常に反発してきた。聡子は今更子供の話を蒸し返したくないと思い、そのことには触れずに言い返した。
「お金を稼いだ後のことはそれから考えればいいんじゃない? お金があれば、何でも手に入れられるじゃない」
「お前たちを見てると、世の中は金が全てなのかと思えてきて情けないよ」
 父は寂しそうに、コップに入った焼酎を一気に飲み干した。
「お父さん、そんな飲み方しないで。体に悪いから。聡子も意地にならないで」
 母が二人の間に挟まれて、困り顔をのぞかせた。一気に酔いがまわったのだろうか、顔を赤らめた父が母の言葉を無視して、話し始めた。
「聡子、父さんがなんでお前にニラ豚を食わすのか、その理由を考えたことがあるのか? わからんだろうな、今のお前には……」
 聡子は、呆れていた。毎回実家で食べさせられるニラ豚に何の理由があるのか?
「何それ? お父さんが作れる料理がこれしかないからなんじゃないの?」
 少し言い過ぎたかと、一瞬後悔した。しかし父は聡子のキツイ物言いには反応を見せず、しみじみと語り始めた。
「世の中は、お金が全てじゃないんだよ。ニラが百円。豚肉が二百円。三百円でできる御馳走だ。三百円でも人の心を和ませて、満足させてくれるってことなんだ。美味いものを食べた時の笑顔は、同じだろ? 何万もする料理を食べれば、満足感が違うのか? 笑顔が違うのか? 同じなんだよ。金があっても幸せとは限らん。金がなくても不幸せとは限らないんだ」
 父が言わんとすることは充分に理解できたが、聡子はもう意地になっていた。母にたしなめられても、もう後戻りができない。
「三万円のコース料理とニラ豚は比べられない。そんなのナンセンス! お金をかければ満足度は上がるに決まってる。生涯稼げる金額が決まっている公務員のお父さんとはいくら話をしても無駄よ」
「父さんにはあの男の仕事は理解できん。M&Aなどと聞こえはいいが、所詮人の会社に土足で踏み入るようなもんだろう。投資だってそうだ。博打じゃないのか? 父さんの考えが古いのかもしれんが、お金なんてものは汗水垂らして稼ぐものだろう。一瞬にして何千万も、何億も手にできる仕事は信用できない。父さんにあの男のように大きな金は手にできないが、それを必要とも思わない。金は人の本質を炙り出す代物だ。恐ろしいとは思わないか?」
「買収も投資も立派な仕事よ。お金がないと心が貧しくなる。その方がずっと恐いんじゃないの?」
「そうか……。お前はお金さえあれば、幸せだと思ってるんだな。世の中は全て金なのか……」
 聡子が父の言葉に更に言い返そうとしたが、母が聡子の腕をつかみ、それを制した。父はまた、焼酎を飲み干し、言葉を繋いだ。
「まあ、金を持ってみればいい。そうすればわかるさ。何が幸せなのか……。父さんは風呂に入るから、母さんとゆっくり話でもしていけばいい」
 そういって立ち上がった父は、突然「うっ!」と一言呻き声をあげ、その場に倒れこんだ。聡子はうろたえる母をなだめながら、ひたすら冷静を装い、救急車が到着するのを待った。意識がなくなった父は、その場で眠っているようにも見えた。苦しそうな表情もしていない。聡子は母と一緒に父の傍に寄り添い、一言の言葉も発することもなく、静かに父の顔を見つめていた。救急隊員が到着してからは、急に慌ただしくなり、そのまま救急車に乗り込み病院へと向かった。車の中ではまだ息をしていた父だったが、手術室から生きて戻ることはなく、そのまま帰らぬ人となってしまった。死因は、くも膜下出血だった。

 

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